「ほんの少しの匙加減」
ノアトとスミレがクロニカから戻った頃、アルシエル家の玄関には、見慣れない綺麗な木箱が置かれていた。
薄い白木の箱。
角には青銀の金具。
蓋の中央には、グランディア王家の紋章が焼き印で押されている。
「ただいまー」
「……ただいま」
ノアトが靴を脱ぎ、スミレがその後ろで小さく続く。
廊下の奥から母が顔を出した。
「おかえりなさい。ちょうどよかったわ。王都から荷が届いているの」
「王都?」
「差出は、リュシアン殿下のお名前になっているわね。ただ、添え状にはアメリア王女殿下からの褒美と書かれているわ」
「……あっ」
ノアトはそこで、ようやく思い出したように手を打った。
「リュシアン、送ってくれたんだ。あの時の品」
母の目が、すっと細くなる。
「ノアト。王家の紋章つきの荷を、“あの時の品”で済ませないで」
「うん。努力しよう」
「努力ではなく、済ませないの」
その時、リビングの奥で父が立ち上がった。
どうやら市政庁から戻ったばかりらしく、外套を椅子に掛けたまま、木箱を前に固まっている。
「王家の紋章つき……。これは正式な返礼が必要ではないか。礼状、受領報告、いや、王女殿下からの褒美なら返礼品も……。ブレストン産で品格があり、かつ重すぎないものを――」
「あなた」
母が一言で止めた。
父はびくりと肩を揺らす。
「まだ箱も開けていません」
「……それもそうだな」
父は咳払いをして、何事もなかったように椅子へ座り直した。
だが視線は、ずっと木箱に向いている。
スミレはノアトの半歩後ろで、王家の紋章を見つめていた。
ノアトは木箱の封を確認し、添え状を開いた。
そこには、整った文字でこう書かれていた。
『先日の礼として、約束の品を届けます。
日常で使える遺物ですので、どうぞお納めください。
アメリア・グランディア』
父は再び背筋を伸ばした。
「王女殿下の直筆……いや、写し書きかもしれないが、いずれにせよ正式な――」
「中身を見ましょう」
母が淡々と促す。
ノアトが箱を開ける。
中には、銀色の匙が一本、柔らかな布に包まれて収められていた。
柄の先には小さな星紋。
掬う部分は普通の匙より少し深く、光を受けると内側に淡い波紋が揺れる。
そして、その横に小さな展示札が添えられていた。
『無限匙
――掬ったものが“ほんの少しだけ多め”になる、謎の匙』
沈黙が落ちた。
父は数秒、展示札を見つめたまま固まる。
「……ほんの少しだけ?」
母は展示札の裏を確認した。
そこにはクロニカの鑑定印が押されていた。
危険性なし。
日用品扱い。
RCL-0。
王家側でも確認済みらしく、少なくとも食卓で扱って問題のある遺物ではないようだった。
父は額に手を当てた。
「王女殿下から、鑑定済みの、日用品扱いの、ほんの少し多めになる匙……」
スミレはそっと匙を見た。
遺物は、怖いものだと思っていた。
誰かを縛ったり、命令したり、逃げられなくしたりするものだと思っていた。
けれど、この匙は違う。
食卓の真ん中に置かれて、誰かを傷つけることもなく、ただ皆を少し困らせている。
それが、スミレには不思議だった。
少しだけ、不思議で、悪くないものに見えた。
母は布ごと匙を持ち上げ、台所へ視線を向けた。
「夕飯で試してみましょうか」
「母さん、試すんだ」
「使わずに記録は取れません」
「そこ、母さんっぽいね」
「台所でも現場確認は大事です」
その日の夕飯は、白身魚と夏野菜の薄煮、焼き玉ねぎと卵の皿、柔らかいパン。
それに、冷やした夏橙の果実水が添えられた。
昼から実技で動いているスノアにも食べやすいよう、母が少し軽めに整えた献立だった。
まず母が、無限匙で白身魚の薄煮を一口分だけ掬う。
皿に落とす。
全員が見守る。
特に何も起きない。
「……増えた?」
ノアトが首を傾げる。
「少し多い気はするわ」
母が真面目に言う。
「普通の匙より、ほんの少し深いだけではないか?」
父が慎重に指摘した。
ノアトが別の普通の匙を持ってきて、並べてみる。
確かに、無限匙の方が少しだけ深い。
「物理的に多めだ」
今度はノアトがスープを掬い、自分で口へ運んだ。
少し黙る。
「……味が、長い」
「長い?」
「飲み込んだあとに、ちょっと余韻が残る。だから、ほんの少し多く食べた気がする」
父は真剣な顔で匙を見た。
「つまり、食材を増やしているわけではなく、満足感をほんの少し伸ばしている……?」
「すごく真面目に言うと、そうかも」
「名前が大きすぎるだろう」
父の声に、珍しく疲れが混じった。
ノアトは面白そうに匙を眺める。
「でも、いい匙だよ。食べ過ぎずに満足感が増えるなら、健康的かもしれない」
そう言いながら、ノアトの視線がスミレの前に置かれた小さな薬湯へ向いた。
セラナ先生から出された、喉と体調を整えるための薬湯。
まだ苦味に慣れていないスミレは、両手で器を持ったまま、少しだけ見つめている。
ノアトの視線に気づいたスミレは、器を両手で少し引き寄せた。
「スミレ、薬湯もこの匙で――」
「……いっぱい、いらない」
スミレが小さく、しかしはっきりと言った。
ノアトの手が止まる。
母も父も、一瞬だけ目を丸くした。
すぐに、母の口元がわずかに緩む。
ノアトは真面目な顔で頷いた。
「そっか。じゃあ普通で」
「……うん」
スミレは器を少しだけ自分の方へ寄せる。
その仕草は小さい。
けれど、自分で嫌だと言えたことは、昨日までとは少し違っていた。
ノアトは匙を自分の皿へ戻し、白身魚をもう一口すくう。
その時、玄関の扉が開く音がした。
「ただいま」
少し疲れた声。
スノアだった。
制服のケープを整えながらリビングへ入ってきたスノアは、食卓の中央に置かれた銀の匙と、それを囲む家族の空気を見て足を止める。
「……何かあったの?」
「王女殿下から届いた褒美の確認」
ノアトが答える。
「褒美?」
「ここにある、無限匙だよ」
スノアは数秒だけ黙った。
そして、食卓の上の匙、面白がっている兄、疲れた顔の父、平然としている母、少し困った顔のスミレを順に見る。
「……名前だけで、だいたい状況はわかった」
「さすがスノア」
「褒められてる気がしない」
スノアは鞄を置き、手を洗ってから席に着いた。
母が夏橙の果実水を注ぎ、冷えた杯をスノアの前へ置く。
「今日は遅かったわね。実技が長引いたの?」
「うん。午後まで模擬戦があったの」
ノアトが少しだけ顔を上げる。
「へえ。あの二人と一緒に?」
「うん。ミリエルとサラサと一緒に。長くなるから、あとで話すよ」
「じゃあ、あとで聞く」
スノアは果実水を一口飲み、ほっと息をついた。
冷たい夏橙の酸味が、喉を通っていく。
それから、無限匙へ視線を戻す。
「それで、その匙は何が無限なの?」
「味の余韻がほんの少し長い」
「……無限ではないね」
「そうなんだよね」
ノアトは真剣に頷いた。
「でも、ほんの少し多めになるらしい」
「何が?」
「気持ち?」
「もっと曖昧になった」
スノアは疲れたように目を伏せる。
けれど、その表情には、ほんの少しだけ笑みが混じっていた。
ノアトが匙を持ち上げる。
「スノアも試す?」
「今日は普通の匙でいい」
「そっか」
「その匙、たぶんお兄ちゃんに渡すと食卓が進まない」
「信用がない」
「あります。だから言ってます」
父が深く頷いた。
「スノアの判断は正しい」
「父さんまで」
母が皿を整えながら、静かに告げる。
「ノアト。無限匙の検証は終わりです。今は食べる時間です。それで掬うと、話が余分に増えます」
「はーい」
食卓に、少しだけ笑いが落ちる。
無限ではない匙。
ほんの少しだけ多めになる匙。
その賑やかさを、スミレは薬湯の器を両手で包みながら、静かに聞いていた。
その日のアルシエル家の夕飯は、いつもより少しだけ賑やかだった。




