■ 第二章「誰にでも笑うなよ」
六月。蒼嶺高校は文化祭準備の空気に包まれていた。
2年3組の出し物は「レトロ喫茶」。教室を丸ごと昭和風の喫茶店に改装するという、やたら気合の入った企画だった。言い出したのは学級委員の真白で、クラスの大半が「いいじゃん!」と乗った。
放課後の教室。机を端に寄せて、段ボールとペンキとガムテープが散乱している。
「ひよりん、このメニュー表のデザインどう思う?」
真白がスケッチブックを広げる。陽和は覗き込んで、ぱっと顔を輝かせた。
「かわいい! 真白絵うまいなあ。ここにちっちゃいコーヒーカップのイラスト足したらもっと可愛くない?」
「天才! 描き足す!」
陽和は内装班に所属していた。正確には、どの班にも顔を出しては手伝い、気づけば全体の潤滑油みたいになっている。
「七瀬さん、看板の文字これでいい?」「ひよりちゃん、布の長さ測るの手伝って!」「七瀬、受付のシフト表まとめてくれない?」
名前を呼ばれるたび、陽和は「いいよ!」と走っていく。
蓮司は窓際で、黙々と木材を切っていた。
カウンター制作班。力仕事があるという理由で振り分けられた。隣で同じ班の男子——田中——がのこぎりの使い方に苦戦している。
「朝霧、おまえ手際よすぎない?」
「……別に普通だけど」
「普通じゃないって。大工か?」
蓮司は答えずに、次の板を測りにかかった。定規を当てて、鉛筆で線を引く。その視線が、一瞬だけ教室の中央に向いた。
陽和が笑っている。
隣のクラスから助っ人に来た男子——名前は知らない、たぶん2年1組の誰か——に何か言われて、お腹を抱えて笑っている。
そいつが陽和の肩に手を伸ばして、髪についたらしい紙くずを取ってやっている。
陽和が「ありがとう!」と笑う。いつもの笑顔。誰にでも向ける、あの笑顔。
——ガッ。
「うおっ、朝霧!? 切りすぎ!」
田中の声で我に返った。板に引いた線を五センチほどオーバーしてのこぎりを入れていた。
「……あー」
「大丈夫か? 珍しいな、おまえがミスるの」
「……ちょっと測り直す」
蓮司は新しい板を引き寄せた。握ったのこぎりの柄に、無駄に力が入っていた。
「蓮司、お疲れ!」
準備がひと段落した頃、陽和がペットボトルのお茶を持ってきた。蓮司の分。ラベルは蓮司がいつも買うやつだった。
「……どうも」
「カウンターすごいね、もうほとんど形になってる」
「まだ塗装してない」
「でもこの木の感じ、雰囲気あるよ。蓮司が作ったんだなあって思うと、なんかいいね」
「……誰が作っても同じだろ」
「同じじゃないよ。蓮司が作ったから、ここに座りたいなって思う」
蓮司はペットボトルの蓋を開ける手が一瞬止まって、そのまま何も言わずにお茶を飲んだ。
陽和は蓮司の隣にしゃがみ込んで、カウンターの木肌を撫でた。
「ねえ、文化祭当日、蓮司はなにするの?」
「知らね。裏方じゃねえの」
「ウェイターやってよ」
「は? やらねえ」
「えー、蓮司がエプロンして『ご注文は』とか言ったら絶対かわいいのに」
「だからかわいくねえって……」
「お客さん絶対増えるよ。蓮司ファンの女子けっこういるんだよ?」
「いらねえ」
蓮司はぶっきらぼうに言い切った。その「いらねえ」があまりにも即答だったので、陽和はきょとんとした。
「……いらねえって、なにが?」
「……別に。全部」
蓮司は立ち上がった。木屑をズボンから払う。
「俺、部活あるから。あと片付けといて」
「あ、蓮司——」
呼び止める声を背に、蓮司は教室を出た。
廊下に出た瞬間、蓮司は壁に背をつけて天井を仰いだ。
——何やってんだ、俺。
別にあの2年1組のやつが髪を触ったくらいで。別に、陽和が笑ったくらいで。いつものことだろ。いつもの、何でもないことだろ。
なのに胸の奥がざらつく。のこぎりの刃で内側を擦られているみたいに、じりじりと痛い。
こういうのを何と呼ぶのか、蓮司は知っていた。知っていて、名前をつけたくなかった。
名前をつけたら、戻れなくなる気がした。
文化祭の準備期間は一週間。
その一週間で、蓮司の不機嫌指数は右肩上がりだった。
理由は明白だった。
文化祭準備というのは、普段関わらない人間同士が関わるイベントだ。他クラスとの合同作業、先輩後輩の交流、買い出しの遠征。
その全ての中心に、陽和がいた。
月曜日。隣のクラスの男子が陽和に差し入れのジュースを持ってきた。陽和は「わあ、ありがとう! 気が利くね!」と笑った。
火曜日。後輩の男子が陽和に文化祭の衣装について相談に来て、三十分も話し込んでいた。陽和は「その色、絶対似合うよ!」と目を輝かせていた。
水曜日。買い出しの帰り、荷物が重いからと3年の先輩が陽和の荷物を持ってやっていた。陽和は「先輩優しい!」と笑った。
そのすべてを、蓮司はカウンターの木材を切りながら、ペンキを塗りながら、釘を打ちながら、見ていた。
木曜日の放課後。
蓮司がカウンターにニスを塗っていると、背後から陽和の声が聞こえた。
「藤堂先輩、これほんとに持ってくれるんですか? 重いですよ?」
「全然。七瀬さんの頼みならいくらでも」
「もう、先輩ってほんと優しいですよね。かっこいい」
——かっこいい。
蓮司の手が止まった。
刷毛を持つ指先に力が入る。ニスが一箇所に溜まった。
かっこいい、と言った。あいつが。他の男に。
別に「かわいい」は俺だけに言う言葉じゃない。「かっこいい」だって誰にでも言うだろう。それがあいつだ。知ってる。分かってる。分かって——
「朝霧、ニス溜まってんぞ」
田中に指摘されて、蓮司は無言で刷毛を動かした。
「おまえ今週ずっと機嫌悪くない? なんかあった?」
「別に」
「『別に』がおまえの口癖なの知ってるけど、今週の『別に』はちょっと怖いって」
「…………」
蓮司は刷毛を置いて、立ち上がった。
「ニス、乾くまで触るなよ」
「え、どこ行くの?」
「外の空気吸ってくる」
教室を出る。廊下を歩く。いつもの階段を上る。いつもの屋上。いつもの、誰もいない場所。
フェンスに指を絡めて、校庭を見下ろした。
バスケ部の後輩たちが走り込みをしている。今日は準備で部活を休んだ。サボりだと思われているかもしれない。どうでもいい。
蓮司は額をフェンスに押し当てた。金属の冷たさが、少しだけ頭を冷やしてくれた。
——誰にでも笑うなよ。
言えるわけがなかった。言う権利がない。
陽和が誰に笑おうと、誰を褒めようと、蓮司には何も言えない。幼なじみ。それだけの関係。それ以上の何かになりたいと願ったことも——願っていると認めたこともない。
認めたら、壊れる。この距離が。この「隣の席のただの幼なじみ」という、居心地のいい場所が。
「蓮司?」
背後で声がした。
また、この足音。
「……なんで来んだよ」
「だって蓮司、今週ずっと変だもん」
陽和がフェンスの横に立った。蓮司は顔を上げなかった。
「変じゃねえ」
「変だよ。ニス塗りながらすっごい怖い顔してた」
「……顔はもとからだろ」
「違う。蓮司の不機嫌には種類があるって前も言ったでしょ。今週のは——なんか、怒ってるっていうか、苦しそう」
蓮司は黙った。
陽和は少し間を空けて、小さな声で訊いた。
「ね、私なんかした?」
「……してねえよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
嘘だった。
おまえは何もしていない。いつも通り笑っているだけだ。いつも通り、誰にでも。
——それが、きついんだよ。
言葉にはしなかった。代わりに、蓮司はフェンスから手を離して、陽和の方をちらりと見た。
夕日が陽和の横顔を染めている。風で髪が揺れる。少し心配そうな目。眉が下がっている。この顔は、蓮司のためだけに向けられている表情だった。
——ずるいだろ、そういうの。
「……陽和」
「うん」
「文化祭当日」
「うん?」
「ウェイター、やってやるよ」
陽和が目を丸くした。
「え、やってくれるの? さっきあんなに嫌がってたのに」
「…………条件がある」
「なに?」
蓮司は視線を逸らした。夕焼けが赤いせいで、自分の顔が赤くても分からないだろうと、そう祈りながら。
「おまえの席、カウンターの前な。俺がいる方の」
「……え?」
「他のとこ座るなよ。俺が作ったカウンターの前に座れ」
陽和は数秒、ぽかんとしていた。
それから、ゆっくりと、花が咲くみたいに笑った。
「——うん。蓮司が作った場所に座る」
「…………」
「やっぱり蓮司、かわいい」
「かわいくねえっつってんだろ……」
蓮司は踵を返して、屋上のドアに向かった。
「帰るぞ。もう暗くなる」
「あ、待ってよ」
陽和が駆け寄ってくる。その足音が隣に並ぶのを待って、蓮司は階段を降り始めた。
——カウンターの前に座れ。
なんだよそれ。なに言ってんだ俺は。
でも。
陽和が他の誰かの作った場所に座って、他の誰かに「ありがとう」と笑うところを見るくらいなら。
——俺の前にいろ。
その言葉だけは、心の奥の、絶対に陽和には聞こえない場所で、確かに響いていた。
帰り道。
いつもの道。いつもの並び順。蓮司が車道側、陽和が内側。それは小学生の頃からの配置で、どちらが決めたわけでもなく、自然とそうなっていた。
「ねえ蓮司」
「……なに」
「文化祭、楽しみだね」
「……まあ」
「蓮司のエプロン姿、写真撮っていい?」
「ダメ」
「えー」
「ダメって言ってんだろ」
「じゃあ目に焼き付ける」
「…………好きにしろ」
陽和がくすくす笑う。
蓮司は前を向いたまま歩いた。
少しだけ、ほんの少しだけ、口元が緩んだことは——暗くなり始めた帰り道が、隠してくれた。




