蒼鏡浜と星見ヶ丘湿地
——蒼鏡浜は、朝になると世界を上下ひっくり返す。
陽が海の端をなぞるころ、入り江の水は風を忘れ、砂面は水を真似て青銀に光り、空の薄桃をまるごと映した。
街から北東、森の小径を抜けると現れるその浜は、詩人が譬えに困って黙るほど静かだった。
ノアトとスミレは、依頼書の紙端が湿らないように革帳の奥へしまい、砂紋を乱さぬ足取りで浜へ降りた。
詩人エルフは少し離れ、楽器ケースを胸に抱えながら、二人の背に「音を立てずに」と口と指だけで伝える。
澄晶砂は、音とマナに整列する。朝の凪返し——波紋だけが水平に走る一刻に、最も澄む。
「……静か、だね」
スミレが小さく言う。
彼女の声はいつもよりさらに細く、潮の匂いに紛れるくらいだった。
「うん。ここは声が届きすぎるくらい」
ノアトは片膝を折って砂に触れ、指先を軽く弾いた。硬いようで柔い、薄皮の下にさらさらが眠る。砂面は鏡苔に近い光沢を帯び、斜めの陽に目を細めると距離感が狂いそうになる。足場、風、反射。
耳を澄ます。ごく遠くで「コォン」と貝がひとつ、息を返すみたいに鳴った。
二人の足跡は、砂の鏡面に細い線を引く。
澄晶砂の採取場は、浜の奥、潮の届かない浅い窪地にできることが多い。詩人エルフが示した印は木の根元に墨で刻んであり、そこから風下に五十歩の距離。ノアトは歩数を心の内で数えた。
スミレが胸元の袋から取り出した錫色の小瓶と、指輪のように小さな輪。輪に息を吹きかけると、乳白の泡がひとつ、またひとつ、陽の粒を抱いたまま浮かび上がる。
ぽふ、ぽふん。
泡が鳴るたび、砂の上の光が可笑しそうに跳ねた。そして——その光を追う影が、砂丘の陰からぴょこんと増えた。
「あっ……」
青とも桃ともつかない毛並み、半透明のからだ。ふわふわ浮いて、肉球はゼリーのように柔らかく、尾は極細の繊毛でできている。子どもが三匹。いや、四匹。いや、見れば見るほど数が増える。泡猫だ。
スミレが泡をひとつ差し出すと、子泡猫は尻尾で泡をくるりとすくい、鼻先で押し、前足で「ぽふぽふ」叩いた。泡は割れない。肉球は泡を壊さず、尾は刺さらない。ただ虹色の模様が一瞬ふわりと浮いて、消えた。
「……かわいい」
スミレがぽつりと言う。
泡猫たちは彼女の声に反応して、輪になって座った。ふしぎなことに、その輪の中でスミレの泡はゆっくりと形を保ち、風にもあまり流されない。
「スミレ、練習、してみる?」
「……うん」
彼女は輪のひとつをそっと摘み、胸の前に浮かべる。
声は囁きより小さく、『止まれ』と。
泡は瞬きもせずその場に留まった。同時に、周囲で跳ねていた二匹の子泡猫も、まるでおそろいの遊びのようにぴたりと静止する。目だけがきょろりと動いた。
ノアトは笑いそうになって、笑わない。わずかな声量、最短の語。ここでは、それが正解だ。
彼らが砂を探り始める頃合いに、神託耳飾がきらりと音もなく光った。スミレが何気なく移動させた泡の影、その足元に——砂の色が他と少し違う、青銀の帯が見えた。
「……ここ」
スミレが膝をつき、貝殻で作った小さなスコップを取り出す。乾いた砂の表面を、息を止めるように少しずつ撫でる。透明な微細粒が(見えるというより、消えない透明がそこにあるという感じで)現れ、朝の光を細糸のように折り返しながら彼女の器に集まっていく。澄晶砂だ。
子泡猫が興味津々に覗き込む。肉球が器の縁を「ぽふ」と叩く。割れない。揺れない。スミレは笑って、息を小さく吐いた。
——そのとき、遠くの反響貝が、またひとつ鳴る。朝日が一段高くなって、凪返しの終わりを告げる合図だ。
彼女が器を持ち上げた瞬間、小さな波が、たった一度だけいたずらみたいに砂縁へ舐め寄せた。器の横に置いていた木べらが、するりと潮だまりに吸い込まれる。
「あ……」
不運は、いつもこの程度の形でやって来る。
三匹の子泡猫が「んー」と伸びをし、ひとりがふうっと小泡を吐いた。泡は木べらを包み、海面からちょうど指先へ届く高さまでふわりと持ち上げる。スミレが受け取ると、子泡猫は誇らしげに胸を張り、前足で「ぽふぽふ」と拍手をした。
「ありがと……」とスミレが囁く。
子泡猫は嬉しそうに尾を揺らし、彼女の指に泡の輪っかをひとつ通してきた。泡の指輪。すぐ消えてしまう贈り物は、だからこそ心に残る。
採取は順調に終わる——はずだった。
砂丘の影が、ゆっくりと伸びてきて、二人の足元と、子泡猫たちの背中を丸く包む。
空気が、すこしだけ白く濁った。潮風はまだ穏やかだが、泡がひとつ、ふたつ、音もなく重なる。大きな泡。いや、泡の天幕。
ノアトは反射的に周囲を見た。
泡越しの光の偏りが、内側から外へ逃げようとする音を丸めている。
「……来た」
スミレの睫毛が一度震える。砂丘の上、母泡猫が姿を現した。子の倍はあるからだ、しかし足取りは音ひとつ立てない。瞳は澄んで、けれど真面目に警戒している光だった。彼女はこの浜の母で、守り手なのだ。
母泡猫は一度、片耳を傾ける。
ノアトはそっと手を広げ、両手のひらを見せる。危害の意志がないことを、猫はよく見ている。
そのときだった。
母泡猫の瞳が、ふいにノアトの髪の生え際で止まる。朝露を受けた前髪がふわりと跳ねて、陽の粒がそこへ落ちた。彼は思わず瞬きをする。母泡猫は短い「ぷるる」と喉を鳴らし、砂の上を無音で滑って来ると——ノアトの襟を、そっと、やさしく噛んだ。
「え?」 「……?」
次の瞬間、彼は大きな泡に包まれ、軽々と持ち上げられていた。母泡猫は自分の胸もとにノアトを引き寄せ、前足で器用に抱え込む。柔らかな肉球が、ノアトの頬と額を「ぽふ、ぽふ」と整える。まるで、子猫の毛並みを整えるみたいに。
「お、俺は——」
「……ノアト、動かない方が……いい、かも」
スミレは申し訳なさそうに、でも目の端をきらりさせて言った。子泡猫たちは一斉に「にゃふ」と鳴き、輪になって座り始める。
詩人エルフは口を手で押さえ、肩を震わせている。
泡の向こう、母泡猫は満足げに「ぷるる」と喉を鳴らしながら、ノアトの頭に海藻の細い輪を乗せた。泡の王冠——もしくは迷子札。
「……保護、された?」
「……うん。たぶん“連れ帰るまでが保護”」
スミレの声は柔らかい。
泡は温かく、ほんのり甘い海の匂いがする。
「スミレ、はやく助けて」
「……少し、待って。……写真、撮りたい……」
笑いが、泡の内側で静かに弾けた。スミレは小さく息を整え、指先に小泡を集める。子泡猫たちが自然と並んで縁を支え、泡の膜はぴんと張りすぎず、でも崩れない。
スミレが囁く。
『——ほどけ』
今度は、ノアトを包む泡に向けて。
母泡猫は驚かなかった。むしろ、こくりと頷くように目を細めると、ゆっくりと泡を薄め、彼を砂上へ降ろした。
前足でノアトを“もう迷子になるな”とでも言いたげに、最後に頬へ「ぽふ」と印を押す。
子泡猫たちが歓声をあげ、海の匂いの拍手が広がった。
ノアトは立ち上がり、スミレと目を合わせる。彼女は両手で器を抱え、泡の指輪を一瞬だけ見せて微笑んだ。
母泡猫はスミレの前に歩み寄り、自分の頬を彼女の手へそっと押し付けた。そして、長いひげの一本が、ふわりと抜けて、スミレの掌へ落ちる。繊毛の束は光を集め、微かに音を吸う。泡吹き道具の導線に、これ以上の素材はない。
詩人エルフが近づき、深く礼をした。
「見事です。澄晶砂は充分。歌に、澄んだ筆が返ってきます」
彼は楽器を抱え直し、波の音より小さな拍で二人を讃える。
ノアトは苦笑しながら襟元を整え、スミレは掌のひげを宝物のように小袋へ収めた。
朝の凪は終わり、光は海に戻っていく。浜の鏡は現実に引き上げられ、足跡だけが細い記録として残った。子泡猫は追いかけっこに戻り、母泡猫は一度だけ振り返って「ぷるる」と鳴く。——また来い。そんな声だった。
帰り道、森の手前でスミレが小瓶を揺らして見せる。泡の指輪が瓶の内側に一瞬だけ浮かび、すぐ消える。
「……ノアト」
「ん?」
「…今日の、どう…話す?」
「正直に、『浜の守り手に保護されて無事だった』とか?」
「……うん。間違ってない、ね…」
二人は笑う。詩人エルフはその笑い声を聴き取り、楽器の弦にそっと指を置く。短い旋律が、木漏れ日のように編まれ、やがてこの街で歌われる小唄になるだろう。蒼鏡浜の朝と、泡猫の守りと、抱きしめられたお人好しの青年について。
◆星見ヶ丘湿地――泡綴草
ノアトとスミレは夜の湿地に来ていた。
星見ヶ丘の北斜面を下りきったところで、風がやんだ。
丘の裾野に溜まる湧水は、夜の星を鏡にして、踏み出すたび細かな光が崩れる。葦が眠り、泥炭の浮島がかすかに揺れる。
ノアトは掌をひらりと掲げて合図した――止まれ。
スミレは頷く。
声はできるだけ使わない。
反響葦が帯のように広がり、風が通ると遠くの音を拾って増幅する。彼女の言葉が漏れれば、湿地全体に波紋が走る。
ノアトは一歩、泥の色の違いを確かめ、もう一歩、指先で水面の張りを撫でる。
「……こっち」
彼は囁き、足場の輪郭を短い棒で示した。黒泥のポケットを避け、浮島を跳ねるように進む。
その途中で、片脚がずぶっと沈んだ。
彼は顔色ひとつ変えず、膝で体重を抜いて横へ滑り、泥から抜ける。
スミレは目を丸くして、それから小さく笑いをこぼした。
湿地の奥は、息を潜めたように静かだった。だが静けさは、往々にして危険の手前にある。
水膜の下では微細なものが蠢く――星喰い蛭が、光を吸って銀に見える。
やがて、淡い銀糸の草が水の縁に並ぶのが見えた。節ごとに小さな空胞を抱え、星の光を内側に閉じ込めている――泡綴草。
スミレは息を整え、木骨の小鎌を取り出す。ガラス刃の予備も腰に差した。鉄を触れさせれば、草が綴っている“音”が逃げてしまう。
その瞬間、湿地の奥で高い笛音が鳴った。胸骨を擦る、嫌な周波だ。
反響葦がざわめき、音の尾を拾って周囲に散らした。
灰色の外套がニつ、そこにあった。
口元には防音の覆い。灰靄の採取屋だ。
黒蔦商会の下請け。
その足元で、喉嚢を膨らませたヒキガエルが震えている。硝を舐めたような、硝笛ヒキガエル。
ノアトが手信号を送る。敵、三。
スミレは、わずかに唇を濡らし、泡を細く伸ばし始めた。
彼女の泡は、言葉を閉じ込める器。だがここでは、音が漏れる。反響葦の帯が、彼女に許される失敗を一つ減らしている。
灰外套の一人が短剣を抜き、水面を蹴って迫った。
――いけない。
スミレは泡を一つ、相手の耳へ誘導する。
距離、風、反響。全部、計算のうち。
魔力のこもった泡が耳殻に触れた瞬間、彼女の命じた声がする。
『動くな』
泡が弾け、音が耳道に滑り込む。男の身体が固まった。
その硬直を合図に、ノアトが横を抜けた。彼は蛙へ投石――いや、投げたのは石ではない。
小旗の黒い骨組みを抜き、葦の間を曲線で通す。反響点を先回りして、蛙の喉嚢へ泥を叩き込む。
衝撃で音が途切れた。
後列の男が弓を引く。ノアトは身を低く、浮島から浮島へ、泥の張力を選びながら前へ出る。
彼の指先が示す。
スミレは頷き、泡をニつ、微細にわける。
一つは弓の男の耳へ、二つ目は後列、蛙の喉元へ。
泡の操作は負荷だ。魔力燃費は最悪。喉が熱い。
けれど、彼女は前へ出た。
『動くな』
最初の泡が弾け、男の腕が矢を射る途中で固まる。
『黙れ』
二つ目が喉で弾け、叫びを飲み込む。
前列の男が硬直から復帰した。しかし、短剣を振るう途中で踵が泥に沈む。
ノアトが手を伸ばし、男の手首を軽く叩く。
短剣が落ち、水に沈んだ。
「ここ、危ないよ」
言いながら、男の肩を押して、そのまま柔らかい方へ転がす。葦が絡んで、彼は身動きが取れなくなる。
最後に残った弓の男が硬直から復帰、ぎこちない体制で無理に弦を引いた。
――あぶない。
喉が熱い。それでも急いでスミレは魔泡を弓の男に向けて、『眠れ』と飛ばした。
矢はノアトに命中せず軌道が横に逸れて飛んだ。
そのあと男は泥に片膝をつき、そのまま眠りに落ちた。
湿地が、再び静けさを取り戻した。
スミレは大きく息を吐き、膝をつく。
ノアトが近づき、彼女の肩に手を置いた。軽い、けれど確かな手。
「助かった。……喉、大丈夫?」
スミレは小さく頷く。
「……うん。平気」
彼は短く笑って、目を細めた。
風が止む。三拍。
スミレは木骨の小鎌で泡綴草の根元を撫で切り、切り口に甘い水をひと滴触れさせる。
すぐに泡封瓶の口を近づけ、草そのものを“泡ごと”瓶へ滑らせる。瓶の中で泡が閉じ、微かな旋律が震えた。
ノアトが数を指で示す。十二。
うち、三は光の揺れが長い。
スミレは息を揃えて頷き、手際よく束ねていく。
泥に沈んだ密採取者たちは、簡易の縛りで浮島の杭に括り付けた。耳栓と防音布を外すと、彼らの顔から強張りがほどける。
「禁制級の……泡遺物……」誰かが寝言みたいに呟いた。
スミレは視線を逸らし、少しだけ肩をすぼめる。
泡は手段だ。声は時に刃になってしまうから。
無差別に影響を与えないための唯一のやり方だ。
最後の束を瓶に収めたとき、反響葦の帯がまた首を振った。風向きが変わる。
ノアトは先に立ち、浮島の“硬さ”を指先で確かめながら道筋を作る。スミレはその後ろで、泡封瓶の揺れを抑え、喉の疼きをやり過ごす。
丘の方角にわずかな明るみ。夜がほどける。
斜面を上がり切る前、スミレは一度だけ振り返った。
湿地の水鏡が、薄い朝の光を受けてさざめく。泡綴草の群れが風に揺れ、瓶の中の泡が小さな歌を続けている。
「……きれい」
その声は、彼女だけに届くほど小さかった。
星の欠片を背に、二人は丘を登る。
朝の風が戻り、反響葦のささやきは、もう追ってこなかった。




