「来賓席の見届け人」
控え通路へ戻ると、ヴァイオラ先生が待っていた。
「対応は悪くありません。敗因は間合いです」
淡々とした声だった。
慰めではない。
だからこそ、胸の奥にまっすぐ落ちる。
「……はい」
「一度取った判断は正しい。けれど、近接制圧の連続判断には慣れていない。今は休みなさい」
「はい」
わたしは頷き、手袋を外して指を握った。
まだ動く。
大丈夫。
そう思った時、通路の向こうで足音が止まった。
「スノア・アルシエル様」
侍女の声だった。
学院の礼装。
胸元には、王家の紋章。
周囲の生徒たちが、息を呑む。
「アメリア王女殿下より、短いお時間を頂戴したく。学院応接室にて、お待ちです」
背筋が、自然に伸びた。
王女殿下に呼ばれるなど、想定していない。
心臓が一度だけ跳ねる。
「……ヴァイオラ先生」
「行きなさい」
ヴァイオラ先生は短く言った。
「礼節だけ守れば十分です。言葉は短く、誤魔化さずに」
「はい」
わたしは息を整えた。
まだ、負けた悔しさは胸の奥に残っている。
それでも、王女殿下の前に出られない理由にはならない。
* * *
応接室は、思ったより小さかった。
豪華ではある。
けれど、王城の部屋というより、学院の応接室らしい落ち着きがあった。
窓際に、アメリア殿下が座っている。
侍女と護衛は一歩下がり、距離を取っていた。
アメリア殿下はわたしを見ると、軽く咳払いをした。
「……スノア・アルシエル。試合、見事でしたわ」
「恐れ入ります、殿下」
わたしは頭を下げる。
背筋を正し、声を整えた。
令嬢として。
アルシエル家の者として。
でも、胸の奥だけはまだ少し熱い。
「あなたの氷は、派手ではありません。けれど、相手をよく見ている氷でしたわ」
「……相手を、見る氷」
「ええ。力で押すのではなく、どこに立ち、どこで崩れるのかを見ている。わたくしには、そう見えました」
負けた。
でも、見られていた。
勝敗だけではなく。
わたしの氷を。
「……はい。わたしは、わたしの氷で勝ちたかったんです」
「そう。……素敵ですわ」
それだけ言って、アメリア殿下は侍女へ目線で合図した。
合図の仕方が少し不慣れで、ほんの少しだけ可愛らしく見えた。
「本日は、お時間をいただきました。また、話しましょう」
「はい。光栄です」
わたしはもう一度礼をして、応接室を退出した。
* * *
廊下の角を曲がったところで、ミリエルが飛びつく勢いで駆け寄ってきた。
「スノアー! 王女殿下に呼ばれるとか、何それ!」
「声が大きい」
「だって王女殿下だよ!?」
「ミリエル、静かに」
サラサが小さく言って、眼鏡を直す。
その口元は、少しだけ笑っていた。
わたしは照れ隠しに咳払いをする。
「……そろそろ、帰ろう」
「うん。あ、でも――」
ミリエルは頷きかけて、ふと上段席の方を見た。
王家の紋章が入った青い天幕の近く、上段に設けられた来賓席の端。
そこに、白いバッジを胸につけたお兄ちゃんがまだ座っていた。
外部講師のミラ先生と真面目な顔で会話をしている。
「あ、ノアトくん、まだあそこにいる」
サラサも眼鏡の奥で視線を上げる。
「呼ぶ?」
「うん。呼んでくるね!」
「え、ミリエル――」
止める前に、ミリエルはもう来賓席の方へ駆け出していた。
「……速い」
サラサがぽつりと言う。
「止められなかった」
「ミリエルだから」
そう言われて、少しだけ笑いそうになった。
でも、うまく笑えなかった。
負けたことは、まだ胸の奥に残っている。
王女殿下に褒められたことも、嬉しかった。
けれど、それで悔しさが消えるわけではない。
わたしは手袋を握り直し、ミリエルが向かった先を見た。
* * *
上段の来賓席では、ミラ先生が闘技場を見下ろしたまま、静かに言った。
「良い試合だった」
「……そうですね」
結局、最後まで普通の見学席には戻れなかった。
「ハルベルト君は、補助具を速さのためだけに使っていなかった。出入りの回数を増やし、止まる位置を選ぶために使っていた」
「スノアは、止まる場所までは見てました」
「足元を止めた細い氷線、見事だったね」
ミラ先生はそこで、わずかに声を落とした。
「だが、近接制圧の間合いは、魔法の撃ち合いとは別物だ。見えてから考える時間が短すぎる」
「……はい」
それは、俺にも分かった。
スノアは見ていた。
考えていた。
ちゃんと対応しようとしていた。
でも、ハルベルトはその一つ先で、距離を変え続けていた。
「ノアト君」
「はい」
「そこまで見えているなら、言葉にして返してあげるといい」
「俺がですか?」
「君は、最後まで見ていたのだろう?」
ミラ先生は、闘技場から退場通路の方へ視線を移した。
「勝ったところだけではなく、負けたところまで」
言い返せなかった。
その時、来賓席の下から明るい声が飛んできた。
「ノアトくーん!」
振り向くと、ミリエルが大きく手を振っていた。
人目を気にしない声量で、こちらを見上げている。
「スノア、帰るよー!」
「ミリエル、ここ来賓席なんだけど」
「知ってる! だからノアトくんが下りてきて!」
「俺が動く前提なんだ」
「うん!」
その返事は、あまりにも迷いがなかった。
ミラ先生は小さく笑い、俺の胸元の白いバッジへ視線を落とした。
「行っておいで。今日の君の役目は、もう解説ではないだろう」
「最初から解説役ではなかったんですけど」
「それもそうだね」
最後まで否定しきれないまま、俺は軽く頭を下げて席を立った。
* * *
階段を下りる途中で、ミリエルは少しだけ声を落とした。
「ノアトくん」
「うん?」
「スノア、平気な顔してるけど、平気じゃない時の顔してる」
足を止めかけて、俺はゆっくり頷いた。
「分かりやすい?」
「スノアは分かりにくいよ。でも、友達だから分かる」
「ありがとう。気づけるのは、ミリエルが優しいからだよ」
「ふふん、友達ですから!」
ミリエルは胸を張ってから、少しだけ真面目な顔に戻った。
「だからノアトくんも、お兄ちゃんとしてちゃんと見てあげてね」
「うん」
「慰めすぎると、たぶん怒るよ」
「分かる」
「分かるんだ」
「妹だから」
ミリエルは一瞬きょとんとして、それから楽しそうに笑った。
「じゃあ、大丈夫だね」
大丈夫かは分からない。
けれど、何を言えばいいかは、少しだけ分かる気がした。
階段を下りきると、控え通路の近くにスノアとサラサが立っていた。
スノアは背筋を伸ばしている。
いつものように、きちんと立っている。
でも、支給杖を持っていない手が、制服の袖を少しだけ握っていた。
「……見てた?」
「見てたよ」
スノアの視線が、少しだけ揺れる。
「負けたところも?」
「最後まで」
それだけ答えた。
スノアは一度、唇を結んだ。
何かを言い返そうとして、やめたように見えた。
「……なら、分かるでしょ。まだ足りなかっただけ」
「うん」
「次は、もう少しうまくやる」
「そうだな」
「……それだけ」
「うん」
ミリエルが隣で何か言いたそうに口を開きかけたけれど、サラサが袖を軽く引いて止めた。
スノアは少しだけ目を伏せて、それから歩き出した。
「帰ろう。暑いし」
「うん、帰ろ帰ろ!」
ミリエルが明るく返す。
その声に、場の空気が少しだけ動いた。
俺たちは学院の門へ向かった。
星環闘技場のざわめきが、背中の後ろで少しずつ遠くなっていく。
星見ヶ丘からブレストン方面へ戻る定期馬車乗り場には、同じように帰る生徒や見学者が集まっていた。
空はまだ明るい。
けれど、昼の熱は少しだけ薄れている。
スノアは馬車に乗る前、一度だけ学院の方を振り返った。
何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
ただ、隣に立って、同じ方を見ていた。
* * *
夕刻。
アルシエル家。
スミレは、居間の窓を少しだけ開けて、風の通り道を作っていた。
外の熱気は、まだ重い。
けれど、家の中には煮込みのやさしい湯気と、乾いた薬草の匂いが漂っている。
小さな手が、テーブルの縁を布で拭く。
拭く順番は、少しぎこちない。
けれど、何度も同じ場所をなぞらないように、ゆっくり、丁寧に。
今日は、休む日。
学院には行かない日。
大きな声も、人の波も、魔法のぶつかる音も避ける日。
そう言われた。
分かっている。
分かっているけれど、何もしないで待つのは、少しだけ苦手だった。
守られているだけの自分でいたくない。
ほんの少しでも、帰ってくる人のために何かをしたかった。
「スミレさん、ありがとう。そこまでで十分よ」
台所から、奥様の声がした。
スミレは布を持ったまま、少しだけ顔を上げる。
奥様は鍋の火を弱めながら、穏やかに微笑んでいた。
「今度は、お皿を並べてもらえる?」
スミレは、こくんと頷いた。
棚から皿を取る。
一枚。
もう一枚。
重ねすぎないように、両手でそっと持つ。
皿の音が大きくならないように気をつけながら、テーブルへ運んだ。
「今日は、きっと二人ともたくさん話を持って帰ってくるわ」
奥様が横で小さく言った。
スミレは皿を並べる手を止める。
ノアトの声。
スノアさんの、朝の少し照れた顔。
玄関で聞いた「行ってきます」。
胸の奥に、小さな泡みたいなものが浮かんだ。
スミレは、唇を少しだけ動かす。
「……おかえり、なさい」
声はまだ弱い。
けれど、家の中の静けさには、ちゃんと届いた。
奥様は何も急かさず、ただ嬉しそうに目を細める。
「きっと喜ぶわ」
スミレは小さく頷き、次の皿を並べた。
その時、玄関の方で扉の開く音がした。
スミレの手が、皿の縁で止まる。
「ただいま」
ノアトの声。
続いて、少しだけ遅れて、スノアさんの声がした。
「……ただいま」
朝より、ほんの少しだけ小さい声だった。
スミレは両手を胸の前で重ね、玄関の方へ向き直る。
さっき練習した言葉を、もう一度、ゆっくり外へ出した。
「……おかえり、なさい」
スノアさんが、目を瞬かせた。
ほんの少しだけ、張っていた背中の力が抜ける。
「……うん。ただいま、スミレさん」
小さな声だったけれど、家の中にはちゃんと届いた。
ノアトはスノアさんの少し後ろで、静かにその様子を見ていた。
奥様は鍋の火を止め、玄関へ向かって静かに微笑んだ。
「おかえりなさい。二人とも」
今日の話は、きっとこれから始まる。
けれど今は、帰ってきた人を迎えられたことが、少しだけ嬉しかった。




