白霧の付け合わせ
冬の匂いが、朝の台所に先に入り込んでいた。
窓の外は白く澄んでいるのに、風だけが刺さるように冷たい。湯気の立つ鍋の蓋を押さえながら、母は手早く卓を整え、火を弱めた。
「ノアト。これ買ってきて」
母が差し出したのは、小さな買い物メモだった。
サーマストーン(小)×2
乾き対策の薄布(首に巻けるやつ)
ついでに“変なの”は買わないこと。
最後の一行に、ノアトは目を細める。
「……最後の一行、必要?」
「必要よ。あの店の店主は胡散臭いから」
即答だった。湯気の向こうで、口元だけが少しだけ上がる。
ノアトは、はいはい、と曖昧に返事をして上着を羽織った。
「ローウェン道具店なら、ちゃんとしたのがあるはずよ。変なのは……売り文句だけ立派だから」
「変なのって、どの辺までが変なの?」
「あなたが“面白そう”と思った時点で変」
観念して、メモを懐に入れる。
ローウェン道具店はギルド《クロニカ》へ向かう導線の途中――路地の角に、いかにも「冒険者が寄る店」らしい顔で建っていた。
看板は二段。
《ローウェン道具店》
「冒険者用品・回復薬・日常道具・特製妙薬」
“特製妙薬”の文字だけ、なぜか太字で丁寧に書いてある。
扉を押すと、薬草と金属と紙の匂いが混ざった空気が流れ出た。棚には、包帯、瓶、革紐、簡易罠、調理鍋――生活と冒険の境目が、店の中では曖昧だった。
「すみませーん」
返事がない。
奥の作業場から、瓶が触れ合う音だけがする。
もう一度声をかけると、仕切りの布が揺れて、男が顔を出した。
軽薄そうに見えるのに、目だけはやけに落ち着いていて、こちらを観ている。口元は笑っているが、その笑いは“商売”の形をしている。
「はいはい、いらっしゃい」
「ローウェン道具店の店主さん?」
「そう。バジル・ロウエンだ。――で、君は?」
ノアトは慣れたように軽く頭を下げた。
「ノアト・アルシエルです」
その瞬間、バジルの表情が一拍だけ止まった。
次いで、口の端が妙な角度で吊り上がる。
「……なるほど。なるほどねえ……“あの”アルシエルか」
「え?」
ノアトが反応するより先に、バジルは肩を竦めて、わざとらしく息を吐いた。
「いやあ、懐かしい名前だ。昔、ここに来たことがある。――君の母上」
「母さんが?」
「怒ると怖い。氷の怖さじゃない。理屈の怖さだ」
バジルは遠い目をした。
そして言い訳のように指を一本立てる。
「誤解するなよ? 俺は善意で渡したんだ。ポーションを」
「……どんな?」
「飲んで魔力が戻る。が、数分、滑舌が死ぬ」
ノアトは一瞬、理解が追いつかなかった。
「滑舌が?」
「言葉がつっかえる。唇と舌が仲違いする。――つまり、詠唱ができなくなるね」
バジルは手を叩いて、明るく言う。
「副作用を和らげる“付け合わせ”もあるんだよ。ちゃんと。なのに俺は渡し忘れたんだ」
両手を上げた。
胡散臭さの正体が見えた瞬間だった。
「今日はポーションじゃなくて、寒さ対策の道具を……」
「寒さね。冬だからね。なら、これを出そう」
バジルは棚の下から、小さな布袋を取り出した。中身は石――手のひらに収まる暗い灰色の石が二つ。
「サーマストーン。握ればずっと温かい」
受け取ると、石は確かに温かかった。
熱すぎず、じんわりとした温度で指先の冷えがほどける。
「これはいいね。ポケットにも入れれるし」
「だろう? で、次」
バジルは今度は白い筒状の道具を出してきた。見た目は懐炉に似ている。
「ミストウォーマー」
「……温かいの?」
「温かい。が」
バジルは筒を軽く叩く。
「温もるほど、白い靄が濃くなる。冬の乾きにいい。喉にも、肌にもな」
“濃くなる”。
ノアトは母のメモの最後の一行を思い出す。
(あれ?これもしかして…)
「大丈夫。付け合わせがある」
バジルは得意げに、さらに小さな器具を置いた。
手のひらサイズの送風器。革と金具で作られた簡易な道具で、取っ手を握ると風が出る仕組みに見える。
「ポケットブロワー。靄を散らせる」
「風量は調整できるの?」
「できるとも。ほら、ここ。弱と強」
ノアトが覗き込むと、確かに小さな注意書きが貼ってある。……字が小さい。
弱/強のみ
ノアトは目を細めた。
「……二段階しかないの?」
「二段階あれば十分だろ。世の中は大体、弱と強だ」
胡散臭い理屈だったが、妙に納得してしまいそうになる。
もしスミレがいたら、どんな顔をしただろうか――と、ノアトは一瞬だけ考えた。
サーマストーンを二つ購入し、乾き対策の薄布も揃えた。
それで終わり、のはずだったのに。
「……ミストウォーマーも、一つだけ」
「賢い。――付け合わせも?」
「もちろん」
バジルは嬉しそうに袋をまとめ、やけに丁寧に渡してきた。
「母上によろしくな。怒られたくないから、俺の名は出すな」
「今さらでは」
「今さらだ。だからこそだよ」
ノアトは袋を受け取り、店を出た。
外気が刺さる。
歩き出すと、袋の中の筒がじんわり温まり、存在感を増していった。揺れるたび、白い靄が少しずつ増える。
袋の隙間から、白い霧が漏れている。
「……近いし、ついでにクロニカも覗こうかな。広いしね」
広いロビーなら、この白い靄も邪魔にはならない。ブロワーもある。
――たぶん。
*
ギルド《クロニカ》の扉を押すと、昼の喧噪がそのまま迎えた。
掲示板の前に冒険者が群れ、受付カウンターには書類が積まれ、奥では端末の表示面が淡く光っている。
白い靄は、思ったより目立った。
「なんだ?今日のクロニカはやけに潤ってるな」
「確かに。鼻通りがいいな」
「乾燥は…天敵」
ノアトは掲示板の前で立ち止まり、靄が自分の周りでふわりと溜まるのを感じた。
視界が白い。鼻先が少し濡れる。喉は確かに楽だが、これはこれで邪魔だ。
「見にくいな……」
ポケットブロワーを取り出し、取っ手を握る。
弱。
ふわ、と靄が散る。
散るが――溜まる方が早い。
注意書きは小さい…でも読んだ気がする。読んでない気もする。
ノアトは迷わず切り替えた。
強。
次の瞬間、風が“勢い”という形で暴れた。
靄だけではなく、掲示板の依頼票がばさりとめくれ、端の紙束が飛び、カウンター脇の控え書類がふわりと舞った。
「――っ」
紙が舞う。
白い靄と紙片が混ざり、ロビーが一瞬だけ“吹雪”になった。
沈黙が落ちる。
そして、その沈黙を切り裂くように、眼鏡の女が顔を上げた。
フェリス・ハートリー。
目が合った瞬間、ノアトの背中に冷たいものが走る。
氷の怖さじゃない。理屈の怖さ――というバジルの言葉が、やけに現実味を帯びた。
「ノアトさん」
声は低くない。
だが、圧だけが重い。
「……はい」
「そこは“送風”を使う場所ではありません」
「ごめんなさい。ちょっと強すぎた」
「“強すぎた”ではなく、“規律違反です”。掲示板と受付の書類は業務です」
正論だった。
ノアトはブロワーを止め、舞った紙を拾い始めた。
「……手伝います」
「当然です」
フェリスは眼鏡のブリッジを押し上げ、淡々と指示を出す。
「掲示板の紙は“番号順”。受付の書類は“受付印の有無”で分けてください。混ぜない」
「……はい」
ノアトが拾って分ける横で、冒険者たちがひそひそと囁く。
「さっき見つけた依頼、どこいった?」
「しらないわよ。濡れて破れて飛んでったんじゃないの」
「そんな……」
そこへ、通りすがりの警備兵――あの口の軽いおじさんが、ふらりと顔を出した。
「おうおう、またなんかやってるなぁ」
拾われた紙片を見て、勝手に頷く。
「……浜へ調査か。大変だよなぁ。こんなときに、浜の守り手がいりゃあ……」
ぶつぶつ言いながら、ちらちらフェリスとノアトを見る。
「……いや、いるじゃねえか。そこに」
おじさんは勝手に納得して去っていった。
フェリスが、一瞬だけ眉を動かす。
そして、紙束を整えながら淡々と言った。
「……ノアトさん」
「なに?」
「今夜、蒼鏡浜です」
ノアトは顔を上げた。
「え、夜?夜は寝る予定が…」
フェリスは返事をしなかった。
代わりに、床に散った紙片へ視線を落とす。
次いで、しゃがんだままのノアトへ。
もう一度、紙へ。
そしてまた、ノアトへ。
「……」
その沈黙が、なぜか一番怖い。
ノアトは嫌な予感だけで背筋を伸ばした。
「えっと、これ片付けたら――」
フェリスは眼鏡のブリッジを押し上げ、淡々と言う。
「片付け“た”から終わり、ではありません」
視線が、紙とノアトの間をゆっくり往復した。
拒否権という言葉が、勝手に消えていく。
「夜間は泡猫が増えます。転倒事故が増えます。現場調査班は“接触禁止”で動きますが、外周に誘導係が必要です」
「誘導係って…泡猫の?」
「あなたは泡猫に対して、妙に事故を起こしにくい」
褒めていない。
事務的な事実のように言った。
「……めんどくさ」
「めんどくさいかどうかは議題ではありません」
フェリスは書類を揃え、視線をロビーの奥へ向けた。
そこには白縁の腕章。現場調査班が、会議を終えたばかりで出てくるところだった。
紺の監査コートが五つ。若いが、歩き方は揃っている。
フェリスが、その中の黒い騎士の少女に声をかける。
「セリア」
セリア・コードウェルが立ち止まり、背筋を伸ばす。
「はい。確認、呼びましたね」
「確認事項です。今夜、支部集合の刻に、アルシエル家へ寄ってください」
セリアの黄色い瞳が一瞬だけ光った。
「目的は?」
「協力者の確保。外周の誘導係。――ノアトさんを連れてきてください」
ノアトが口を開きかける。
「え、俺――」
セリアが真面目に頷いた。
「了解。確認。連行――」
「連行ではありません」
サラ・クレイグが静かに刺す。
ミナが小声で「……こわい言い方」と付け足す。
フィンが笑う。
「いいじゃん。浜の守り手だろ?」
「守ってないって…」
ノアトがぼやくと、フェリスが眼鏡を押し上げた。
「守っていただきます。今夜だけ」
その言い方が、依頼よりも強かった。
紙束は片付いた。
白い靄はいつの間にか薄れている。
しかし、夜の浜は――これからだ。
ノアトはブロワーの小さな注意書きを、今さらのように読んだ。
弱/強のみ。
(弱すぎるし、強すぎる…)
ノアトはため息をついた。
✳
家に戻ると、鍋の匂いが廊下まで伸びてきて、外の冷気を追い払ってくれる。
「ただいま」
「おかえり。……買えた?」
母は手を止めずに言った。
ノアトは袋を卓に置き、メモを添える。
「サーマストーン二つ。薄布も。あと――」
言いかけたところで、母の視線が袋の中身に刺さった。
白い筒が一瞬、見える。
「……ノアト」
「なに?」
「“変なのは買わないこと”って書いたわよね」
ノアトは一拍だけ黙り、開き直った。
「大丈夫、付け合わせも買った」
母は鍋の蓋を押さえたまま、ゆっくりとため息を吐いた。
「付け合わせが一番いらないのよ」
「でも、潤いが――あとよろしくって」
「全く、あの店主は…」
鍋の中で湯気がふわりと立ち上がり、母の声の圧を柔らかく包んだ。
*
夕餉は鍋だった。
寒い夜には、それだけで正解の献立だ。卓の上には皿が並び、父が椀を配り、スノアが箸を揃え、スミレが小さく礼をする。
「いただきます」
湯気が視界を曇らせる。
ノアトは椀を手に取り、指先の冷えがほどけていくのを感じた。サーマストーンの温もりが、ポケットの奥でじんわり生きている。
スノアが、ノアトの脇に置かれた袋をちらりと見た。
「……お兄ちゃん、その袋、なに?」
「寒さ対策。母さんの指示」
「その白いのも?」
「……潤い対策」
スノアの眉がわずかに寄る。
母が、何も言わずに鍋の具をよそった。
父が静かに口を挟む。
「夜に出る予定があるのか?」
「ん? いや、まあ――」
ノアトは鍋をかき混ぜながら曖昧に笑った。
言いかけて、やめる。家族の前で説明すると、妙に長くなりそうだった。
スミレが前髪の奥から小さく首を傾げる。
だが何も言わない。ノアトが“めんどくさい顔”をしているのを見て、聞くのを控えたのかもしれない。
夕餉は穏やかに進み、湯気が薄くなっていった。
*
夜が深くなるにつれて、家の音が一つずつ消えていく。
戸締まり。水差しの蓋。食器の片付け。薪のはぜる音。
スノアは寝支度を終えて、廊下の途中で振り返った。
居間の灯りがまだ消えていない。
「……お兄ちゃん、寝ないの?」
居間には、ノアトがいた。
ソファに沈み、少し眠たげに目を半分閉じている。手には湯気の残る茶の杯。
スミレもその後ろに立ち、静かに見ていた。
「眠い」
ノアトは正直に言った。
あくびが出る。口元を押さえるのも面倒な感じで、肩が落ちる。
「じゃあ寝たらいいのに」
スノアは不満そうだ。
ノアトは杯を置き、指先でこめかみを軽く押した。
「今夜、ギルドの人と浜の調査の手伝い頼まれた」
「はあ!? 夜に!?」
声が少し大きくなる。
母が台所から「静かに」とだけ言った。スノアは口を押さえ、悔しそうに小声になる。
「……危ないじゃない。夜の浜なんて」
「手伝いで外周だけ。線は越えないって」
「線って……」
スノアが言いかける。
スミレが、前髪の奥で小さく頷いた。
「……線引き」
「そう。線引き」
ノアトは軽く言った。
軽く言いすぎて、スノアの目がさらに細くなる。
「お兄ちゃん、また“適当”に引き受けて……」
「引き受けたっていうか、紙が飛んだ責任」
スノアが固まる。
「……紙?」
ノアトは少しだけ目を逸らした。
スミレが小さく息を吐く。笑ったのか、呆れたのか分からない。
スノアは深くため息を吐いて、拳を握った。
「……明日、詳しく聞くからね」
「はいはい…」
スノアはなおも言いたそうだったが、母の「寝なさい」を受けて、寝室へ引き返していった。
スミレは居間の入口に立ったまま、少し迷ってから言った。
「……眠いなら、無理しないで」
「うん。無理はしない」
ノアトは笑い、もう一度あくびを噛み殺した。
「スミレも寝な。寒いし」
スミレは小さく頷いて、廊下の奥へ消えた。
居間には、灯りと、湯気の残り香と、眠そうなノアトだけが残った。
*
しばらくして、家が完全に静かになった。
その静けさを縫うように、玄関の方で小さな音がした。
控えめなノック。二度。間を置いて、もう一度。
ノアトはゆっくり立ち上がり、上着を手に取る。
眠い。だが、身体は動く。こういう時だけは、妙に。
戸を開けると、夜気が頬を撫でた。
庭先に、黒い影が立っている。
紺の監査コート。黒い大剣。黒い大きなリボン。
白縁の腕章が、月明かりにうっすら浮いた。
「……こんばんは。迎えに来ました」
セリア・コードウェル――《律火》。
声はいつもより低い。
夜の空気に合わせて、音を落としているのだろう。
ノアトは目を細めた。
「……眠い」
「確認。眠いのは承知。ですが、出動です」
淡々とした言葉のはずなのに、どこか生真面目で可笑しい。
ノアトは口の端を少しだけ上げた。
「了解。……外周だけね」
「はい。線は越えない。連絡係」
セリアは頷き、踵を返す。
紺の監査コートの裾が、夜気に沈んで黒に近く見えた
ノアトは戸をそっと閉める。
家の温かさが背中に残る。けれど前には、冬の夜の冷たさがある。
蒼鏡浜。
大きな影。
そして、白い線引き。
眠気は消えないまま、ノアトは夜へ出た。




