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■ 第六章「泣きながら走った夜」

文化祭当日。


蒼嶺高校は朝から人であふれていた。校門にはアーチが立ち、各クラスの看板が並び、在校生も来場者も入り混じって賑やかに笑っている。


2年3組の「レトロ喫茶」は、開店前から廊下に行列ができていた。蓮司が作ったカウンター、真白がデザインしたメニュー表、陽和が選んだ窓辺の造花。全員で作り上げた空間は、想像以上に「それっぽく」なっていた。


蓮司はカウンターの中に立っていた。白いシャツに黒いエプロン。腕まくり。昨日、陽和が結んでくれた蝶結びは——今日は自分で結んだ。何度かやり直した。背中に手を回すたびに、昨日とは違う感触がした。自分の指は、陽和の指より不器用だった。


「朝霧くん、開店だよー!」


真白の声で、喫茶店がオープンした。


客が入ってくる。蓮司は注文を取りに行く。「ご注文をどうぞ」。声は低く、表情は相変わらず不愛想だったが、それが逆に「雰囲気ある」と女子客には好評だった。


「ねえ、あのウェイターさんかっこよくない?」


「え、朝霧くんでしょ? バスケ部の」


「無愛想なのがいい……」


蓮司は聞こえないふりをして、注文を厨房——教室の隅に設けた簡易キッチン——に回した。


陽和は受付にいた。


教室の入口で、来場者を案内する係。隣には桐谷がいた。昨日「手伝う」と言ったあの桐谷。


「七瀬さん、次のお客さん四人組だって」


「了解! 奥のテーブル空いてるから案内するね」


陽和はいつも通り笑っていた。来場者にも、桐谷にも、クラスメイトにも。いつもの明るい声。いつもの愛嬌。誰が見ても、文化祭を楽しんでいる女の子に見えた。


でも蓮司は気づいていた。


目が笑っていない。


口元は上がっている。声は明るい。対応は完璧。でも、目の奥にいつもの光がない。あの、くしゃっと目を細める笑い方をしていない。


昨日、自分が消した光だった。


蓮司はコップを拭く手を止めて、一瞬だけ陽和の方を見た。陽和と目が合いそうになって、蓮司が先に逸らした。


陽和もまた、蓮司の方を見ていた。一瞬だけ。すぐに来場者に向き直って笑った。


その笑顔が、蓮司の胸を抉った。


午前の部が終わって、交代の時間になった。


「ひよりん、お昼休憩だよ。一緒に回らない?」


真白が誘ったが、陽和は首を横に振った。


「ごめん、ちょっと他のクラスの手伝い頼まれてて。先に行ってて?」


「えー、大丈夫? ずっと働きっぱなしじゃん」


「平気平気! 楽しいから!」


笑って手を振る陽和を見送って、真白は蓮司の方をちらりと見た。蓮司はエプロンを外しながら、窓の外を見ていた。


「……朝霧くん」


「……なに」


「ひよりんと何かあった?」


「……別に」


「嘘。今日、二人とも目合わせてないじゃん。ひよりんも昨日の夜からLINE既読つかないし。朝だって、いつもはひよりんが朝霧くんに『おはよう』って言うのに、今日は何も言わなかった」


蓮司は何も答えなかった。


真白は少し黙ってから、小さな声で言った。


「ひよりんね、泣いてたと思う。今朝、目が少し腫れてた。コンシーラーで隠してたけど、分かったよ」


蓮司の指がエプロンの紐を握りしめた。


「……関係ねえよ」


「関係あるでしょ。——朝霧くんがいちばん分かってるでしょ、そんなの」


真白の声には珍しく棘があった。陽和の親友としての、静かな怒りだった。


蓮司は何も言えなかった。真白は溜息をついて、教室を出ていった。


一人残された蓮司は、畳んだエプロンを机に置いて、陽和の席を見た。


席の上に、小さな紙袋が置いてあった。


見覚えのある包装。陽和の手作りだと分かる、不格好なリボン。


蓮司は周囲を見回して——誰もいないことを確認して——紙袋を手に取った。


中身は、ラップに包まれたサンドイッチだった。


卵サンド。


具がたっぷり詰まっている。パンの耳は丁寧に切り落とされている。ラップに小さなマスキングテープが貼ってあって、そこに一言だけ書いてあった。


「蓮司のために早起きしたよ。おつかれさま」


丸い字。陽和の字だ。


蓮司はサンドイッチを見つめたまま動けなかった。


昨日、あれだけのことを言ったのに。「ただの幼なじみだ」と突き放したのに。泣かせたのに。


それでも朝早く起きて、卵サンドを作ってきた。蓮司のために。蓮司が好きだと知っているから。


指が震えた。


ラップの上に、水滴が一つ落ちた。


蓮司は慌てて顔を上げて、目元を袖で拭った。天井を見た。蛍光灯が滲んでいた。


——何やってんだ、俺は。


午後の部。


喫茶店は午後も盛況だった。蓮司はウェイターに復帰し、黙々と注文を取り、飲み物を運んだ。


陽和は受付に戻っていた。桐谷と並んで、来場者を案内している。


午後になると他校の生徒も増えてきた。陽和の受付は評判がよく、「かわいい子がいる」と口コミで人が来る始末だった。


「七瀬さんってほんと感じいいよね」


「笑顔が天使」


「彼氏いんのかな」


受付を通り過ぎる男子たちのひそひそ声が、カウンターの蓮司の耳にも届いた。コップを拭く力が強くなる。


「おい朝霧、コップ割れるぞ」


田中が小声で注意した。蓮司は無言で力を緩めた。


その時だった。


受付の方で、少し大きな声がした。


「え、あの——ありがとうございます、でも——」


陽和の声だった。困惑している声。


蓮司が目を向けると、他校の男子が二人、受付の陽和に話しかけていた。


「ねえ、連絡先教えてよ。一緒に回ろうよ」


「あ、えっと、私今受付の係で——」


「休憩あるっしょ? ちょっとだけ。ね?」


馴れ馴れしい距離感。陽和が半歩引いている。笑顔は保っているが、目が泳いでいる。


桐谷が間に入ろうとした。


「あの、すみません。彼女今接客中なんで——」


「は? おまえ彼氏?」


「いえ、そういうわけじゃないですけど——」


「じゃあ関係ないじゃん」


桐谷がたじろいだ。他校の男子たちは構わず陽和に近づく。


「ねー、名前なんていうの?」


「え、あの——」


陽和は笑顔を維持しようとしていた。いつもの癖だった。困った時、嫌な時、怖い時。陽和は笑う。笑って、その場を丸く収めようとする。


「七瀬さん——」と桐谷がもう一度声を出そうとした時、二人の男子の間に、腕が一本割り込んだ。


長い腕。白いシャツ。腕まくり。


蓮司がカウンターから出てきて、陽和と他校の男子の間に立っていた。


「——接客中なんで。列に並んでもらえますか」


低い声。感情を押し殺した声。でも目だけが怖かった。蓮司の目は、普段の不機嫌とは次元の違う冷たさを帯びていた。


他校の男子が一瞬ひるんだ。


「なんだよおまえ。彼氏?」


「ウェイターです。——並んでください。他のお客さんの迷惑になってます」


嘘だった。列は特に混んでいない。でも蓮司の声と目に圧されて、男子たちは舌打ちしながら離れていった。


蓮司は陽和を振り返らなかった。


「……戻る」


それだけ言って、カウンターに戻った。


陽和は蓮司の背中を見つめていた。広い背中。昨日、紐を結んであげた背中。今日は自分で結んだらしい。少しだけ形が違った。


「……ありがとう、蓮司」


小さな声で言った。蓮司には届かなかったかもしれない。


桐谷が隣で「朝霧くんすげえな……」と呟いたのが聞こえたが、陽和の耳には入らなかった。


胸が苦しかった。


昨日「ただの幼なじみだ」と言った人が、今日は他校の男子から守ってくれた。ただの幼なじみだと言いながら、誰よりも早く飛んできてくれた。


——どっちが本当の蓮司なの。


分からなかった。分からなくて、苦しかった。


文化祭の一般公開が終わった。


片付けの時間になり、教室は慌ただしく原状回復が始まった。机を戻し、装飾を剥がし、ゴミをまとめる。


陽和は受付の机を片付けていた。桐谷が手伝ってくれている。


「七瀬さん、今日はお疲れ様。大変だったね、さっきのやつ」


「ううん、大丈夫。桐谷くんも間に入ってくれてありがとう」


「いや、俺何もできなかったけど……朝霧くんがすぐ来てくれてよかったよ。さすが幼なじみっていうか」


——幼なじみ。


その言葉が、陽和の胸に刺さった。


「……うん。幼なじみだからね」


笑った。笑えた。笑えてしまった。


桐谷は気づかなかった。でも——カウンターを解体していた蓮司は、聞いていた。


「幼なじみだからね」


自分が昨日押しつけた言葉を、陽和が使っていた。笑いながら。目が笑わないまま。


蓮司の手からドライバーが滑り落ちて、床に金属音を立てた。


「朝霧、大丈夫か?」


田中が声をかけたが、蓮司は拾い上げて「問題ない」とだけ答えた。


片付けが終わって、クラスの打ち上げが教室で始まった。ジュースとお菓子を並べて、文化祭の成功を祝う。


陽和はいつも通り輪の中心にいた。「ひよりんのおかげだよ!」「七瀬の受付の評判やばかったらしいよ」「ひよりちゃんがシフト組んでくれたから回ったんだよね」


たくさんの声。たくさんの笑顔。陽和はその全部に応えて、笑って、笑って、笑っていた。


蓮司は教室の隅でジュースを飲んでいた。壁に寄りかかって、一人で。


賑やかな輪の中にいる陽和を見ていた。見ていることに気づかれないように、時々視線を窓に逸らしながら。


陽和の卵サンドは、昼に全部食べた。美味かった。泣きそうなくらい美味かった。マスキングテープのメモは、制服の内ポケットに入れた。捨てられなかった。


打ち上げが盛り上がる中、桐谷が陽和の隣に座った。自然な距離感で、笑いながら何か話している。陽和も笑い返している。


蓮司はジュースの缶を握りつぶしそうになって、慌てて力を緩めた。


——やめろ。見るな。関係ねえだろ。ただの幼なじみだ。自分で言ったんだろ。


その時、桐谷が立ち上がって、クラスの前に出た。


「あ、ちょっとみんな聞いて! 俺から一個いい?」


教室が少し静かになった。


桐谷は照れくさそうに頭を掻いて、それから真っ直ぐ陽和を見た。


「七瀬さん。今日一日隣で一緒に仕事して、改めて思ったんだけど——俺、七瀬さんのこと好きです。よかったら付き合ってください」


教室が一瞬、完全に静まり返った。


次の瞬間、「えーっ!」「まじ!?」「桐谷やるじゃん!」と騒ぎが起きた。


陽和は目を見開いたまま固まっていた。


クラスメイトたちが囃し立てる。「どうするひよりん!?」「桐谷くん男前!」「告白!告白!」


蓮司は壁に寄りかかったまま動かなかった。


缶を持つ手が白くなるほど握りしめていた。心臓が殴られたみたいに痛かった。呼吸が浅くなる。ここにいたくない。見たくない。聞きたくない。


でも足が動かなかった。目が逸らせなかった。


陽和は——笑った。


いつもの笑顔。でも蓮司には分かった。あれは作った笑顔だ。目が笑ってない。口だけ上がっている。蓮司がいちばん嫌いだと言った、あの笑い方。


「桐谷くん、ありがとう。すごく嬉しい」


「じゃあ——」


「でも、ごめんね。今は付き合えない」


桐谷の表情が少し曇った。でもすぐに笑い直した。


「そっか。いきなりだったもんね。ごめん、変な空気にして」


「ううん、全然。桐谷くんの気持ち、嬉しかったよ。ほんとに」


陽和はそう言って、また笑った。完璧な笑顔。誰も傷つけない笑顔。桐谷も、周囲も、それ以上追及しなかった。


「残念だったな桐谷!」「でもかっこよかったぞ!」と男子たちが桐谷の肩を叩く。


場の空気が戻る。笑い声が戻る。


陽和はその場に座ったまま、笑顔を張りつけたまま、小さく拳を握っていた。


誰も気づかない。


蓮司だけが気づいていた。


陽和が「今は付き合えない」と言った時、一瞬だけ——本当に一瞬だけ——蓮司の方を見たことに。


目が合った。ほんの零コンマ数秒。


陽和の目は、何かを問いかけていた。何かを確認しようとしていた。


蓮司はその視線を——受け止められなかった。目を逸らした。窓の外を見た。暗くなり始めた空を。


陽和が席を立った。


「ちょっとトイレ行ってくるね」


明るい声。誰も疑わなかった。真白だけが「ひよりん?」と声をかけたが、陽和は手を振って教室を出た。


五分経っても、陽和は戻らなかった。


十分経っても、戻らなかった。


真白がスマホを見た。LINEを送っている。既読がつかない。


「……朝霧くん」


真白が蓮司の元に来た。声が低い。


「ひよりんが戻ってこない。LINE も出ない。電話も出ない」


蓮司の顔から表情が消えた。


「……トイレじゃねえのかよ」


「十分だよ。ひよりんがトイレに十分もこもる子じゃないの、知ってるでしょ」


蓮司は壁から背を離した。


「他に心当たりは」


「分かんない。でもあの子——桐谷くんに告白された時、泣きそうだった。気づいた?」


気づいていた。


蓮司はジュースの缶をゴミ箱に放り込んで、教室を出た。


廊下を歩く。早足で。トイレの前。女子トイレにはさすがに入れない。近くにいた女子に声をかけた。


「中に七瀬いるか確認してくれ」


「え、朝霧くん? えーっと——」


「頼む」


声が切迫していたのだろう。その女子はすぐにトイレを覗いて戻ってきた。


「誰もいなかったよ」


蓮司は走り出した。


階段を上がる。屋上。ドアを開ける。誰もいない。


戻る。階段を降りる。昇降口。陽和の靴箱。


——ローファーがない。


蓮司の血の気が引いた。


校舎の外に出た。


もう暗い。六月の日没は遅いはずなのに、今日は曇っていて、空は重たい灰色だった。風が湿っている。雨の匂いがする。


校門を出る。左右を見る。陽和の姿はない。


スマホを取り出す。電話をかける。コール音が鳴る。一回。二回。三回。四回——留守電に切り替わった。


もう一度かける。出ない。


もう一度。出ない。


蓮司は走り出した。


通学路を走る。いつもの帰り道。二人で歩く道。陽和がいつも左側を歩いて、蓮司がいつも車道側を歩く道。


いない。


駅前のパン屋の前。クリームパンを買ったあの店。閉まっている。人影はない。


いない。


公園。小学生の頃、二人でブランコに乗った場所。暗い。街灯がひとつだけ点いている。


いない。


蓮司は立ち止まって、息を吸った。走りすぎて肺が痛い。心臓がうるさい。手が震えている。怖い。怖い。


陽和がいない。泣いているかもしれない。一人でどこかで泣いているかもしれない。俺のせいで。俺が「ただの幼なじみだ」と言ったせいで。俺が桐谷の告白の時に目を逸らしたせいで。


——考えろ。陽和はどこに行く。泣きたい時、一人になりたい時、あいつはどこに行く。


屋上じゃない。学校を出た。家でもない。靴を履き替えて外に出た。通学路でもない。駅前でもない。公園でもない。


なら——


蓮司の脳裏に、ひとつの場所が浮かんだ。


小学三年生の夏。陽和が転校生と喧嘩して泣いた日。蓮司が探しに行って見つけた場所。あの時、陽和は言った。


「ここ、好きなの。空が全部見えるから。泣いても、空しか見てないから、恥ずかしくない」


蓮司は走った。全力で。


住宅街を抜けて、坂を上がって、小さな神社の横を通り過ぎて——その裏手にある、丘の上の空き地。


周囲は雑草と木に囲まれていて、人はまず来ない。でも丘の頂上だけは開けていて、空が広く見える場所だった。


ぽつり、と頬に水滴が落ちた。


雨が降り始めていた。


蓮司は丘を駆け上がった。草を踏み、枝を払い、息を切らして——


頂上に出た。


そこに、陽和がいた。


草の上に座り込んで、膝を抱えて、顔を埋めていた。肩が震えている。制服のブラウスは皺だらけで、スカートの裾が草で汚れている。靴に泥がついている。


泣いていた。声を殺して。でも肩の震えが止まらない。


蓮司は立ち尽くした。


息が荒い。走ったから。走って走って走って、ここまで来たから。


雨が強くなる。陽和の髪が濡れ始めている。


蓮司は口を開いた。


最初、声が出なかった。喉が詰まっていた。全力で走った肺が酸素を求めて喘いでいた。


もう一度、息を吸った。


「——陽和」


陽和の肩がびくりと跳ねた。


顔を上げた。目が赤い。頬が濡れている。雨のせいだけではない。


「れん、じ——」


「探した」


蓮司の声は震えていた。息が荒くて、言葉がうまく繋がらない。でも構わなかった。


「探した——おまえ、なんで——電話出ろよ、LINE見ろよ、なんで——勝手に——」


言葉が途切れる。


蓮司は膝をついた。陽和の目の前に。草が濡れていて、制服が汚れる。そんなことはどうでもよかった。


陽和は蓮司を見上げていた。泣いた顔のまま。驚いた顔のまま。


雨が二人の間に降っている。


蓮司は陽和の目を見た。逸らさなかった。今度は、逸らさなかった。


「ほんとに——出ていくなよ」


声が掠れていた。


「笑って出てって、泣きながら一人でこんなとこ来て——おまえ、ほんとに——」


言葉にならない。なりたいのにならない。伝えたいのに、不器用な喉が邪魔をする。


陽和の唇が震えた。


「……だって、蓮司が——」


「俺が悪い。分かってる」


蓮司が遮った。


「昨日言ったこと、全部嘘だ」


陽和の目が見開かれた。


雨が本降りになっていく。二人ともびしょ濡れだった。でも、どちらも動かなかった。


「ただの幼なじみだなんて思ってない。"誰にでも"の一人なんかじゃない。——俺が消しゴムに答え書くのも、クリームパン買うのも、歩幅合わせんのも、全部——全部おまえだから——」


「蓮司——」


「おまえが他のやつに笑うのが苦しくて、他のやつに名前呼ばれるのが嫌で、桐谷が告白した時——何も言えなかった自分が情けなくて——」


蓮司の声は完全に震えていた。もう隠す余裕がなかった。


「でも俺が言ったら壊れると思った。全部壊れると思った。おまえの隣にいられなくなると思った。だから——だから——」


「蓮司」


陽和が蓮司の名前を呼んだ。泣きながら。でも強い声で。


「私も怖かった」


蓮司が顔を上げた。


陽和は涙を拭わずに、蓮司をまっすぐ見ていた。


「蓮司に嫌われるのが怖かった。私が『かわいい』って言うたびに嫌がられてるんじゃないかって。私がみんなに笑ってるから、蓮司にとって私は特別じゃないんじゃないかって」


「……そんなわけ——」


「蓮司が昨日『幼なじみだから』って言った時、ほんとに——ほんとに苦しかった。だって私、蓮司のことずっと——」


陽和の声が詰まった。涙が溢れる。雨に混じって、頬を伝って、落ちていく。


蓮司は手を伸ばしていた。考えるより先に。


陽和の頭を引き寄せて、自分の胸に抱き込んだ。


不器用に。ぎこちなく。力加減も分からないまま。でも、離したくなかった。


陽和が蓮司のシャツを掴んだ。濡れた手で。ぐしゃぐしゃに。


「……出ていくなよ」


蓮司がもう一度言った。今度は怒りではなく、祈るような声で。


「泣きたい時は俺の前で泣け。逃げるなら俺のとこに逃げろ。どっか行くなら——言えよ。探しに行くから。どこにいても——」


声が途切れた。


雨の音だけが二人を包んでいた。


陽和が蓮司の胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で言った。


「……蓮司の心臓、すごいうるさい」


「……走ったからだろ」


「嘘つき」


「嘘じゃねえ」


「嘘だよ。——私のもうるさいもん」


蓮司は陽和の頭の上に顎を乗せた。濡れた髪がシャンプーの匂いと雨の匂いを混ぜている。


震えが止まらない。寒さなのか、感情なのか、もう区別がつかなかった。


雨はまだ降っていた。


でも、二人はしばらくそこから動かなかった。

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