Another Story『おまえが笑うたびに俺は——』 ——朝霧蓮司の独白——
蓮司が表に出さなかった本音、嫉妬、恐怖、独占欲——。
一、隣の家の女の子
俺の最初の記憶は、引っ越しのトラックと、隣の家の垣根越しに覗いてきた女の子の顔だ。
五歳だった。
親父が転勤で東京に来ることになって、母さんと三人で今の家に越してきた。引っ越しの段ボールを運ぶ親父の横で、俺は所在なく立っていた。知らない街。知らない家。知らない空気。全部がよそよそしくて、心細かったのを覚えている。
その時、垣根の向こうから声がした。
「ねえねえ、おとなりさん?」
顔を上げたら、女の子が垣根の隙間から顔を突っ込んでいた。葉っぱが頬に刺さっているのに気にしていない。大きな目がきらきら光っていた。
「あたし、ひより! なんさい?」
「……ご、五歳」
「おんなじ! あたしも五さい! ねえ、ともだちになろ!」
会って十秒でそれだ。
俺は面食らって何も言えなかった。母さんが「ほら、蓮司、ご挨拶は?」と背中を押した。
「……あさぎり、れんじ」
「れんじ! れんじね! よろしくね!」
そう言って、陽和はにかっと笑った。前歯が一本抜けていた。
——これが始まりだった。
もう十二年も前のことだ。
うちの家族の話を少しする。
親父——朝霧誠一。メーカーの営業職。真面目で無口で、仕事ばかりしている人だった。俺の無愛想は親父譲りだと母さんはよく言う。
母さん——朝霧奈津。パート勤め。親父とは正反対で、よく喋る。よく笑う。でも怒ると怖い。
二人は仲がいいのか悪いのか、よく分からなかった。喧嘩はしない。でも甘い言葉も言わない。親父は「ありがとう」も「ごめん」もほとんど口にしない。母さんがご飯を作っても黙って食べる。美味い時は少しだけ頷く。不味い時は——不味い時はないから分からない。
小学生の頃は、それが普通だと思っていた。
でも、七瀬家に遊びに行くようになって気づいた。
陽和の父親は、帰ってくると「ただいま、今日も美人だなあ」と奥さんに言う。陽和の母親は「おかえり、大げさなんだから」と笑いながら抱きつく。食卓では「美味しいね」「お母さん天才!」「ひよりもいっぱい食べな」と声が飛び交う。
最初は恥ずかしかった。目のやり場に困った。
でも——温かかった。
自分の家が冷たいわけじゃない。親父も母さんも俺を大事にしてくれている。ただ、うちの家族は言葉にしないのだ。全部、態度で示す。親父は毎朝俺の靴を揃えてから出勤する。母さんは俺が風邪をひくと仕事を休む。弁当には必ず俺の好きなおかずが入っている。
愛情はある。言葉がないだけだ。
俺はそれを受け継いだ。
好きだと言えない。ありがとうが言えない。大事だと言えない。全部態度で示して、言葉は飲み込む。
それが朝霧家の血だった。
中学に入った頃、親父の仕事が忙しくなった。
帰りが遅くなって、週末も出勤するようになった。食卓に親父の席が空いている日が増えた。
母さんは何も言わなかった。文句も愚痴も言わず、いつも通りご飯を作って、いつも通り笑って、いつも通り「おかえり」と言った。でも、たまに台所でぼんやり立っていることがあった。何もしていない。ただ流しの前に立って、外を見ている。
俺はそれを見るたびに、胸の奥が痛かった。
何か言えばいいのに。寂しいなら寂しいと言えばいいのに。親父に、もっと早く帰ってこいと言えばいいのに。
——でも言えない。朝霧家だから。
中学二年の冬。親父が倒れた。過労だった。
大事には至らなかった。一週間入院して、退院した。医者に「もう少し休んでください」と言われて、親父は「ああ」とだけ答えた。
退院の日、母さんが迎えに行って、俺も一緒について行った。
病室で親父は荷物をまとめていた。母さんが鞄を受け取った。
「重いわね。私が持つわ」
「いい。自分で持てる」
「いいから貸しなさい」
母さんが鞄をひったくった。親父がばつの悪そうな顔をした。
廊下を歩きながら、親父がぽつりと言った。
「……迷惑かけたな」
母さんは足を止めなかった。前を向いたまま答えた。
「迷惑なんて思ってない。——でも、もう少し自分を大事にしてくれないと、私が困る」
親父が黙った。
母さんが続けた。
「あなたがいないと、ごはんの味が分からないのよ。感想言ってくれないでしょ、あなた。でも食べてくれるだけで分かるの。美味しいかどうか。——それがないと、何作っていいか分かんなくなるの」
親父がまた黙った。長い沈黙だった。
病院の廊下は白くて、蛍光灯が明るくて、二人の足音だけが響いていた。
親父が母さんの隣に並んで、鞄の持ち手を一緒に掴んだ。半分持つように。
「……すまなかった」
「もう言わなくていいわ。帰りましょう」
それだけだった。ドラマみたいな台詞なんてない。抱き合ったりもしない。ただ、鞄の持ち手を二人で持って歩いた。
俺は二人の後ろを歩きながら、泣きそうになっていた。
泣かなかった。朝霧家の人間は、こういう時に泣かない。
でも分かった。親父と母さんは、言葉にしないだけで——ちゃんと愛し合っている。不器用すぎて呆れるくらいに。
俺はこの人たちの子供だ。
だから俺も——こうなんだ。
好きだと言えない。でも想いはある。言葉にできないだけで、全部、ここにある。
親父が退院してから、うちの家族は少しだけ変わった。
親父の帰りが少し早くなった。週末はたまに家にいるようになった。母さんのご飯を食べて、「美味い」とは言わないが、「おかわり」と言うようになった。母さんはそのたびに嬉しそうに台所に立った。
ある夜、俺がリビングで勉強していたら、親父がコーヒーを持ってきた。俺の前に置いて、何も言わずにテレビをつけた。
「……ありがとう」
「ん」
それだけだった。でも、親父がコーヒーを淹れてくれたのは初めてだった。
母さんが台所から顔を出して、「あら、蓮司にコーヒー? 珍しい」と笑った。親父は「たまたまだ」と答えた。
——たまたま。
その言葉を聞いた時、俺は気づいた。
俺が陽和に使う「たまたま」は、親父が母さんに使う「たまたま」と同じだ。
たまたまじゃない。全然たまたまじゃない。意図がある。想いがある。でも言葉にできないから、「たまたま」で包んで差し出す。
朝霧家の男は、そうやって愛情を渡す。
不器用すぎて、笑えるくらいに。
二、名前のつけられない感情
中学の頃から、陽和の周りにはいつも人がいた。
小学生の頃は「ひよりちゃんと遊びたい」が主流だったのが、中学に入ると「七瀬さんってかわいいよな」に変わった。
最初は何も感じなかった。そうだろうな、と思った。陽和は誰にでも笑う。愛嬌がある。好かれるのは当然だ。
中学二年の秋。陽和が他のクラスの男子に告白された。
陽和本人から聞いたわけじゃない。教室の女子の会話が耳に入った。
「七瀬さん、田村くんに告白されたんだって」 「えー、どうしたの?」 「断ったらしいよ。好きな人がいるわけじゃないけど今はいいですって」
俺はその時、シャーペンの芯を二本折った。
何だこれ。胸の中がざわつく。ざらつく。気持ち悪い。田村って誰だ。知らない。知らない男が、陽和に好きだと言った。それだけのことなのに、なんでこんなに——
あの日から、名前のつけられない感情が胸の中に住み着いた。
陽和が誰かに笑うたびに、そいつの方を見るたびに、名前を呼ぶたびに。感情が暴れる。でも正体が分からない。分からないから対処できない。
高校に入って同じクラスになった時、ほっとした自分がいた。
席替えで隣になった時、心臓がうるさかった。
陽和が毎朝「おはよう、蓮司」と笑いかけてくるたびに、一日分のエネルギーを全部そこで使い切る気分だった。
そして——「かわいい」が始まった。
「ねえ蓮司、今日もかっこいいね」 「蓮司って目おっきいよね。かわいい」 「怒った顔もかわいい」 「蓮司はかわいい。決定」
最初は意味が分からなかった。からかっているのかと思った。
でも陽和は本気で言っていた。目がまっすぐだった。嘘がない目だった。
「かわいくねえし」と返すのが精一杯だった。
耳が赤くなる。自分でも分かる。でも止められない。陽和が「かわいい」と言うたびに、心臓が裏返りそうになる。
嬉しいのだ。認めたくないが、嬉しい。
でも同時に——怖い。
陽和は誰にでも「かわいい」と言うのではないか。俺だけが特別なわけではないのではないか。
その恐怖は日に日に大きくなった。
三、嫉妬の味
高校二年の春。文化祭準備が始まった頃。
嫉妬の味を知った。
苦い。鉄の味がする。舌の奥がざらつく。飲み込めない。吐き出せない。ずっと喉の奥に残る。
陽和が隣のクラスの男子と笑い合っているのを見た。そいつが陽和の髪についた紙くずを取ってやっているのを見た。
のこぎりで板を切りすぎた。
たったそれだけのことで。誰かが陽和に触れた。それだけで。
月曜日、ジュースを持ってくる男子。火曜日、三十分話し込む後輩。水曜日、荷物を持つ先輩。木曜日、「かっこいい」と言われた藤堂先輩。
毎日が地獄だった。
陽和は何も悪くない。分かっている。分かっているのに苦しい。
木曜の夜、自室のベッドで天井を見ながら考えた。
何がこんなに苦しいのか。
答えは分かっていた。分かっていて、認めたくなかっただけだ。
好きだ。
七瀬陽和が好きだ。
たぶんずっと前から。中学の時にシャーペンの芯を折った時から。いや、もっと前から。垣根の隙間から顔を出してきた時から。前歯が一本抜けた笑顔を見た時から。
認めた瞬間、楽になるかと思った。
逆だった。認めた瞬間、恐怖が何倍にも膨れ上がった。
好きだと認めた。なら——いつか失う可能性も認めなければならない。
陽和が俺じゃない誰かを選ぶ可能性。陽和の笑顔が俺から離れていく可能性。
「いつか」が来る前に——来ないと分かる前に——壊れる方がまだ楽だと思った。
だから距離を取ろうとした。
馬鹿だった。
四、消しゴムとクリームパン
消しゴムの裏に数式を書いたのは、考えてやったことじゃない。
数学の授業で陽和が当てられて、黒板の前で固まった。笑っていた。困った時に笑う癖。でも耳が赤い。恥ずかしいのだ。
気づいたら手が動いていた。消しゴムの裏にシャーペンで数式を書いて、陽和の机に置いた。
答えの全部は書かなかった。最初の二行だけ。あいつは馬鹿じゃない。取っ掛かりがあれば解ける。全部書いたら、あいつの力で解いたことにならない。
……自分でも何を考えているのか分からなかった。
席に戻ってきた陽和が小さく「ありがと」と言った。消しゴムを返す時に指先が触れた。故意だった。故意じゃないふりをした。あの一瞬の感触を、俺は一日中忘れられなかった。
クリームパンは——もっと単純だ。
通学路の途中にあのパン屋がある。陽和が「ここのクリームパン、世界一美味しい」と言ったのは中学一年の夏だった。部活帰りに二人で寄って、陽和が目を輝かせていた。
覚えていた。三年以上前の、何気ない一言を。
文化祭準備の週、陽和は毎日走り回っていた。昼飯もろくに食べていなかっただろう。朝、パン屋の前を通った時、無意識に足が止まった。
一個だけ買った。自分の分は買わなかった。
教室の陽和の机に置いて、出ていった。
見つかったら「たまたま買いすぎた」と言うつもりだった。一個だけ買いすぎるわけがないのに。
母さんに聞かれたらどう答えただろう。親父なら分かってくれたかもしれない。朝霧家の男は、みんなこうだから。
五、壊した日
屋上で陽和に「ただの幼なじみだ」と言った日のことを、俺は一生忘れないと思う。
あの日、俺は自分がいちばん恐れていたことを自分の手でやった。
陽和を泣かせた。
守りたかった笑顔を、自分の言葉で消した。
屋上に一人残されて、フェンスを拳で叩いた時——指が痛いのに、胸の方がずっと痛かった。
「蓮司の前だけは、全部本物だったの」
陽和がそう言った。泣きそうな顔で。
あの一言が、俺の嘘を全部引き剥がした。
俺は「ただの幼なじみだ」と言った。でも陽和は「蓮司の前だけは本物だった」と言った。
つまり——俺は特別だったのだ。陽和にとって。
それを聞いてなお、俺は突き放した。
何が「壊れるのが怖い」だ。壊したのは俺じゃないか。
帰り道、陽和を待たなかった。一人で帰った。家に入って、窓を開けなかった。隣の家の明かりを確認しなかった。——嘘だ。壁越しに気配を探っていた。聞こえた気がした。泣いている声。気のせいかもしれない。気のせいだと思いたかった。
眠れなかった。
親父が俺の部屋の前を通った気配がした。いつもは通り過ぎるだけなのに、今日は少しだけ足音が止まった。
数秒の沈黙のあと、足音が遠ざかった。
翌朝、台所に降りたら、母さんがいつも通り朝食を作っていた。
「あら蓮司、顔色悪いわよ。寝てないでしょ」
「……寝た」
「嘘おっしゃい。お母さんに嘘ついてもバレるわよ」
母さんは俺の前に味噌汁を置いた。いつもより具が多かった。
「何かあったの」
「……別に」
「別に、ね。お父さんと同じこと言うのね、あなたは」
母さんは向かいに座って、自分の味噌汁を飲んだ。
「お父さんもね、困った時は『別に』で済ますの。もう二十年の付き合いだから分かるけど——あの人の『別に』は、だいたい『助けてほしい』なのよ」
俺は味噌汁を飲む手を止めた。
母さんは笑った。
「蓮司の『別に』も同じでしょ。——無理に聞かないわ。でもね、一個だけ」
「……何」
「朝霧の男はね、大事なことを言葉にするのが下手なの。お父さんもそう。蓮司もそう。でもね——言わなきゃ伝わらないことって、あるのよ。態度で分かってくれる相手ばかりじゃないんだから」
母さんはそう言って、「さ、食べなさい」と話を切り上げた。
あの朝の味噌汁の味を、俺は覚えている。少し濃かった。母さんなりの、言葉にしない心配の味だった。
六、走った夜
文化祭の夜。
桐谷が陽和に告白した時、俺は壁際に立っていた。
殴りたいと思った。桐谷を。そのあと自分を。
陽和が断った。笑顔で。目が笑っていない笑顔で。
あの笑顔は——俺が嫌いだと言った笑顔だ。口だけ上がって、目が死んでいるやつ。
陽和が一瞬こっちを見た。
分かった。分かってしまった。あの目は俺に何かを問いかけていた。「何か言って」と。「止めて」と。「私を見て」と。
——目を逸らした。
最低だ。最低の自分がいた。
陽和が教室を出ていった。「トイレ」と言って。笑顔で。
五分経っても戻らなかった。十分経っても。
真白が来た。「ひよりんが戻ってこない」。
その瞬間、頭の中が白くなった。
文字通り、白くなった。何も考えられなくなった。恐怖も嫉妬もプライドも自己嫌悪も、全部が吹っ飛んだ。
残ったのは一つだけだった。
——探さなきゃ。
廊下を走った。トイレ。いない。屋上。いない。昇降口。靴がない。
血の気が引いた。
校門を出て走った。通学路。いない。駅前。いない。公園。いない。
肺が痛い。足が重い。でも止まれなかった。
陽和がどこかで泣いている。一人で。俺のせいで。
その事実が、俺を走らせた。
考えた。陽和はどこに行く。泣きたい時。一人になりたい時。
答えは一つしかなかった。
丘を駆け上がった。草を踏んで、枝を払って、息が切れて、視界がぼやけて——
いた。
草の上にうずくまって、膝を抱えて、肩を震わせていた。
ぽつりと雨が落ちてきた。
「——陽和」
声が出た。掠れていた。
陽和が顔を上げた。泣いていた。ぐちゃぐちゃの顔だった。
世界一きれいだと思った。こんな時に。泣いている女の子を見て「きれいだ」と思う自分がおかしいことは分かっていた。でも、そう思った。
「探した」
それしか出てこなかった。
気の利いたことなんて言えない。朝霧家の男だから。不器用だから。
でも走ってきた。それだけは本当だ。
あの夜、雨の中で陽和を抱きしめた時——腕の中で震えている小さな体を感じた時——俺は誓った。
もう二度と、この女を一人にしない。
もう二度と、嘘をつかない。
もう二度と——逃げない。
七、親父の言葉
付き合い始めた翌週の日曜日。
朝食の席で、珍しく親父が家にいた。
母さんが嬉しそうに朝食を並べている。いつもより品数が多い。親父がいる日は母さんの料理が豪華になる。分かりやすい。
俺は味噌汁を飲みながら、ぼんやり昨日のことを考えていた。陽和と出かけた。手を繋いだ。リングを買った。「おまえは俺の——」まで言いかけて逃げた。
「蓮司」
親父が呼んだ。珍しい。朝食の席で親父から話しかけてくることはほとんどない。
「……何」
「隣の、七瀬さんとこの嬢ちゃんと——付き合ってるのか」
味噌汁を吹きそうになった。
母さんがにやにやしている。「あら、お父さん気づいたの。遅いわよ」
「……どこで」
「昨日、窓から見えた。手繋いで出かけてただろ」
「…………」
否定しても無駄だった。朝霧家の男に嘘は通じない。お互いに。
「……ああ」
親父は味噌汁をすすった。数秒の沈黙。
「そうか」
それだけだった。それだけで朝食は終わるはずだった。
でも親父は立ち上がる前に、もう一言だけ付け足した。
「大事にしろ」
三文字。短い。けれど親父の声は低くて、重くて、まっすぐだった。
俺は親父を見た。親父はもう新聞を広げていた。こちらを見ていない。
母さんが小さく笑っているのが聞こえた。
「……ああ」
俺も三文字で返した。
親子の会話としては最短だったかもしれない。でも十分だった。朝霧家はこれでいい。
食器を片付けて部屋に戻る時、廊下で母さんに呼び止められた。
「蓮司」
「……何」
「ひよりちゃんのこと、お母さんも応援してるからね。——あの子、小さい頃からあなたのこと大好きだったのよ。知ってた?」
「……知らねえよ」
「あらあら。鈍いわね、お父さんと同じ」
母さんは笑って台所に戻った。
部屋に入って、ドアを閉めて、壁に背をつけた。
小さい頃から大好きだった。
陽和が。俺を。
知らなかった。気づかなかった。隣にいて、毎日顔を合わせて、「かわいい」と言われて——それでも気づかなかった。
朝霧家の男は、好意を受け取るのも下手だ。
笑えた。自分に。
八、おまえが笑うたびに
おまえが笑うたびに、俺は——
怖かった。
おまえの笑顔が好きすぎて、怖かった。
誰かに向けるたびに、それが俺のものじゃないと突きつけられる気がした。
おまえが笑うたびに、俺は——
嫉妬した。
その笑顔を独り占めしたかった。俺だけに向けてほしかった。そんな権利ないのに。
おまえが笑うたびに、俺は——
祈っていた。
どうか、いつか、その笑顔が俺の前からなくなりませんように。
おまえが泣くたびに、俺は——
壊れそうだった。
おまえの涙を見ると、世界ごと敵に回してもいいと思った。おまえを泣かせたやつが誰だろうと、許さないと思った。
それが俺自身だった時は——自分を殴りたかった。
でも今は。
おまえが笑うたびに、俺は——
ただ、嬉しい。
おまえの笑顔がみんなのものだと知っている。でも、おまえが俺を見る時の目が違うことも知っている。ほんの一瞬、目が合う。それだけで分かる。俺だけに見せてくれる温度がある。
それで十分だ。
十分だと、やっと思えるようになった。
九、引き出しの中
俺の机の引き出しの一番奥には、いくつかのものが入っている。
ペンキの跡が残ったハンカチ。陽和の頬を拭った日の。
卵サンドのマスキングテープ。「蓮司のために早起きしたよ。おつかれさま」と書いてある。
七瀬家の母さんのメモ。「いつもひよりをよろしくね」。
どれも捨てられなかった。
全部、言葉にできなかった想いの代わりだ。
俺は言葉が下手だ。「好きだ」と言うのに何年もかかった。「大事だ」と言うのに嵐みたいな夜を越えなきゃいけなかった。
でも、この引き出しの中身が——俺の本当だ。
口で言えないことを、全部ここにしまってある。
いつか陽和に見せる日が来るかもしれない。来ないかもしれない。
でもいい。俺が知っていれば。
この引き出しの中に、どれだけの想いが詰まっているか——俺だけが知っていれば。
……いや。
嘘だ。本当は見せたい。
陽和に全部知ってほしい。
俺がどれだけおまえのことを考えていたか。どれだけ怖かったか。どれだけ苦しかったか。どれだけ——好きだったか。
言葉は下手だ。たぶんこれからも下手だ。朝霧家の血は変わらない。
でも、少しずつ言えるようになった。
「好きだ」と言えた。「大事だ」と言えた。「ずっといる」と言えた。
全部、おまえのおかげだ。
おまえが何度も何度も「蓮司」と呼んでくれたから。「かわいい」と言ってくれたから。「好きだよ」とまっすぐ言ってくれたから。
俺は——不器用なままでいい。
おまえの隣で、少しずつ言葉を覚えていく。
一日にひとつでいい。昨日より一ミリでも多く伝えられたら、それでいい。
十、おまえがいる朝
七月のある朝。
目覚ましが鳴る前に目が覚めた。最近、いつもそうだ。
窓を開ける。夏の朝の匂い。湿った草と、アスファルトの熱と、どこかの家の味噌汁の匂い。
隣の家の窓は——まだカーテンが閉まっている。陽和は朝が弱い。
着替えて、階段を降りる。台所に母さんがいる。
「おはよう、蓮司。今日も早いわね」
「……おはよう」
朝食を食べる。今日のおかずはいつも通り。弁当箱を受け取る。
「ひよりちゃんのお弁当も持っていきなさい。お母さん、七瀬さんのお母さんと話して、毎朝交互に作ることにしたから」
「……は?」
「あら、知らなかった? 昨日決めたのよ。月水金がうち、火木が七瀬さんち。効率的でしょ」
「……勝手に決めんなよ」
「いいじゃない。家族ぐるみのお付き合いよ」
母さんが楽しそうに笑う。親父は新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる。何も言わない。でも少しだけ口元が緩んでいる。
「……行ってきます」
「行ってらっしゃい。ひよりちゃんによろしくね」
家を出る。隣の家の門の前に立つ。陽和の弁当と自分の弁当、両方鞄に入れて。
七時五十三分。玄関が開く。
「おはよう、蓮司!」
出てきた陽和は、寝癖がまだ少し残っていた。目が半分閉じている。朝弱いのは十二年変わらない。
「……寝癖」
「え、うそ、どこ」
「右。後ろ」
陽和が慌てて手櫛で直す。直りきっていない。蓮司は溜息をついて、手を伸ばした。陽和の後頭部に触れて、跳ねた髪を押さえた。
「……これで」
「ありがとう。蓮司優しい」
「……普通だ」
「優しいよ。——あ、今日のお弁当どっち?」
「うち。母さんが作った」
「やった。朝霧家のお弁当好き。蓮司のお母さんの唐揚げ最高なんだよね」
「……伝えとく」
歩き出す。手を繋ぐ。蓮司から。もう迷わない。
校門の手前で離す。並んで教室に入る。隣の席に座る。
「蓮司」
「ん」
「今日もかわいいね」
「……かわいくねえ」
「かわいいよ」
「……」
耳が赤い。分かっている。もう隠す気もない。
こうしておまえに「かわいい」と言われて、「かわいくねえ」と返す朝が——たぶん俺にとっての幸せだ。
大げさな言葉はいらない。
ドラマチックな展開もいらない。
ただ、毎朝おまえが隣にいて、笑ってくれて、名前を呼んでくれて。
それだけで——それだけで、俺は。
「……陽和」
「ん?」
「弁当、昼に渡す」
「うん」
「あと——」
「あと?」
「…………いや、なんでもない」
「また飲み込んだ!蓮司、言いなさい!」
「……うるせえな」
「言って!」
「…………今日も、かわいい」
教室が一瞬、静まった。
聞こえていた周囲の数人が固まっている。田中が弁当箱を落としかけている。真白が「ひっ」と声を漏らしている。
陽和は——真っ赤になって、両手で顔を覆った。
「っ——蓮司、それ、教室で——みんないるのに——」
「おまえが言えって言ったんだろ」
「言ったけど!! こんなの聞いてない!!」
「……知らね。自業自得だ」
蓮司は窓の外を向いた。
耳が熱い。顔も熱い。心臓がうるさい。とんでもないことを言ってしまった。教室で。みんなの前で。
でも——後悔はなかった。
今まで飲み込んだ言葉が多すぎた。これからは、少しずつ返していく。
不器用でもいい。赤くなってもいい。周りに聞かれてもいい。
おまえに伝えたいことが、俺にはまだたくさんある。
一生かけて返しても足りないくらい、たくさん。
窓の外は夏の空だった。
入道雲が白く光って、蝉が鳴いて、世界はいつも通り回っている。
隣の席で、陽和がまだ赤い顔を隠している。指の隙間から目だけ覗いて、こっちを見ている。
目が合った。
陽和が——指の間から——笑った。
くしゃっと。目を細めて。泣きそうなくらい嬉しそうに。
俺はその笑顔を見て——ああ、と思った。
おまえが笑うたびに俺は。
おまえが笑うたびに。
俺は——
もっとおまえを好きになる。
昨日より今日、今日より明日。
たぶん、ずっと。
おまえが隣で笑ってくれる限り、ずっと。




