■ 第五章「幼なじみって便利な言葉」
文化祭前日。
校舎全体が浮き足立っていた。廊下にはペンキの匂いと笑い声が充満し、あちこちでリハーサルや最終調整が行われている。
2年3組の「レトロ喫茶」もほぼ完成していた。カウンターにはニスが美しく光り、壁にはレトロなポスター、窓辺には造花が飾られている。蓮司が作ったカウンターは教室の中央にどっしりと構えていて、クラスメイトたちから「プロかよ」と評判だった。
蓮司はウェイターの最終リハーサルに参加していた。エプロンを巻いて、注文を取る練習。田中が客役をやっている。
「いらっしゃいませ。ご注文をどうぞ」
「朝霧、もうちょっと愛想よくできない? 声はいいんだけど顔が怖い」
「……これが俺の顔だ」
「知ってるけどさ……」
その様子を、陽和は少し離れたところから見ていた。エプロン姿の蓮司。腕まくりした白いシャツ。低い声で「ご注文をどうぞ」と言う横顔。
心臓がうるさい。もう四日前からずっとうるさい。
「ひよりん、見とれてる?」
真白がにやにやしながら隣に立った。
「見とれてない。衣装のチェックしてるだけ」
「衣装ね。朝霧くんの衣装ね」
「全員の。全員のチェックしてるの」
「ふーん。じゃあ田中くんの衣装はどう?」
「……見てなかった」
「ほら」
陽和は真白の肩を軽く叩いて、自分の持ち場に戻った。頬が熱い。自覚がある。自覚があるのが困る。
リハーサルが終わって、各自最終確認に入った。
陽和は受付のシフト表を整理しながら、明日の段取りを確認していた。
「七瀬さん、明日の一般公開の受付、俺も入っていい?」
声をかけてきたのは、隣のクラスの男子——藤堂先輩ではなく、同学年の桐谷だった。先週、蓮司に「アタックしていい?」と聞いたあの桐谷。
「桐谷くん、うちのクラスの受付やってくれるの?」
「うん。うちのクラス人余ってるし、七瀬さんのとこ人足りないって聞いたから」
「ほんと? 助かる! ありがとう!」
陽和がいつもの笑顔で答えた。桐谷は嬉しそうに笑って、「じゃあ明日よろしく」と手を振った。
その一部始終を、カウンターを拭いていた蓮司は見ていた。
布巾を握る手に力が入る。
桐谷。あいつだ。「俺アタックしていい?」と聞いてきたあいつ。あの時、蓮司は「知らね」と言った。止めなかった。止める理由がなかった。——いや、理由はあった。でも、その理由を口にする権利が自分にはなかった。
今、桐谷は陽和の近くに立っている。陽和は笑っている。桐谷も笑っている。自然な距離感。嫌な感じはしない。むしろ、似合っている。桐谷は愛想がいい。人当たりがいい。陽和の周りにいる人間としては、蓮司よりずっと自然だ。
——俺よりよっぽど、隣にいて様になる。
その思考が浮かんだ瞬間、蓮司は自分で自分に驚いた。
比べている。自分と他の誰かを。陽和の隣にいる資格を、秤にかけている。
そんなことをする権利は、ただの幼なじみにはない。
蓮司は布巾をカウンターに置いて、教室を出た。
屋上。
いつもの場所。いつものフェンス。
風が強い。六月の風は湿っているのに、今日は乾いて冷たい。
蓮司はフェンスに背を預けて、目を閉じた。
整理しなければならなかった。
この一週間で、何かが変わった。変わってしまった。屋上で陽和が泣きそうになった日。頬のペンキを拭った日。消しゴムに数式を書いた朝。クリームパンを買った日。エプロンの紐を結んでもらった時の、背中に感じた指先の体温。
全部、些細なことだった。全部、幼なじみの範囲内のことだった。——そう言い聞かせてきた。
でも、もう無理だった。
蓮司は自分の胸に手を当てた。心臓がうるさい。ずっとうるさい。陽和が笑うたびに、名前を呼ぶたびに、「かわいい」と言うたびに、近くに来るたびに。
好きだ。
その二文字が、今初めて、蓮司の中で明確な形を取った。
好きだ。七瀬陽和が。たぶんずっと前から。たぶん、名前をつけるよりずっと前から。
——だから、何だ。
好きだと自覚したところで、何も変わらない。変えてはいけない。
陽和は誰にでも笑う。誰にでも優しい。その笑顔が自分だけに向けられていると思うほど、蓮司は自惚れていない。
もし告白して、もし受け入れてもらえたとしても——いつか陽和は気づくだろう。自分よりもっといい人間がいることに。もっと素直で、もっと愛想がよくて、もっと陽和を笑わせられる誰かがいることに。
その時、壊れるのは恋人関係だけじゃない。幼なじみという、十年以上かけて積み上げた関係ごと壊れる。
隣の席に座れなくなる。隣の家に住んでいるのに顔を合わせられなくなる。帰り道を一緒に歩けなくなる。
それだけは——それだけは耐えられない。
蓮司はフェンスを掴んで、額を押し当てた。
——引け。ここで引け。これ以上近づくな。
自分に言い聞かせる。何度も。何度も。
屋上のドアが開く音がした。
「蓮司」
陽和の声。いつもの声。いつもの足音。いつものように、探しに来てくれた。
でも今日は——今日だけは、その優しさが痛かった。
「……なんで毎回来んだよ」
蓮司の声は低かった。いつもの「仕方ねえな」というニュアンスはなかった。
陽和は足を止めた。
「……蓮司?」
「いっつもいっつも追いかけてきて。俺が教室出たら屋上来て、俺が黙ったら話しかけて。——なんでだよ」
「なんでって……心配だから——」
「それ。それだよ」
蓮司が振り返った。
その表情を見て、陽和は息を飲んだ。
怒っているのではなかった。不機嫌でもなかった。蓮司の目には、陽和が今まで見たことのない色が浮かんでいた。苦しそうで、追い詰められたような、何かを必死に押し殺しているような——
「おまえは誰にでもそうだろ。誰にでも心配して、誰にでも笑って、誰にでも優しくして。——俺のとこに来るのも、その"誰にでも"の一個だろ」
「蓮司、何言って——」
「幼なじみだから。小さい頃から隣にいるから。そういう理由で心配してくれてんだろ。——べつに、それでいい。それでいいんだけど」
蓮司は一度言葉を切った。拳を握っていた。爪が掌に食い込む。
「……でも、たまにきついんだよ」
陽和は動けなかった。
蓮司の声が震えていた。ほんのかすかに。気づかない人には気づけないくらいのかすかさで。でも陽和は気づいた。ずっと隣にいたから。
「俺のこと心配してくれなくていい。おまえが気にかける人間は他にたくさんいるだろ。桐谷でも藤堂先輩でも真白でも後輩でも、誰でもいい。——俺は別に、おまえに心配されなくても大丈夫だから」
嘘だった。
全部嘘だった。
大丈夫なわけない。陽和がいなくなったら大丈夫なわけがない。でも、このまま近くにいたら、もっと大丈夫じゃなくなる。もっと欲しくなる。もっと独占したくなる。もっと——好きになる。
だから、今のうちに線を引くんだ。
「……蓮司、もしかして——怒ってる?」
「怒ってねえよ」
「じゃあなんで——」
「怒ってねえって言ってんだろ。ただ——」
蓮司は目を逸らした。
「幼なじみって、便利な言葉だなって思っただけだ」
陽和の表情が変わった。
「……便利?」
「近すぎても遠すぎても、全部"幼なじみだから"で済む。心配するのも、隣にいるのも、クリームパン知ってるのも、全部おまえにとっては"幼なじみだから"だろ」
「蓮司——」
「俺も同じだ。おまえの隣にいるのも、歩幅合わせんのも、消しゴムに答え書くのも、全部——幼なじみだから。それだけだ」
嘘だ。嘘だ。嘘だ。
全部嘘だ。何一つ「幼なじみだから」じゃない。おまえだからやってるんだ。おまえ以外にやるわけないだろ。
でも蓮司は嘘をついた。ここで本当のことを言ったら、もう戻れない。
陽和は黙っていた。
風が吹いた。長い沈黙だった。
やがて、陽和が口を開いた。声が小さかった。
「……蓮司にとって、私は"誰にでも"の一人なんだ」
「……そう言ってんだろ」
「私が蓮司に笑うのは"誰にでも"と同じ笑顔で、私が蓮司を心配するのは"幼なじみだから"で——蓮司がクリームパン買ってくれたのも"幼なじみだから"」
「……そうだ」
陽和は唇を噛んだ。
「——嘘つき」
蓮司の心臓が跳ねた。
「嘘つき。蓮司、嘘ついてる。分かるよ、私。ずっと隣にいたんだから——」
「分かってねえよ。おまえは何も分かってない」
「じゃあ教えてよ! 何が"きつい"のか、ちゃんと教えてよ!」
陽和の声が大きくなった。目が潤んでいる。
蓮司は見てしまった。見てしまって——一歩、後ろに下がった。
これ以上近づいたら終わる。この目を見たら全部言ってしまう。
「……教えることなんかねえよ。俺はただの幼なじみだ。それ以上でもそれ以下でもねえ」
低く、平坦に、感情を殺して言った。
陽和の目から涙がこぼれた。
一滴。頬を伝って、顎から落ちた。
蓮司の中で何かが砕けた。
——泣かせた。泣かせたくなかったのに。守りたかったのに。この笑顔を曇らせたくなくて距離を取ろうとしたのに、結局自分が泣かせている。
「陽和——」
「いい。分かった」
陽和は袖で目を拭った。乱暴に。何度も。でも涙は止まらなかった。
「分かった、蓮司がそう言うなら、そうなんだよね。幼なじみ。うん。そうだよね。——ごめんね、私が勝手に、蓮司のこと特別だって思ってただけだった」
「——は?」
「蓮司だけは違うって思ってたの。私が誰にでも笑うの、蓮司は知ってるでしょ。でもね、蓮司の前だけは——蓮司の前だけは、全部本物だったの。作ってない笑顔。素の自分。蓮司の前でだけ、私は"七瀬陽和"でいられたの」
蓮司は動けなかった。
「でもそれも"幼なじみだから"って言われたら——もう、どうしていいか分かんないよ」
陽和は涙を拭い終わらないまま、背を向けた。
「ちょっと、一人にして」
「陽和——」
「お願い。今は無理」
足音が遠ざかる。屋上のドアが開いて、閉まった。
蓮司は一人、屋上に残された。
風が吹いている。さっきと同じ風。でも今は、凍えるほど冷たく感じた。
手を見た。拳を握りすぎて、爪の跡が赤く残っている。
——何やってんだ、俺は。
守りたかったんじゃないのか。泣かせたくなかったんじゃないのか。
「幼なじみだから」と言えば、線が引けると思った。距離を取れると思った。そうすれば、いつか来る「陽和が離れていく日」のダメージを減らせると思った。
でも現実は——自分の言葉で陽和を泣かせた。
「蓮司の前だけは、全部本物だったの」
あの言葉が、頭の中で何度も何度も繰り返される。
本物だったと言った。俺の前でだけ、素だったと。作っていない笑顔だったと。
——それは、つまり。
蓮司はフェンスを拳で叩いた。金属の音が乾いた空に響いた。
「……っ、ばか」
自分に言ったのか、陽和に言ったのか、分からなかった。
屋上に一人、蓮司は立ち尽くしていた。追いかけなければ。追いかけたかった。でも足が動かなかった。さっき自分が言った言葉が鎖になって、足首に巻きついている。
「ただの幼なじみだ」と言った口で、どの面下げて追いかけるのか。
空が暗くなり始めていた。
明日は文化祭だった。
その日、蓮司は帰り道で陽和を待たなかった。
いつもの電柱の前に立つことも、歩幅を合わせることも、車道側を歩くこともしなかった。
一人で帰って、一人で家に入って、二階の自室の窓を開けなかった。
隣の家の明かりが灯ったかどうかも、確認しなかった。
ベッドに横になって、天井を見上げた。暗い部屋の中で、蓮司の目だけが開いている。
引き出しの奥に、ペンキの跡が残ったハンカチがある。
明日、文化祭が来る。
陽和はカウンターの前に座ってくれるだろうか。——もう、座ってくれないかもしれない。
蓮司は寝返りを打って、壁に向かって目を閉じた。
眠れなかった。
隣の家の方向から、かすかに音がした。気のせいかもしれない。でもそれが——泣いている声のような気がして、蓮司は枕に顔を埋めた。
聞きたくなかった。
自分のせいだと、分かっていたから。




