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■ 第一章「隣の席の不機嫌」

王道ラブラブストーリーを書き上げたくて。

朝のホームルームが始まる五分前。2年3組の教室は、いつも通りちょっとうるさい。


七瀬陽和ななせひよりは自分の席——窓側の後ろから二番目——に鞄を置いて、隣の席を見た。


主はまだ来ていない。机の上には何もない。椅子は引かれたまま。


「おはよー、ひよりん!」


後ろから声をかけてきたのは友人の真白ましろだ。陽和は振り返って笑う。


「おはよう! 真白、今日髪巻いてるじゃん、かわいい!」


「えへへ、気づいてくれた? 朝30分早起きした」


「えらい! 似合ってるよ」


真白が嬉しそうに髪を揺らしているところに、教室の前のドアが開いた。


長身。制服のシャツは第一ボタンまできっちり閉めているのに、なぜかだるそうに見える。ネクタイは緩め。銀縁の眼鏡はかけていない日——つまり今日はコンタクト。寝癖はない。けれど表情は、今日も通常運転の不機嫌面。


朝霧蓮司あさぎりれんじが教室に入ってきた。


何人かの女子がちらりと目をやるが、蓮司は誰にも目を合わせず、まっすぐ自分の席——陽和の隣——に向かう。


鞄をドサッと置いて、椅子に座って、イヤホンの片耳を付ける。


「おはよう、蓮司」


陽和が声をかける。


「……おう」


返事、一文字。


「今日コンタクトだね」


「……ああ」


「眼鏡もいいけど、コンタクトの日もいいね。目おっきくてかわいい」


蓮司の眉がぴくりと動いた。


「——かわいくねえし」


「かわいいよ? ね、真白もそう思わない?」


急に振られた真白は「え、あ、う、朝霧くん確かに目おっきいよね」と若干おどおどしながら答えた。蓮司の視線が怖かったらしい。


「ほら」


「ほら、じゃねえ。人を巻き込むな」


「ふふっ」


陽和は楽しそうに笑って、自分の席に座り直した。


蓮司はイヤホンの音量を少し上げて、窓の外を見た。


——朝から調子狂うんだよ、こいつは。


そう思いながらも、イヤホンをしていない方の耳は、陽和が友人たちと笑い合う声をずっと拾っていた。


昼休み。


陽和の机の周りには、いつの間にか人が集まる。


隣のクラスの女子が「ひよりちゃん、これ見て!」とスマホを持ってくる。後輩が「七瀬先輩、文化祭の相談いいですか?」と顔を出す。同じクラスの男子が「七瀬ってほんと誰とでも仲良いよな」と笑う。


陽和は全員に、同じ温度で笑い返す。


「いいよ! 見せて見せて」「もちろん! 放課後でいい?」「えー、そうかな。ありがと!」


蓮司は自分の席で弁当を食べていた。母親が持たせてくれた弁当と、陽和の母親が「蓮司くんの分も」と持たせてくれた卵焼き。


隣の席はいつの間にか人だかりの中心になっていて、蓮司との間には三人くらいの人間が立っている。


別に、いい。いつものことだ。


蓮司は卵焼きを口に入れた。甘い味付け。陽和の母の味。


「——朝霧くん」


不意に声をかけられて、蓮司が顔を上げると、同じクラスの男子——確か名前は桐谷——が立っていた。


「七瀬さんと幼なじみなんだっけ? いいなー、あの子ほんと天使だよな」


「…………」


「朝霧くん的にはどうなの? やっぱ気になったりする?」


「別に。ただの幼なじみだけど」


「えー、もったいなー。俺だったら絶対好きになってるわ」


蓮司は卵焼きを箸で掴む力が少しだけ強くなったことに気づかないふりをした。


「……好きにすれば」


「まじ? じゃあ俺アタックしていい?」


「——知らね」


蓮司は弁当箱の蓋を閉めて、席を立った。


「え、朝霧くん? 俺なんか悪いこと言った?」


返事はしなかった。


弁当を鞄にしまって、教室を出る。廊下を歩く。階段を上る。屋上の鍵はいつも通り壊れている。ドアを開けて、風を受ける。


誰もいない。静かだ。


蓮司はフェンス際に座り込んで、空を見上げた。


——好きにすれば。


自分で言った言葉が、胸の中で刺さったまま抜けない。


好きにしろと言った。言えてしまった。


なんで止めなかったんだろう。「やめろ」と言えばよかったのか。でも、なんの権利があって。ただの幼なじみが。ただの隣の席の、ただの——


「蓮司」


声がした。


階段を上がってくる足音。ドアが開いて、陽和が顔を出した。息が少し上がっている。探したのだろう。


「やっぱりここにいた。なんで急にいなくなるの?」


「……別に。飯食い終わったから」


「嘘。まだ卵焼き残ってたでしょ。お母さんの卵焼き残すの、蓮司は絶対しないもん」


「……なんでそこまで見てんだよ」


「隣の席だからね」


陽和は蓮司の横に座った。少し距離を空けて、でも手を伸ばせば届く位置に。


五月の風が二人の間を通り抜ける。


「ね、蓮司」


「……なに」


「桐谷くんになんか言われた?」


蓮司は答えなかった。


「蓮司ってすぐ顔に出る。不機嫌の種類が違うの、私わかるよ」


「……わかんなくていい」


「えー」


陽和は膝を抱えて、蓮司の横顔を見上げた。風で前髪が揺れている。睫毛が長い。目を伏せると、ちょっと寂しそうに見える。


「蓮司ってさ、かわいいよね」


「……このタイミングでそれ言う?」


「だってかわいいんだもん。怒った顔も、黙ってる顔も、こうやって屋上に逃げちゃうところも」


「逃げてねえし」


「逃げてるくせに」


蓮司は舌打ちした。けれど立ち去らない。


陽和はそれを知っている。蓮司の舌打ちは"出ていけ"ではなく"降参"の合図だということを。


「……五限、遅れるぞ」


「うん。もうちょっとだけ」


二人は並んで座ったまま、しばらく空を見ていた。


蓮司はイヤホンを外していた。理由は聞かないでほしい。


陽和の髪が風に揺れるたび、ふわりとシャンプーの匂いがした。


——誰にでも笑うくせに、なんでこういう時だけ、隣に来るのが俺なんだよ。


期待してしまうだろうが。


蓮司は目を閉じて、その思考を握り潰した。


放課後。


陽和は昇降口で靴を履き替えていた。


「ひよりん、バイバーイ!」「七瀬先輩、今日ありがとうございました!」「ひよりちゃん、また明日ね!」


たくさんの声に手を振り返して、陽和は校門を出た。


少し歩いたところで、電柱に寄りかかって立っている長身が見えた。


イヤホンをして、スマホを見ている。けれど画面は消灯している。つまり——待っていた。


「蓮司、待っててくれたの?」


「……待ってねえし。たまたま」


「家同じ方向だもんね」


「そう。たまたま」


「たまたまが毎日続くの、すごい偶然だね」


「…………うるせ」


陽和はくすくすと笑って、蓮司の隣に並んだ。


二人の影が、夕日に伸びて重なる。


蓮司は歩幅を少しだけ狭くしている。陽和が小走りにならなくていいように。それを陽和は知っている。知っていて、何も言わない。


言ったら蓮司は「たまたまだ」と言うだろうから。


「ね、蓮司」


「……なに」


「明日も隣の席だね」


「……当たり前だろ。席替えしてねえんだから」


「うん。当たり前なのがいいなと思って」


蓮司は返事をしなかった。


ただ、歩く速度がほんの少しだけ落ちた。家に着くまでの時間が、少しでも長くなるように。


気づいているのは、夕焼けだけだった。

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