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■ 第四章「赤い耳と不器用」

月曜日の朝。


陽和は登校しながら、自分の鞄のポケットに入っているものを意識していた。


蓮司のハンカチ。洗った。アイロンもかけた。ペンキの跡は薄く残ったけれど、ほとんど目立たない。


日曜日、一日中考えていた。洗濯機に入れる前に少しだけ顔を近づけて、柔軟剤の匂いを確認した。蓮司の家の匂いだ。小学生の頃から知っている匂い。なのに、土曜の夜からその匂いの意味が変わってしまった気がして、陽和は自分で自分に戸惑っていた。


——なにやってんだろ、私。


校門をくぐると、いつも通りたくさんの声がかかった。


「ひよりん、おはよー!」「七瀬先輩、おはようございます!」「ひよりちゃん、昨日のLINE見た?」


陽和はいつも通り笑って返した。でも今日は、いつもの笑顔の裏側で、別のことを考えている自分がいた。


教室に入る。窓側の後ろから二番目。自分の席。


隣の席——には、もう蓮司が座っていた。珍しい。いつもは陽和の方が先なのに。


イヤホンをして、窓の外を見ている。コンタクトの日。寝癖はない。制服はきちんとしている。


「おはよう、蓮司」


「……おう」


いつもの一文字。いつもの横顔。


でも陽和は今日、その横顔から目を逸らすのに一拍かかった。


——あ。


首筋に絆創膏が貼ってある。


「蓮司、それどうしたの?」


「……何が」


「首。絆創膏」


蓮司が無意識に首に手をやった。


「……昨日、部活の自主練で転んだ」


「転んだ? 蓮司が?」


「たまには転ぶだろ、人間なんだから」


「大丈夫なの? 痛い?」


「痛くねえ」


「見せて」


「見せねえよ」


陽和は席を立って、蓮司の隣に立った。しゃがんで、首元を覗き込もうとする。


「おい、近い」


「だって心配なんだもん」


「……擦り傷だって。大したことねえから」


蓮司が身を引く。陽和は引き下がらない。この距離で見ると、蓮司の睫毛が本当に長いことが分かる。肌がきれいだということも。少しだけ寝不足っぽい目元に、薄い影があることも。


——あれ。


陽和の心臓が、とん、と不規則に跳ねた。


こんなに近くで蓮司の顔を見たのは初めてではないはずだった。幼なじみだ。小さい頃から隣にいた。なのに今日は、蓮司の顔がまともに見られない。


「……陽和?」


「っ——なに?」


「おまえ、顔赤くない?」


「赤くない! 教室暑いだけ!」


「六月だけどまだエアコンついてねえぞ」


「だから暑いんでしょ!」


陽和は自分の席に逃げ帰った。鞄から教科書を出すふりをして、顔を隠す。


心臓がうるさい。なにこれ。なに、今の。


蓮司はちらりと陽和を見て、首を傾げた。よく分からないが、変なやつだと思った。いつものことだが。


二時間目の数学。


蓮司は数学が得意だった。陽和は壊滅的だった。これも昔からのことで、テスト前になると陽和が「教えて」と泣きつき、蓮司が「毎回言ってんな」と呆れながら教える、というのが恒例行事だった。


今日の授業で、教師が突然あてた。


「七瀬、この問題解いてみろ」


陽和が立ち上がる。黒板に向かう。チョークを手に取って——固まった。


連立方程式の応用問題。陽和の天敵だ。


「えーっと……」


教室に沈黙が流れる。陽和はチョークを持ったまま、黒板の前で笑った。困った時に笑うのは陽和の癖だった。でもその笑顔の下で、耳が赤くなっているのが蓮司には見えた。


恥ずかしいのだ。分からないことが、ではなく、みんなの前でできない自分をさらすことが。


蓮司は自分のノートに目を落とした。さっき解いた問題の答えが書いてある。


三秒、考えた。


それから、消しゴムのカバーを外して、隣の席——空席の陽和の机——にそっと置いた。消しゴムの裏に、シャーペンで小さく数式が書いてある。最初の二行だけ。導入部分。そこまで見れば、陽和なら解ける。


前の席の女子が蓮司を振り返って、小さく目を見開いた。蓮司は窓の外を見ていた。何食わぬ顔で。


陽和が席に目をやった。机の上の消しゴム。裏返す。数式。


——蓮司の字だ。


陽和は黒板に向き直って、チョークを動かし始めた。最初の二行を手がかりに、三行目からは自力で解いた。


「正解だ、七瀬。ちゃんと予習してるな」


「あ、ありがとうございます」


席に戻る。消しゴムを手に取る。裏の数式を指でなぞった。


蓮司は窓の外を見ている。こちらを見ない。


陽和は消しゴムを蓮司の机にそっと返した。小さく「ありがと」と囁いた。


蓮司は聞こえなかったふりをした。でも、消しゴムを受け取る時に、ほんの一瞬だけ陽和の指先に触れた。


偶然か、故意か。陽和には分からなかった。


分からなかったけど、触れた指先がしばらくの間、じんわり熱かった。


昼休み。


今日も陽和の机の周りには人が集まった。文化祭が近いこともあって、相談や打ち合わせがひっきりなしだ。


蓮司はいつも通り自分の席で弁当を食べていた。今日も陽和の母からの差し入れがある。今日は出汁巻き卵と唐揚げが二個。


陽和が人に囲まれている。笑っている。後輩の女の子の頭を撫でている。隣のクラスの男子に文化祭の段取りを説明している。先輩に呼ばれて廊下に出ていく。


蓮司は唐揚げを口に入れた。美味い。七瀬家の唐揚げは朝霧家のより美味い。それは認める。


陽和が廊下から戻ってきた。先輩との話は終わったらしい。席に戻ろうとして、途中で別の友人に捕まる。「ひよりん、ちょっとこれ見て!」「いいよ!」——また笑った。


蓮司は弁当箱の蓋を閉めた。


おもむろに鞄の中から小さな紙袋を取り出して、陽和の机の上に置いた。


それから席を立って、教室を出た。


五分後、陽和が自分の席に戻った。


「あれ」


机の上に紙袋。見覚えのある袋だ。駅前のパン屋——陽和が好きな、クリームパンが美味しい店。


中を開けると、クリームパンが一個。まだほんのり温かい。


朝、買ってきたのだろう。


袋には何も書いていない。メモもない。でも、陽和にはすぐ分かった。


教室を見回す。蓮司の席は空。たぶん屋上だ。


真白が覗き込んできた。


「ひよりん、それ何?」


「……クリームパン」


「え、誰から?」


「……たぶん、サンタクロース」


「は? 六月に?」


陽和は笑ってクリームパンを一口かじった。甘い。いつもの味。好きな味。


——蓮司は、どうして私がここのクリームパンが好きだって知ってるんだろう。


言ったことは、たぶんある。でもいつだったか覚えていない。中学の時かもしれないし、小学生の時かもしれない。何年も前にぽろっと言った一言を、蓮司は覚えている。


覚えていて、何も言わずに机の上に置いていく。


「サンタクロースがいるならお礼言わなきゃね」と真白が笑った。


陽和はクリームパンを食べながら、泣きそうになっている自分を笑顔で隠した。


五時間目が始まる前。


蓮司が教室に戻ってきた。いつも通りの無表情で、いつも通りの歩き方で、いつも通りの席に座った。


陽和が小声で言った。


「クリームパン、ありがとう」


「……何の話」


「蓮司でしょ。駅前のパン屋のクリームパン、私の机に置いてくれたの」


「知らねえけど」


「嘘つき。あの店、蓮司の通学路の途中にしかないもん」


「…………たまたま買いすぎた」


「一個だけ買いすぎるの、器用だね」


「…………」


蓮司はイヤホンを付けた。会話終了の合図だ。


陽和は笑いを噛み殺しながら、ノートを開いた。蓮司の耳が赤い。もう見慣れた光景のはずなのに、今日はその赤さが特別に見えた。


ノートの端に、小さくメモを書いた。


クリームパン。消しゴムの数式。歩幅。ハンカチ。ペンキ。


全部、蓮司が言葉にしなかった優しさの一覧だった。


蓮司は言わない。「心配だった」とも「好きなパンだろ」とも「黒板の前で困ってたから」とも。絶対に言わない。


でも、やる。黙って、さりげなく、気づかれないように。気づかれたら「たまたまだ」「知らない」「別に」で逃げる。


その不器用さが——今まではただの「蓮司らしさ」だったのに、今日はなぜか胸の奥がきゅうっと締まる。


陽和はペンを持つ手を止めて、自分の胸に手を当てた。


心臓が、トクン、と鳴った。


——やばいかもしれない。


何がやばいのかは、まだ名前をつけたくなかった。名前をつけたら、隣の席に座っていられなくなる気がした。


放課後。


文化祭準備の続き。今日はウェイター班の衣装合わせがあった。


蓮司は白いシャツの上に黒いエプロンを巻いて、腕まくりをした姿で立っていた。カウンターの前で、腕を組んで、不機嫌そうに。


「朝霧くん似合いすぎじゃない……?」


女子のひそひそ声が聞こえる。


「ちょっと喫茶店のマスターっぽい」


「ていうか二次元?」


蓮司は周囲の視線を完全に無視して、エプロンの紐の結び目を直そうとしていた。背中に手を回すが、うまく結べない。


「蓮司、やってあげよっか?」


陽和が後ろに回った。


「いい。自分でやる」


「もう五分くらい格闘してるよ」


「……三分だ」


「どっちでもいいよ。はい、じっとして」


陽和は蓮司の背中に回った。エプロンの紐を手に取る。


近い。蓮司の背中が目の前にある。広い。シャツ越しに体温を感じる。かすかに汗の匂いがする。昼休みに自主練でもしたのだろうか。


陽和の手が、少しだけ震えた。


——何で。紐を結ぶだけなのに。


「……陽和?」


「な、なに?」


「遅い」


「ちょ、ちょっと待って。紐が絡まってて」


嘘だった。紐は絡まっていない。自分の指が言うことを聞かないだけだった。


蓮司の背中がこんなに広いことを、こんなに温かいことを、陽和は知らなかった。いや、知っていたはずだった。小さい頃、おんぶしてもらったことだってある。でもそれは、もう別の時代の話だ。


「……できた」


「ん」


蓮司が振り返った。目が合った。距離が近い。三十センチもない。


「……なんだよ」


「ううん。——似合ってるよ、蓮司」


「……そうかよ」


「かわいい」


「——かわいくねえっつってんだろ、いい加減」


蓮司が離れていく。その背中を見送りながら、陽和は自分の手のひらを見た。蓮司の背中の感触がまだ残っている。


真白が横から顔を出した。


「ひよりん、顔真っ赤だけど」


「え——うそ、暑いだけ!」


「エアコンついてるよ、今日」


「…………」


真白がにやにやしている。陽和は両手で頬を押さえた。熱い。確かに熱い。


「ひよりん、もしかしてさ——」


「言わないで」


「まだ何も言ってないけど」


「言おうとしたことは分かるから、言わないで。お願い」


真白は肩をすくめた。でも目は笑っていた。


陽和は教室の向こう側で田中と衣装の話をしている蓮司の後ろ姿を見た。エプロンの紐は、自分が結んだ形のまま、きちんと蝶結びになっている。


——やばい。


二回目の「やばい」は、一回目よりもずっと重かった。


もう、「名前をつけたくない」では誤魔化せないところまで来ている気がした。


帰り道。


蓮司はエプロンを畳んで鞄に入れていた。陽和は半歩後ろを歩いている。いつもは隣に並ぶのに、今日は少しだけ後ろだった。


蓮司が足を止めた。


「……なんで後ろにいんだよ」


「え、別に、たまたま」


「おまえの『たまたま』は信用しねえよ」


陽和は苦笑して、蓮司の隣に並んだ。肩が触れそうな距離。いつもの距離。なのに今日は、この距離がやけに近く感じる。


「ねえ蓮司」


「……なに」


「さっきのクリームパンのお返し、何がいい?」


「いらねえ。つーかクリームパンのことは知らねえって言ったろ」


「じゃあ知らない人へのお返し考えなきゃね」


「……めんどくせえ女」


「ひどい。——じゃあさ、文化祭の日、蓮司にだけ特別なもの作ってく」


蓮司の足が一瞬止まった。すぐに歩き出したが、半歩分のずれが生まれた。


「……別に、いい」


「いいの? 蓮司の好きなもの作るのに」


「俺の好きなもの知ってんのかよ」


「知ってるよ。卵サンドでしょ。コンビニ行くと絶対最初に見るもん」


「…………」


蓮司は前を向いたまま、何も言わなかった。


知っている。この女は、こういう些細なことを覚えている。誰に対してもそうなのだろう。きっとそうだ。陽和は誰の好きなものだって覚えている。真白の好きなコスメも、後輩の好きなアイドルも、先輩の好きな曲も。


俺だけじゃない。


俺だけが特別なわけじゃない。


「……勝手にしろ」


「やった。じゃあ卵サンドね。朝早起きして作る」


「……早起き苦手だろ、おまえ」


「蓮司のためなら起きられる」


蓮司は返事をしなかった。返事をしたら、声が揺れる気がした。


蓮司のためなら。


たった一言が、胸の中に落ちて波紋を広げている。


——こういうことを言うな。俺に期待させるようなことを。


でも「言うな」とは言えない。言ったら理由を聞かれる。理由を答えたら、全部終わる。


だから蓮司はいつも通り黙って、いつも通り歩幅を狭くして、いつも通り隣を歩いた。


家の前で別れる時、陽和が鞄から何かを取り出した。


「はい、これ。洗ったよ」


蓮司のハンカチ。きれいに畳んであった。


蓮司は受け取った。


「……ペンキは」


「薄く残っちゃった。ごめんね」


「…………いい」


蓮司はハンカチをポケットに入れた。


家に入って、靴を脱いで、二階に上がって、ポケットからハンカチを出した。


広げた。ペンキの跡がうっすら残っている。あの日、陽和の頬を拭いたペンキ。


畳み直す時、かすかに柔軟剤の匂いがした。


蓮司の家の柔軟剤ではなかった。七瀬家の匂いだった。陽和の家で洗ったから、陽和の家の匂いがする。


蓮司はハンカチを鼻先に近づけて——すぐに離して、引き出しの一番奥にしまった。


明日から別のハンカチを使おう。


このハンカチは——使わない。使えない。使いたくない。


ベッドに倒れ込む。天井を見る。


消しゴムに数式を書いた。クリームパンを買った。エプロンの紐を結んでもらった。ハンカチを返してもらった。


一つ一つは些細なことだった。でもその全部に陽和がいて、全部の瞬間に胸が鳴った。


蓮司は枕に顔を埋めた。


——認めたくねえ。


認めたら、もう戻れない。隣の席のただの幼なじみには。


でも、もうとっくに——とっくに戻れない場所まで来ていることを、蓮司は本当は知っていた。知っていて、目を閉じた。


隣の家の窓の明かりが、今日も灯ったのが瞼の裏に見えた気がした。

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