■ 第十章「隣にいろ、ずっと」
七月。
夏の匂いがし始めた蒼嶺高校で、2年3組の席替えがあった。
担任が引いたくじの結果を黒板に書いていく。クラスがざわつく。
「やだー、窓際がいいー」「俺後ろがいい」「誰の隣だろ」
陽和はくじの紙を開いて、番号を確認した。窓側の後ろから三番目。今までとは一列違う。
蓮司の番号を探す。黒板に書かれていく名前を目で追う。
窓側の後ろから三番目の——隣。
陽和は蓮司を見た。蓮司も黒板を見ていた。表情は変わらない。いつもの無愛想。でも、ほんの一瞬だけ——本当に一瞬だけ——口元が動いた。
「蓮司」
「ん」
「また隣だね」
「……くじだろ。たまたまだ」
「たまたまが続くね、私たち」
「……ああ」
蓮司は新しい席に鞄を置いた。窓際。陽和が隣に座る。角度が少し変わった。でも距離は同じ。手を伸ばせば届く距離。
真白は三列前になった。振り返って、二人を見て、小さくガッツポーズした。
田中は反対側の端になった。遠くから「おーい朝霧、遠いぞー」と手を振っている。蓮司は片手を上げて応えた。
新しい席。新しい景色。でも隣だけは変わらない。
陽和はそれが嬉しくて、なんだか泣きそうだった。泣かなかったけど。
七月の日々は、甘かった。
甘いと言っても、劇的な何かが起きるわけではなかった。
朝。蓮司が陽和の家の前で待っている。「おはよう」「おう」。手を繋いで歩く。校門の前で離す。並んで教室に入る。
授業中。陽和がノートの端に小さく落書きを描く。蓮司の横顔とか、猫とか、ハートとか。蓮司がそれに気づいて、自分のノートの端に矢印を描く。矢印の先に一言。「授業聞け」。陽和が消しゴムのカスで蓮司の肘をつつく。蓮司が舌打ちする。先生に当てられそうになって、二人で姿勢を正す。
昼休み。陽和の周りに人が集まる。蓮司は自分の席で弁当を食べる。陽和の母からの差し入れは続いている。最近はおかずの量が増えた。メモも増えた。「蓮司くん、夏バテしないようにね」「ひよりをお願いします」「週末うちでごはん食べていきなさい」。
蓮司は全部のメモを引き出しにしまっている。捨てられない。七瀬家の人々の文字が、全部温かくて。
陽和が人に囲まれている間、蓮司は本を読んだり、スマホを見たり、窓の外を眺めたりしている。以前はその時間が苦しかった。陽和が誰かに笑うたびに胸がざらついた。
今は違う。
陽和が誰かに笑って、ふとこちらを見る。目が合う。ほんの一瞬、陽和の目が「ちゃんといるよ」と言っている。蓮司は小さく頷く。それだけで、ざらつきは消えた。
陽和の笑顔はみんなのものだ。でも、あの一瞬の視線は——蓮司だけのものだった。
それが分かってからは、怖くなくなった。
放課後は、二人で帰る。
部活がある日は、陽和が図書室で待っている。蓮司がバスケの練習を終えて、汗を拭きながら図書室に来ると、陽和は机に突っ伏して寝ていたりする。
「……おい、起きろ」
「んー……あと五分……」
「帰るぞ」
「……蓮司、汗くさい」
「じゃあ近づくな」
「やだ。汗くさいけど好き」
「……意味分かんねえ」
陽和が目をこすりながら立ち上がる。鞄を持つ。蓮司が陽和の分の鞄も持とうとすると、「自分で持てるよ」と言われる。でも重い日は素直に渡してくる。蓮司はそれが嫌じゃなかった。
帰り道。蓮司が車道側。陽和が内側。手は繋ぐ日と繋がない日がある。繋がない日は、肩が触れる距離を歩く。繋ぐ日は、蓮司からのことが多くなった。
「蓮司から繋いでくれる率、上がったよね」
「……気のせいだろ」
「気のせいじゃない。先週は五日中四日だった」
「数えんな」
「数える。大事な記録だもん」
蓮司は呆れた顔をして——でも、手は離さなかった。
ある日の放課後。
二人は屋上にいた。あの、鍵が壊れている屋上。二人だけの場所。
期末テストが近くて、蓮司が陽和に数学を教えていた。
「ここ、Xに代入してから両辺を——」
「待って待って、代入ってどこに?」
「ここ。この式のXに、上で求めた値を入れる」
「えっと……3?」
「それはYだ」
「あーーー」
陽和が頭を抱える。蓮司はシャーペンで教科書を指しながら、もう一度説明する。三回目。同じ箇所。でも声は苛立っていない。
「……ここまでは分かるか?」
「うん。ここまでは分かる」
「じゃあ、ここからは自分でやってみろ」
陽和がノートに向かう。シャーペンを握って、眉を寄せて、唇を少し尖らせて。集中している顔。
蓮司はその横顔を見ていた。
見ていて——ふと、思った。
こうやって隣にいることが、ずっと続けばいいと。
テスト勉強を教えるとか、一緒に帰るとか、窓越しにおやすみを言うとか、そういう些細なことの全部が、ずっと続けばいいと。
「……蓮司?」
「ん」
「見てた?」
「見てねえ」
「見てたでしょ。——答え合ってる?」
蓮司は陽和のノートを覗き込んだ。
「……合ってる」
「やった!」
陽和がガッツポーズをする。蓮司はノートに赤ペンで丸をつけてやった。
「蓮司先生の丸、嬉しい」
「先生はやめろ」
「家庭教師でもいいよ。時給は愛情で」
「……払えねえよ、そんなもん」
「払えるでしょ」
陽和がにっと笑う。蓮司は赤ペンのキャップを閉めて、空を見上げた。
「……払えるかもな」
小さく言った。聞こえるか聞こえないかくらいの声で。
陽和は聞こえていた。聞こえていたけど、聞こえないふりをした。嬉しすぎて、反応したら泣きそうだったから。
七月の最後の週。終業式の日。
教室で通知表を受け取って、大掃除をして、ホームルームが終わった。
「夏休みだー!」
クラスが沸く。予定の話、旅行の話、部活の話、花火の話。
陽和の周りにも人が集まった。
「ひよりん、夏祭り一緒に行こうよ!」
「花火大会いつだっけ?」
「ひよりちゃん、BBQの日程出たよ!」
陽和はいつも通り笑って応じた。でも、ちらりと蓮司を見た。
蓮司は自分の席で鞄に荷物を詰めていた。目が合った。蓮司は小さく頷いた。「行ってこい」の合図だ。
陽和は友人たちとの予定を入れながら、心の中で蓮司の頷きを抱きしめた。
以前なら蓮司は不機嫌になっていただろう。陽和が他の誰かとの予定を楽しそうに話すたびに、イヤホンの音量を上げていただろう。
今は違う。
蓮司は分かっている。陽和が誰と過ごしても、帰ってくる場所は隣の家で、隣の席で、隣にいるのは自分だと。
それだけの自信が、今の蓮司にはあった。
陽和がくれた自信だった。
終業式の帰り道。
いつもの道。手を繋いで歩く。でも今日は、少しだけ遠回りをした。蓮司が、何も言わずにいつもと違う角を曲がった。
「蓮司、道違うよ」
「……分かってる」
「どこ行くの?」
「……ちょっと寄りたいとこがある」
着いたのは、あの丘の上の空き地だった。
あの雨の夜に、陽和が泣いていた場所。蓮司が走ってきた場所。
六月の終わりとは景色が全然違った。草は青々と茂り、空は真っ青で、入道雲が遠くに見える。あの日は真っ暗で、雨が降っていて、何も見えなかった。
今は——全部見える。
「……ここ、昼間に来ると全然違うね」
陽和が見回しながら言った。
「……ああ」
蓮司は丘の頂上に立って、空を見上げた。陽和も並んで立った。
風が吹いている。夏の風。乾いていて、温かい。
「ここでさ」
陽和が言った。
「蓮司が来てくれた時、私——ほんとに嬉しかった。泣いてたけど。苦しかったけど。蓮司の声が聞こえた瞬間、全部——大丈夫になった」
「……」
「『探した』って。あの一言で、私——もう一人じゃないんだって思ったの」
蓮司は隣に立つ陽和を見下ろした。風で髪が揺れている。目は空を見ている。睫毛に日光が透けている。
「……俺は」
「うん」
「あの日、走ってる時——何も考えてなかった」
「うん」
「おまえがいないって分かった瞬間、頭の中が全部消えた。怒りも恐怖も嫉妬もプライドも、全部なくなって——ただ、おまえを探さなきゃって、それしかなかった」
陽和は蓮司を見上げた。
蓮司は前を向いたまま、続けた。
「あの時初めて分かった。俺にとっておまえが何なのか。幼なじみとか、好きな人とか、彼女とか——そういう言葉じゃ足りないくらい、おまえは俺の——」
言葉を探している。いちばん正確な、いちばんまっすぐな言葉を。
「——全部だ」
陽和の呼吸が止まった。
「おまえは俺の全部だ。それが重いのは分かってる。でも——それ以外の言い方が見つからねえ」
蓮司は陽和を見た。耳は赤い。顔も少し赤い。でも目は逸らさなかった。
陽和は泣いていなかった。泣きそうでもなかった。ただ、胸の奥のいちばん深いところに、蓮司の言葉がゆっくり沈んでいくのを感じていた。
あたたかい。重い。でもその重さが心地いい。
「……蓮司」
「ん」
「重くないよ」
「……嘘つけ。重いだろ、どう考えても」
「重くない。だって——私も同じだから」
蓮司の目がわずかに揺れた。
「蓮司は私の全部だよ。隣の席も、帰り道も、屋上も、窓越しのおやすみも、消しゴムの数式も、クリームパンも、ペンキのハンカチも——全部全部、蓮司で出来てる」
風が吹いた。二人の間を通り抜けていった。
「だから——重くない。同じ重さだもん。釣り合ってるよ、私たち」
蓮司は口元を手で覆った。また目が潤んでいる。夏の日差しのせいにはできない。
「……おまえ、ほんとに——ほんとに反則だわ」
「蓮司に言われたくないって、何回言わせるの」
二人は顔を見合わせて——同時に笑った。
屋上でも、雨の中でも、夕焼けの帰り道でもなく——真夏の青空の下で、二人は笑っていた。
涙はなかった。不安もなかった。ただ、嬉しくて、幸せで、隣にいることが当たり前で。
蓮司は陽和の手を取った。リングとリングが触れて、かちりと小さな音がした。
「……夏休み」
「うん」
「花火大会、行くか」
「行く。蓮司と」
「……あと、夏祭りも」
「え、蓮司が人混み行くの? 珍しい」
「……おまえが浴衣着るなら、見てやらなくもない」
「見てやるって何。——着るよ。蓮司のために着る」
蓮司の耳が赤くなった。想像したのだろう。陽和の浴衣姿を。
「……蓮司、今めっちゃ想像したでしょ」
「してねえ」
「した。耳が証拠」
「……耳は関係ねえ」
「蓮司の耳は全部バラす。嘘発見器みたいなもんだよ」
「……その機能いらねえ」
陽和がけらけら笑う。蓮司は呆れた顔をしながら、繋いだ手を離さなかった。
丘を降りて、住宅街を歩いた。
夏の午後。蝉が鳴き始めている。アスファルトが陽炎を立てている。二人の影が長く伸びている。
「ねえ蓮司」
「ん」
「ずっとこうしてたいね」
「……こうって?」
「こう。蓮司と手繋いで歩いてるの。帰り道。——これがずっと続いたらいいなって」
蓮司は少し黙って、それから答えた。
「……続けるだろ」
「うん」
「続けるに決まってんだろ。俺が隣にいる限り」
「いなくなんないでよ」
「いなくなるわけねえだろ。家隣なんだから」
陽和が吹き出した。
「それ、ロマンチックなのか現実的なのか分かんないね」
「両方だ」
「……蓮司、たまにすごいこと言うよね」
家の前に着いた。左が七瀬家。右が朝霧家。
いつもの場所。いつもの分かれ道。でも、もう分かれ道ではなかった。隣同士の、続いている道だった。
「じゃあ蓮司、また明日」
「ああ」
手を離す。指先が最後に触れて、するりとほどけた。
陽和が門に手をかけた。振り返った。
「蓮司」
「ん」
「大好きだよ」
蓮司はもう固まらなかった。三秒待たなかった。
「……俺もだ」
短く。でもはっきりと。
陽和が花が咲くみたいに笑った。あの笑い方。目がくしゃっとなる、蓮司がいちばん好きな笑い方。
「——夏休み、いっぱい会おうね」
「隣に住んでんだから嫌でも会うだろ」
「嫌なの?」
「……嫌じゃねえ。嫌なわけねえだろ」
「ふふ、知ってる」
陽和が家に入った。玄関のドアが閉まった。
蓮司は自分の家の前に立ったまま、少しだけ空を見上げた。
夏の空は高くて青くて、入道雲が白く光っていた。
蓮司は笑った。声には出さなかったけど、口元が緩んで、目が少し細くなって、穏やかに。
誰にも見せたことのない顔だった。陽和にも、まだ見せていない顔。
でもいつか見せるだろう。いつか——陽和の前で、自然に笑えるようになる日が来る。
蓮司は家に入った。靴を脱いで、階段を上がって、部屋に入った。
窓を開けた。
隣の窓も開いた。
陽和が顔を出す。
「蓮司」
「ん」
「……えへへ」
「何だよ」
「何でもない。顔見たかっただけ」
「……それ、俺の台詞だろ」
「パクった」
「……勝手にパクんな」
陽和がくすくす笑う。蓮司も口元が緩む。
窓と窓。三メートルもない距離。この距離を、二人はこれからもずっと行き来する。
言葉を交わして、笑って、時々喧嘩して、たまに泣いて、それでも隣にいて。
「蓮司」
「ん」
「隣にいてね。ずっと」
蓮司は窓枠に肘をついて、陽和を見た。
夕日が沈む前の、いちばん優しい光が、陽和の笑顔を照らしていた。
「——ずっといる」
短い言葉だった。
でもその四文字に、蓮司の全部が込められていた。
過去の臆病も、不器用な優しさも、飲み込んだ言葉たちも、走った夜も、握った手の温度も、リングの冷たさと温かさも——全部。
陽和は目を細めた。泣いてはいなかった。ただ、幸せそうだった。
「……うん」
それだけ。それだけで十分だった。
風が吹いた。夏の始まりの風。二人の窓の間を通り抜けて、どこかへ消えていった。
夏休みが始まる。
二人の物語は、ここから先も続いていく。隣の席で。隣の家で。隣の人生で。
ずっと。




