「煮込みと悔しさ」
スミレさんの「おかえりなさい」は、小さかった。
けれど、玄関の明かりの中で、確かにわたしに届いた。
「……うん。ただいま、スミレさん」
そう返した声が、思ったより小さくなった。
けれど、スミレさんは少しだけ目元をゆるめて、こくんと頷いた。
家に帰ってきた。
そのことが、遅れて胸の奥に落ちてくる。
星環闘技場の白い境界線も、場外判定の声も、まだ頭のどこかに残っている。
でも、目の前にはアルシエル家の廊下があって、台所からは煮込みの匂いがしていた。
「おかえり。二人とも」
母さんが台所から顔を出す。
その奥で、父さんも立ち上がりかけていた。
「スノア、怪我はないのかい?」
第一声がそれだった。
「ありません」
「そうか……よかった」
父さんは心底ほっとしたように息を吐いた。
その様子を見て、少しだけ肩の力が抜ける。
負けたかどうかより先に、怪我をしていないかを聞かれる。
それが家に帰ってきたということなのだと、少し遅れて分かった。
「まずは着替えてきなさい。話は食べながら聞くわ」
母さんは、いつも通りの声でそう言った。
「……はい」
* * *
食卓には、温かい煮込みと白パン、薄く切った野菜の酢漬けが並んでいた。
スミレさんが並べてくれたらしい皿は、どれも丁寧に置かれている。
席につくと、父さんがもう一度こちらを見た。
「それで、試合はどうだったんだい?」
聞き方は穏やかだった。
けれど、心配が隠しきれていない。
わたしは匙を持つ手に、少しだけ力を入れた。
「一回戦は勝ちました。土魔法の方でした」
「勝ったのか。すごいじゃないか」
「でも二回戦で負けました」
自分で言うと、思ったより胸の奥が重くなる。
父さんは何か言いかけて、母さんに目で止められた。
母さんは煮込みを取り分けながら、静かに頷く。
「相手は?」
「探索・特殊合同枠で、学院認可の補助具を使う方でした」
「補助具……遺物に近いものかしら」
「はい。移動を補助する靴でした。速いというより、止まるのが上手くて」
言いながら、白い境界線を思い出す。
防げたと思った。
でも、その先に足場がなかった。
「短杖で制圧点を取る近接型でした。魔法の撃ち合いとは、全然違いました」
父さんが眉を寄せる。
「近距離で?」
「はい」
「危なくはなかったのかい?」
「結界判定です。怪我はありません」
「それでも心配はするよ」
父さんは少し困ったように笑った。
その笑い方が優しくて、少しだけ返事に詰まる。
母さんがわたしの前に皿を置いた。
「負けた日はね、空腹のまま考えない方がいいわ」
「母さんも、そうしていたの?」
「ええ。悔しい日にお腹を空かせたまま考えると、だいたいろくな結論にならないもの」
わたしは匙で煮込みをすくう。
温かい湯気が顔に触れた。
「それで、お兄ちゃん」
「うん?」
隣で静かに食べていたお兄ちゃんが顔を上げる。
「どうして普通の見学席じゃなくて、来賓席にいたの?」
食卓の空気が、少しだけ変わった。
お兄ちゃんは匙を止めた。
「俺にも分からない」
「分からないまま、外部講師の隣に座っていたの?」
「受付では普通の見学者のはずだったんだけど、途中で警備のおっちゃんが来て」
「支部入口にいる、あの気さくな警備の方かい?」
父さんがすぐに反応した。
「うん。そのおっちゃんが、俺を外部協力員の見学候補に推薦してたらしい」
「本人の許可は?」
「記憶に、ない」
母さんが小さく息を吐いた。
「……あの方ね」
「母さん、分かるの?」
「何回か顔を会わせたことがあるわ。それに……あなたが自分から来賓席に行くとは思えないもの」
父さんは真面目な顔で考え込む。
「外部協力員というのは、正式な立場なのかい?」
「俺は正式じゃないと思う」
「では少し不安だな……」
「父さん、俺も不安だったよ」
その返しに、ミリエルがいたらきっと笑っていたと思う。
実際、スミレさんが匙を持ったまま、小さく瞬きをした。
「……ノアト、すごい?」
「違うよ、スミレ。今回は」
「今回は?」
わたしと母さんの声が、ほとんど同時に重なった。
お兄ちゃんは目をそらした。
少しだけ、笑いそうになる。
けれど、笑いきるにはまだ胸の奥が痛い。
悔しさは消えていない。
ハルベルトさんの足運びも、白い境界線も、まだ残っている。
それでも、食卓の空気はさっきより少し軽くなっていた。
「スノア」
母さんが、穏やかにわたしを呼ぶ。
「はい」
「悔しいなら、明日から考えなさい。今日は食べて、眠ること」
「……はい」
「反省は大事。でも、帰ってきた日は、ちゃんと帰ってきた自分を休ませるの」
「……そうする」
わたしはもう一口、温かい煮込みを口に運んだ。




