■ 第三章「屋上と夕焼け」
文化祭まで、あと三日。
土曜日の午後。学校は準備のために特別開放されていて、校舎のあちこちからペンキの匂いと笑い声が漏れている。
2年3組の教室も例外ではなかった。カウンターは完成し、壁にはレトロな雰囲気のポスターが貼られ、窓にはレースのカーテンが取り付けられている。
ただ、今日は人が少なかった。土曜だからだろう、半分くらいしか来ていない。
蓮司はカウンターの仕上げ——天板の最終ニス塗り——をひとりでやっていた。田中は家族の用事で休み。他のカウンター班も来ていない。
黙々と刷毛を動かす。塗って、乾かして、また塗る。単純作業は嫌いじゃない。余計なことを考えなくて済む。
——はずだった。
「蓮司、まだやってたの?」
教室のドアから陽和が顔を出した。頬にペンキが一滴ついている。たぶん看板班の手伝いをしていたのだろう。
「……まだ乾いてねえから」
「みんなもう帰り始めてるよ。真白もさっき帰った」
「先帰れよ」
「やだ」
「……なんで」
「だって蓮司ひとりじゃん。待ってる」
蓮司は刷毛を動かす手を止めなかった。止めたら、顔を見てしまう。顔を見たら、頬についたペンキが気になる。気になったら、拭いてやりたくなる。拭いたら——
「……勝手にしろ」
「うん、勝手にする」
陽和は教室に入ってきて、完成済みの椅子のひとつに腰かけた。足をぶらぶらさせながら、蓮司の背中を眺めている。
作業する蓮司の後ろ姿は、陽和の好きな景色のひとつだった。広い背中。シャツの袖をまくった腕。時々首を傾げて仕上がりを確認する横顔。ひとつのことに集中している時の蓮司は、不機嫌なんじゃなくて、静かなだけだと陽和は知っている。
「ねえ蓮司」
「……なに」
「蓮司って不器用だよね」
「……急になんだよ」
「ニス、三回も塗り直してるでしょ。ちょっとムラがあっただけなのに」
「ムラがあったら意味ねえだろ。座ってる客に見えるとこなんだから」
「ね、そういうとこ」
「……何が」
「不器用なのに丁寧。全部ちゃんとやりたい人。——好きだなあ、そういうの」
蓮司の刷毛が一瞬だけ軌道を外れた。ほんの数ミリ。すぐに戻した。
「……言葉選べよ」
「え、何が?」
「なんでもねえ」
蓮司は最後のひと塗りを終えて、刷毛を洗い用のバケツに入れた。手を拭いて、立ち上がる。
「終わった。乾くまで触るな」
「はーい。お疲れさま、蓮司」
「……おう」
蓮司はシャツの袖を戻しながら教室を見回した。もう誰もいない。廊下も静かだ。土曜の夕方の校舎は、平日とはまるで別の場所みたいに空っぽで、空気が広い。
「帰るか」
「あ、蓮司。その前にひとつ行きたいとこあるんだけど」
「……どこ」
「屋上」
屋上のドアはいつも通り開いた。
六月の風が、少しだけ湿気を含んで吹き抜けた。空はまだ明るい。でも西の端からじわじわとオレンジ色が滲み始めていて、あと一時間もすれば夕焼けが空を飲み込むだろう。
「なんでわざわざ屋上なんだよ」
「だって今日、空きれいだと思って。朝からずっと気になってたの。準備終わったら絶対見に来ようって」
陽和はフェンスに近づいて、金網に指を絡めた。風が髪を揺らす。目を細めて、遠くの空を見ている。
蓮司はドアの近くに立ったまま、その背中を見ていた。
夕方の光が陽和の白いシャツを淡く染めている。首筋に汗が光っている。一日中動き回っていたのだろう。それなのに「待ってる」と言って残って、今こうして屋上にまで来ている。
「蓮司もこっち来なよ」
「……ここでいい」
「遠い。もっとこっち」
「……」
蓮司は諦めたように歩いて、陽和の隣に立った。同じようにフェンスに手をかける。二人の指の間は、拳ひとつ分くらいの距離だった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
校庭ではサッカー部が片付けをしている。遠くで電車の音がする。カラスが鳴いた。日常の音が遠い。屋上にいると、世界からほんの少しだけ切り離されたような気持ちになる。
「ねえ」
陽和が口を開いた。空を見たままだった。
「蓮司は、私のこと——どう思ってる?」
蓮司の心臓が一拍、跳ねた。
「……どうって、何が」
「ううん、そういう意味じゃなくて」
陽和は少し笑った。でもいつもの笑い方とは違った。明るさの下に、何か薄い膜が張っているような笑い方だった。
「私って、誰にでもこうじゃん。誰にでもにこにこして、誰にでも『好き』とか『かわいい』とか言って。それって——ほんとに全部、本心だと思う?」
蓮司は陽和の横顔を見た。
陽和は空を見ている。その目が、少しだけ揺れている。
「……何の話だよ」
「今日ね、看板描いてて、隣のクラスの子が手伝ってくれたの。それで私、『ありがとう、優しいね!』って言ったの。そしたらその子、すっごい嬉しそうにしてくれて」
「……それで?」
「それ見て思ったの。ああ、私の"ありがとう"には力があるんだなって。笑顔で言えば、みんな喜んでくれるんだなって。——そしたら急に、ちょっと怖くなった」
風が吹いた。陽和の髪がふわりと揺れて、蓮司の腕に触れた。
「私の笑顔って、便利なのかなって。誰かを喜ばせる道具みたいに使ってるんじゃないかなって。本心で笑ってるつもりなのに、たまに分かんなくなるの。これは本当に私が感じてることなのか、それとも——場の空気を読んで出してるだけなのか」
蓮司は何も言わなかった。
言えなかったのではない。言葉を探していた。
陽和がこんな話をするのは珍しかった。いつもは笑っている。いつもは明るい。いつもは、誰かを照らす側にいる。
だから、こうして翳る瞬間があることを、たぶん陽和の周りのほとんどの人間は知らない。
「蓮司?」
「……聞いてる」
「何か言ってよ」
「今考えてる」
「……ふふ、蓮司らしい」
陽和がまた笑った。さっきより少しだけ、本物に近い笑い方だった。
蓮司はフェンスを掴む手に力を入れて、言葉を探し続けた。気の利いたことは言えない。慰めるのも下手だ。でも——今、適当なことは言いたくなかった。
長い沈黙のあと、蓮司は口を開いた。
「……全部が全部、本心じゃなくてもいいんじゃねえの」
陽和が蓮司を見上げた。
蓮司は空を見たまま続けた。
「おまえが笑って、相手が嬉しくなったなら、それはもう本物だろ。おまえが百パー本心じゃなかったとしても、相手に届いたなら、その笑顔は嘘じゃねえよ」
「……」
「つーか、おまえが本心かどうか一番分かるのは、おまえ自身だろ。周りが決めることじゃねえ」
蓮司はそこで一度言葉を切って、小さく息を吐いた。
「それに——」
「それに?」
「…………いや」
蓮司は口を閉じた。
それに、俺に向けてる笑顔が嘘だったとしても、俺はたぶん気にしない。おまえが隣で笑ってるなら、それだけでいい。
——言えるわけがなかった。
「なに、途中でやめないでよ」
「別に。大したことじゃねえ」
「大したことだったかもしれないじゃん」
「大したことじゃなかったんだって」
陽和はじっと蓮司の横顔を見つめていた。蓮司は頑なに空を見ている。耳が赤い。夕焼けのせいだけでは説明がつかないくらい、赤い。
「……蓮司」
「なに」
「ありがとう」
「……礼言われるようなこと言ってねえだろ」
「ううん。蓮司がちゃんと考えてから喋ってくれたの、分かったから。——嬉しかった」
蓮司は何も言わなかった。
フェンスの上に置いた手が、ほんの少しだけ陽和の方に動いた。拳ひとつ分だった距離が、指三本分くらいになった。
それだけの変化を、陽和は見逃さなかった。
「ねえ」
「……まだなんかあんのかよ」
「蓮司の前では、疲れた顔してもいい?」
蓮司の視線がようやく空から降りて、陽和を見た。
陽和は笑っていなかった。笑っていない陽和は珍しかった。でも、その真剣な目がまっすぐ蓮司を見つめていて、息が詰まりそうだった。
「……当たり前だろ」
声が少し低くなった。自分でも気づいたが、直せなかった。
「俺の前で愛想笑いしたら怒るぞ」
「……怒るんだ」
「当然だろ。気持ち悪い」
「ひどい言い方」
「事実だ。おまえの愛想笑いは分かる。目が笑ってねえ時、口だけ上がってんだよ。あれ嫌い」
陽和が目を見開いた。
「……気づいてたの?」
「隣にいんだぞ、毎日。気づかねえわけねえだろ」
その一言が、陽和の胸の奥深くに落ちた。
ずっと隣にいたから。毎日見ていたから。だから分かる、と蓮司は言った。不器用に、ぶっきらぼうに、でも確かに。
陽和の目の奥が、じわりと熱くなった。
「……泣くなよ」
蓮司が焦ったように言う。
「泣いてない」
「目、赤い」
「夕日のせい」
「嘘つけ」
陽和は慌てて袖で目元を押さえた。泣くつもりなんてなかった。なかったのに、蓮司の言葉は時々、こうして予想外の角度から刺さってくる。
普段はぶっきらぼうで、素っ気なくて、褒めてもくれないし、甘い言葉なんて死んでも言わないくせに。
——いちばん大事なことだけ、ちゃんと言ってくれる。
「……蓮司のばか」
「は? なんで俺が罵倒されてんの?」
「ばかだから。不器用すぎて、ばか」
「意味分かんねえ……」
蓮司は困ったように頭を掻いた。
その仕草がまた、どうしようもなく愛おしくて、陽和はもう我慢できなくなって笑った。さっきまでの薄い膜はもうなかった。ただの、本物の笑い方だった。
蓮司はその笑顔を見て——見てしまって——心臓がうるさいのを感じた。
夕日が沈みかけている。
空がオレンジから赤紫に変わる、ほんの数分間。世界が一番きれいに染まる時間帯。
陽和が言った。
「ねえ、蓮司」
「……もう何も答えねえぞ」
「いいの、聞くだけで。あのね——」
陽和はフェンスに額をくっつけて、空に向かって言った。
「みんなの前で笑ってる私と、蓮司の前で泣きそうになってる私、どっちもほんとの私なの。でもね、蓮司の前の方が、ちょっとだけ素に近いかもしれない」
蓮司は答えなかった。
答える代わりに、制服のポケットからハンカチを出して、陽和の前に差し出した。
「……頬。ペンキついてる。朝からずっと気になってた」
陽和が頬に手をやる。
「え、うそ、誰も教えてくれなかったんだけど!?」
「気づいてたけどタイミングなかっただろ」
「朝からって!? 一日中ついてたの!?」
「……まあ」
「蓮司! もっと早く言ってよ!」
「……だから今言ってんだろ」
陽和はハンカチをひったくるようにして受け取り、頬をごしごし擦った。蓮司のハンカチからは柔軟剤の匂いがした。清潔で、蓮司の匂いがした。
「取れた?」
「……まだちょっと残ってる」
「どこ?」
蓮司は一瞬迷って、それから諦めたように手を伸ばした。
陽和の頬に触れる。親指で、ペンキの跡をこすった。
ほんの二秒。それだけの接触。
でもその二秒の間、二人とも呼吸を忘れた。
「……取れた」
蓮司の声がかすかにかすれていた。手を引っ込める速度が、普段よりほんの少し遅かった。
陽和は頬に残る蓮司の指の体温を感じながら、何も言えなかった。心臓がうるさい。耳まで熱い。これは夕日のせいじゃない。夕日のせいには、できない。
「……帰るぞ」
蓮司が先に背を向けた。
「う、うん」
陽和がその後を追う。屋上のドアに手をかけた蓮司が、少しだけ振り返った。
「陽和」
「な、なに」
「明日も来るなら、ペンキ気をつけろ」
「……それだけ?」
「それだけだ」
蓮司は階段を降り始めた。
——それだけのわけねえだろ。
心の中で毒づく。頬に触れた感触がまだ指先に残っている。柔らかかった。温かかった。指が覚えてしまった。忘れ方が分からない。
階段の途中で、陽和が後ろから言った。
「ねえ蓮司」
「……なに」
「ハンカチ、洗って返すね」
「……別にいい」
「よくないよ。ちゃんと洗って返す。——ペンキの色、取れなかったらごめんね」
「…………いいって言ってんだろ」
本当は返さなくていい。返さないでほしい。お前の鞄の中に入れておいてほしい。俺のハンカチが、お前のそばにあるという事実が——
蓮司は思考を打ち切った。
これ以上は危険だった。
校門を出て、いつもの帰り道。
夕焼けはもう終わりかけていて、空の端から紺色が広がっていた。街灯がぽつぽつと灯り始めている。
二人は並んで歩いていた。いつも通り蓮司が車道側で、陽和が内側。いつもと違うのは、どちらもいつもより少しだけ口数が少ないことだった。
陽和の手が、鞄の持ち手を握りしめている。蓮司のハンカチは鞄のポケットに入っている。洗って返すと言った。言ったけど、少しだけ——もう少しだけ手元に置いておきたいと思った自分に、陽和は戸惑っていた。
「……蓮司」
「ん」
「今日、ありがとう。屋上で話聞いてくれて」
「別に。聞いてただけだろ」
「聞いてくれたから嬉しいんだよ」
「……そうかよ」
しばらく歩いて、分かれ道——ではなく、二人の家の前に着いた。左が七瀬家、右が朝霧家。この並びもずっと昔から変わらない。
「じゃあね、蓮司。また月曜日」
「……おう」
陽和が自分の家の門に手をかけた。
「陽和」
蓮司が呼び止めた。陽和が振り返る。
蓮司は少し離れたところに立っていた。街灯の光が逆光になっていて、表情がよく見えない。
「さっきの、忘れていいから」
「……さっきのって?」
「……全部」
「全部って何!? どれ!?」
「全部だ。屋上のこと全部。忘れろ」
「忘れないよ」
「忘れろって言ってんだろ」
「やだ。蓮司が言ってくれたこと、全部覚えてる」
蓮司は黙った。暗くてよく見えないが、たぶん耳が赤い。たぶん、顔も。
「……勝手にしろ」
「うん、勝手にする。——おやすみ、蓮司」
「……おやすみ」
蓮司は自分の家に入った。玄関のドアを閉めて、靴を脱いで、廊下に立って——額を壁に押し当てた。
ひんやりした壁が、熱い顔を冷ましてくれるのを待った。
全然冷めなかった。
「蓮司の前の方が、ちょっとだけ素に近いかもしれない」
あの言葉が頭の中でリフレインする。消せない。消したくない。消したくないと思っている自分が、いちばん厄介だった。
二階の自室に上がって、窓を開けた。隣の家——七瀬家の二階の窓に、明かりがついた。陽和の部屋だ。カーテン越しに影が動いている。
蓮司はすぐに窓から目を逸らして、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げる。
——好きだなあ、そういうの。
——蓮司の前では、疲れた顔してもいい?
——蓮司の前の方が、ちょっとだけ素に近いかもしれない。
心臓がうるさい。枕で顔を覆った。
「…………ずるいんだよ、おまえは」
誰にも聞こえない声で、蓮司は呟いた。
誰にでも笑うくせに。
俺の前でだけ泣きそうになるくせに。
それが——いちばん、ずるい。
枕の下で、蓮司の口元がかすかに歪んだ。笑みなのか、苦しさなのか、本人にも分からない形をしていた。
隣の家の明かりが消えたのは、それからしばらく経ってからだった。
蓮司はそれを確認してから——確認してしまってから——ようやく目を閉じた。




