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アルシエル遺物探検録  作者: たつりゅう
第四章 七星武闘祭編
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39/50

「ほんの少しの匙加減」


 ノアトとスミレがクロニカから戻った頃、アルシエル家の玄関には、見慣れない綺麗な木箱が置かれていた。


 薄い白木の箱。

 角には青銀の金具。

 蓋の中央には、グランディア王家の紋章が焼き印で押されている。


「ただいまー」


「……ただいま」


 ノアトが靴を脱ぎ、スミレがその後ろで小さく続く。


 廊下の奥から母が顔を出した。


「おかえりなさい。ちょうどよかったわ。王都から荷が届いているの」


「王都?」


「差出は、リュシアン殿下のお名前になっているわね。ただ、添え状にはアメリア王女殿下からの褒美と書かれているわ」


「……あっ」


 ノアトはそこで、ようやく思い出したように手を打った。


「リュシアン、送ってくれたんだ。あの時の品」


 母の目が、すっと細くなる。


「ノアト。王家の紋章つきの荷を、“あの時の品”で済ませないで」


「うん。努力しよう」


「努力ではなく、済ませないの」


 その時、リビングの奥で父が立ち上がった。


 どうやら市政庁から戻ったばかりらしく、外套を椅子に掛けたまま、木箱を前に固まっている。


「王家の紋章つき……。これは正式な返礼が必要ではないか。礼状、受領報告、いや、王女殿下からの褒美なら返礼品も……。ブレストン産で品格があり、かつ重すぎないものを――」


「あなた」


 母が一言で止めた。


 父はびくりと肩を揺らす。


「まだ箱も開けていません」


「……それもそうだな」


 父は咳払いをして、何事もなかったように椅子へ座り直した。

 だが視線は、ずっと木箱に向いている。


 スミレはノアトの半歩後ろで、王家の紋章を見つめていた。


 ノアトは木箱の封を確認し、添え状を開いた。


 そこには、整った文字でこう書かれていた。


『先日の礼として、約束の品を届けます。

 日常で使える遺物ですので、どうぞお納めください。

 アメリア・グランディア』


 父は再び背筋を伸ばした。


「王女殿下の直筆……いや、写し書きかもしれないが、いずれにせよ正式な――」


「中身を見ましょう」


 母が淡々と促す。


 ノアトが箱を開ける。


 中には、銀色の匙が一本、柔らかな布に包まれて収められていた。


 柄の先には小さな星紋。

 掬う部分は普通の匙より少し深く、光を受けると内側に淡い波紋が揺れる。


 そして、その横に小さな展示札が添えられていた。


『無限匙(エターナルスプーン)

 ――掬ったものが“ほんの少しだけ多め”になる、謎の匙』


 沈黙が落ちた。


 父は数秒、展示札を見つめたまま固まる。


「……ほんの少しだけ?」


 母は展示札の裏を確認した。


 そこにはクロニカの鑑定印が押されていた。

 危険性なし。

 日用品扱い。

 RCL-0。


 王家側でも確認済みらしく、少なくとも食卓で扱って問題のある遺物ではないようだった。


 父は額に手を当てた。


「王女殿下から、鑑定済みの、日用品扱いの、ほんの少し多めになる匙……」


 スミレはそっと匙を見た。


 遺物は、怖いものだと思っていた。

 誰かを縛ったり、命令したり、逃げられなくしたりするものだと思っていた。


 けれど、この匙は違う。

 食卓の真ん中に置かれて、誰かを傷つけることもなく、ただ皆を少し困らせている。


 それが、スミレには不思議だった。

 少しだけ、不思議で、悪くないものに見えた。


 母は布ごと匙を持ち上げ、台所へ視線を向けた。


「夕飯で試してみましょうか」


「母さん、試すんだ」


「使わずに記録は取れません」


「そこ、母さんっぽいね」


「台所でも現場確認は大事です」


 その日の夕飯は、白身魚と夏野菜の薄煮、焼き玉ねぎと卵の皿、柔らかいパン。

 それに、冷やした夏橙の果実水が添えられた。


 昼から実技で動いているスノアにも食べやすいよう、母が少し軽めに整えた献立だった。


 まず母が、無限匙で白身魚の薄煮を一口分だけ掬う。


 皿に落とす。


 全員が見守る。


 特に何も起きない。


「……増えた?」


 ノアトが首を傾げる。


「少し多い気はするわ」


 母が真面目に言う。


「普通の匙より、ほんの少し深いだけではないか?」


 父が慎重に指摘した。


 ノアトが別の普通の匙を持ってきて、並べてみる。


 確かに、無限匙の方が少しだけ深い。


「物理的に多めだ」


 今度はノアトがスープを掬い、自分で口へ運んだ。


 少し黙る。


「……味が、長い」


「長い?」


「飲み込んだあとに、ちょっと余韻が残る。だから、ほんの少し多く食べた気がする」


 父は真剣な顔で匙を見た。


「つまり、食材を増やしているわけではなく、満足感をほんの少し伸ばしている……?」


「すごく真面目に言うと、そうかも」


「名前が大きすぎるだろう」


 父の声に、珍しく疲れが混じった。


 ノアトは面白そうに匙を眺める。


「でも、いい匙だよ。食べ過ぎずに満足感が増えるなら、健康的かもしれない」


 そう言いながら、ノアトの視線がスミレの前に置かれた小さな薬湯へ向いた。


 セラナ先生から出された、喉と体調を整えるための薬湯。

 まだ苦味に慣れていないスミレは、両手で器を持ったまま、少しだけ見つめている。


 ノアトの視線に気づいたスミレは、器を両手で少し引き寄せた。


「スミレ、薬湯もこの匙で――」


「……いっぱい、いらない」


 スミレが小さく、しかしはっきりと言った。


 ノアトの手が止まる。


 母も父も、一瞬だけ目を丸くした。

 すぐに、母の口元がわずかに緩む。


 ノアトは真面目な顔で頷いた。


「そっか。じゃあ普通で」


「……うん」


 スミレは器を少しだけ自分の方へ寄せる。


 その仕草は小さい。

 けれど、自分で嫌だと言えたことは、昨日までとは少し違っていた。


 ノアトは匙を自分の皿へ戻し、白身魚をもう一口すくう。


 その時、玄関の扉が開く音がした。


「ただいま」


 少し疲れた声。

 スノアだった。


 制服のケープを整えながらリビングへ入ってきたスノアは、食卓の中央に置かれた銀の匙と、それを囲む家族の空気を見て足を止める。


「……何かあったの?」


「王女殿下から届いた褒美の確認」


 ノアトが答える。


「褒美?」


「ここにある、無限匙(エターナルスプーン)だよ」


 スノアは数秒だけ黙った。


 そして、食卓の上の匙、面白がっている兄、疲れた顔の父、平然としている母、少し困った顔のスミレを順に見る。


「……名前だけで、だいたい状況はわかった」


「さすがスノア」


「褒められてる気がしない」


 スノアは鞄を置き、手を洗ってから席に着いた。

 母が夏橙の果実水を注ぎ、冷えた杯をスノアの前へ置く。


「今日は遅かったわね。実技が長引いたの?」


「うん。午後まで模擬戦があったの」


 ノアトが少しだけ顔を上げる。


「へえ。あの二人と一緒に?」


「うん。ミリエルとサラサと一緒に。長くなるから、あとで話すよ」


「じゃあ、あとで聞く」


 スノアは果実水を一口飲み、ほっと息をついた。

 冷たい夏橙の酸味が、喉を通っていく。


 それから、無限匙へ視線を戻す。


「それで、その匙は何が無限なの?」


「味の余韻がほんの少し長い」


「……無限ではないね」


「そうなんだよね」


 ノアトは真剣に頷いた。


「でも、ほんの少し多めになるらしい」


「何が?」


「気持ち?」


「もっと曖昧になった」


 スノアは疲れたように目を伏せる。

 けれど、その表情には、ほんの少しだけ笑みが混じっていた。


 ノアトが匙を持ち上げる。


「スノアも試す?」


「今日は普通の匙でいい」


「そっか」


「その匙、たぶんお兄ちゃんに渡すと食卓が進まない」


「信用がない」


「あります。だから言ってます」


 父が深く頷いた。


「スノアの判断は正しい」


「父さんまで」


 母が皿を整えながら、静かに告げる。


「ノアト。無限匙の検証は終わりです。今は食べる時間です。それで掬うと、話が余分に増えます」


「はーい」


 食卓に、少しだけ笑いが落ちる。


 無限ではない匙。

 ほんの少しだけ多めになる匙。


 その賑やかさを、スミレは薬湯の器を両手で包みながら、静かに聞いていた。


 その日のアルシエル家の夕飯は、いつもより少しだけ賑やかだった。

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