「灰の宿の朝」
冷たい。
最初にあったのは、その感覚だった。
背に触れる硬い板の冷たさ。
左腕の黒い腕輪が、脈のようにかすかな熱を持っている。
見上げた天井は白く、灯りだけがやけに明るかった。
「……大丈夫。怖がらなくていいのよ」
女の人の声だった。
やわらかくて、静かで、怒っていない。
それなのに、その声が近づくだけで胸の奥が縮む。
白い手袋をはめた女性研究員が、机の向こうで少しだけ身をかがめた。
無理に笑わず、目の高さを合わせるように穏やかな声を向けてくる
「今日は難しいことはしないわ」
「いつも通り、短くでいいの。ひとことだけ」
「終わったら、すぐ休めるからね」
視線をずらすと、少し離れた場所に男が立っていた。
灰白の髪。
細い目。
薄い笑み。
指先で小さな観測レンズを摘んだまま、こちらを見ている。
何も言わず、ただ見ている。
机の上には記録紙と薄い光を浮かべる観測盤が並び、女性研究員が盤面をなぞるたび、細い線と数値が揺れた。
「……声を出すだけでいいのよ」
女性研究員がそっと言う。
「誰かを傷つけるためじゃないわ」
「反応を見るだけ。ね?」
腕輪が、乳白色に脈打った。
喉の奥が熱い。
息が詰まる。
声を出したくない。
出したら、何かが起きると分かっているから。
「ほら……“やめて”でも、“待って”でもいいの」
優しい言い方だった。
優しいのに、逃げ道がない。
唇が震える。
息が漏れる。
掠れた声が、かすかに零れた。
その瞬間、椅子を動かしていた男の手がわずかに止まり、
部屋の空気がひと呼吸ぶん遅れたように静まった。
「……ああ」
離れたところで見ていた男が、観測レンズを摘んだまま首を傾げた。
「反応は出ていますねえ」
穏やかな声だった。
「ただ、まだ揺れが大きい。もう少し明瞭に魔力が乗れば、ずいぶん綺麗になるのですが」
女性研究員は観測盤に目を落としたまま、小さく息を吐く。
「……反応は取れています」
「これ以上は喉に負荷が出ます。続けても、出力より損耗が先です」
男は薄く笑った。
「なんと。惜しいことです」
「けれど、壊れてしまうと悲しいですからねえ」
その穏やかさが、かえって怖かった。
女性研究員は一瞬だけ目を伏せる。
それでも次には、また同じやわらかな声に戻った。
「……次で最後にしましょう」
「だから、もう一度だけ」
嫌だ。
わたしの声で、誰かに影響が出るのが怖い。
わたしの言葉で、空気や人の動きが揺れるのが嫌だ。
そう思った瞬間、景色がぐらりと揺れた。
薄暗い食堂。
木の皿。
倒れた椅子。
誰かの怒鳴り声。
思わず「やめて」と言ってしまった、あの日。
喧嘩していた子たちの動きが、一瞬だけ鈍った。
部屋の空気が、不自然に静まった。
振り向いた大人の顔。
困ったような、嫌がるような、気味悪がるような目。
「……またか」
違う。
違う、違う。
戻りたくない。
聞きたくない。
わたしの声で、また誰かに影響が出るのは嫌だ。
なのに夢は、容赦なく白い部屋へ引き戻す。
観測盤の光が揺れる。
腕輪がまた脈を打つ。
喉が焼けるように熱い。
「大丈夫」
女性研究員の声が、近い。
「本当に、次で最後だから」
白い指先が、そっと顎先へ伸びる。
触れられる、その寸前――
スミレは息を呑み、弾かれたように目を開けた。
喉の奥がひりついた。
左腕の腕輪を押さえたまま、ここが白い部屋ではなく安宿の一室だと気づいて、ようやく浅く息を吐く。
* * *
曇天の朝。
灰色の空から微かな光が差し込み、宿の窓を白く染めていた。
湯気混じりのパンの匂いが部屋に漂う。
テーブルを囲んだところで、ノアトが確認するように口を開いた。
「さて……とりあえず、今後の動き考えとく?」
ベッドの隅では、スミレが小さく膝を抱え、静かに窓の外を眺めている。
ノアトの声に顔を上げるものの、相変わらず言葉はない。
ヴァレンは椅子を傾け、書類を指で叩きながらぼやく。
「黒蔦の連中に顔を見られた以上、もう安全圏じゃねぇ。
研究対象まで抱えたとなりゃ、追っ手は来ると思っておけ」
ノアトがヴァルカデスの地図を広げる。
地図の上では、逃げ場は多くなかった。
「一旦ちゃんと装備を整える?
武器の手入れ、あと包帯や保存の利く干し肉。今のうちに市場を回っておいた方がよさそう」
「おう。俺もガントレットの部品と油が欲しい」
ヴァレンが頷いたあと、視線を横へ流す。
その先で珍ドラが、朝食の残りを狙うように鼻をひくつかせていた。
「で、こいつは使い道あるのか?」
「吾輩、万能っていう!」
「ほう? 火とか吐けんのか?」
「……吐けないっていう! ボフッ……」
情けない鳴き声と一緒に、珍ドラの口から煙が漏れた。
一瞬の沈黙。
ヴァレンが口角を上げる。
「お前、竜を名乗る資格ねぇだろ」
珍ドラは胸を張って言い返した。
「ブレスは吐けないけど、食べ物の匂いは百メートル先から分かるっていう!」
「もう猟犬だよ、それ」
小さく笑いがこぼれた。
スミレの口元にも、影のようにかすかな笑みが浮かぶ。
ノアトはその変化を見て、少し声をやわらげた。
「スミレ。俺たちは市場で準備してくる。
今日はまだ危ないかもしれないから、宿で休んでて」
スミレは少し俯いたあと、小さく頷いた。
指先が膝の布をつまみ、かすかに不安を滲ませる。
ノアトはすぐに珍ドラの方を向いた。
「珍ドラ、お前は残れ」
「見張りっていう!?」
「そう。スミレと一緒にいて、変なのが来たらすぐ教えて」
珍ドラはむっと鼻を鳴らしたが、次の瞬間には尻尾をぴんと立てた。
「……飯、増えるっていう?」
「帰ったら考える」
「よし、任せろっていう!」
「分かりやすいな……」
ヴァレンが呆れたように笑い、椅子から腰を上げる。
「じゃ、手早く済ませるぞ。今日のところは、騒がず客のふりだ」
* * *
昼過ぎ。
ヴァルカデスの市場は灰のような喧騒に包まれていた。
露店には金属片や古遺物の残骸が並び、売り声が金属音のように響く。
「こっち、武器の手入れできそうな鍛冶屋ある」
「ああ、油と工具も見とく。
ガントレット、昨日の騒ぎで焦げてるからな」
ヴァレンは工具や部品を物色し、ノアトは包帯や整魔布と携行食を買い集める。
市場を歩く間も、二人とも無意識に裏路地の入口や通行人の顔ぶれへ目を配っていた。
「それにしても、灰の国って感じだなぁ」
ノアトが薬瓶を受け取りながら呟く。
「物の値段より、人の目つきの方が先に来る」
「……こういう街は、笑ってる方が怖ぇ」
ヴァレンが短く付け足す。
ノアトは小さく肩をすくめた。
「ブレストンの市場と違って、値切る楽しさはなさそうだ」
「代わりに、油断したらこっちが値踏みされる」
必要な物をひと通り揃えると、二人はそれ以上寄り道せず宿へ戻った。
* * *
夕方。
宿に戻ると、部屋の灯りが柔らかく灯っていた。
スミレは窓辺に座り、ノアトたちの帰りを待っていたらしい。
振り向いた瞳は、昨日よりほんの少しだけ明るい。
「ただいま」
ノアトが微笑みかけると、スミレは小さく頷いた。
その動作はぎこちないが、どこかほっとしたようでもあった。
珍ドラが寝台の上から飛び起き、得意げに胸を張る。
「何も来なかったっていう!」
「そうか。偉いぞ」
「飯、増えるっていう?」
「そこ忘れてないんだ……」
ヴァレンが荷を下ろしながら鼻で笑う。
ノアトは買ってきた食材を机へ並べた。
「今日はここで食べよう。外でゆっくりする気分でもないし」
「賛成だ。油断できる街じゃねぇ」
「吾輩、肉あるなら何でも賛成っていう!」
「お前はずっとそれだな」
* * *
夜。
鍋の湯気が立ち上り、宿の部屋は香ばしい匂いで満たされた。
ノアトが味を確かめながら匙を回す。
「うん、悪くない。灰の国の野菜でも結構いけるな」
「飯がうまいなら、どんな国でも住めるっていう!」
「食うために生きてるのか?」
「生きるために食うっていう!」
「名言みたいに聞こえるのが癪だな……」
ヴァレンがぼやきつつも皿を受け取り、スミレの前にも温かいスープを置いた。
「……ほら。冷めないうちに」
スミレは差し出された皿を、ためらいながらも自分の手で受け取った。
両手で包むように持ち、そっと口をつける。
頬に、ほんのりと色が差した。
「……うまい?」
ノアトが尋ねると、スミレはごく小さく頷く。
「よかった」
その瞬間、彼女の左腕の黒い腕輪が、かすかに脈打つように光った――ほんの一瞬だけ。
ヴァレンが眉をひそめる。
「今、光らなかったか」
「……うん。でも、昨日みたいな嫌な感じじゃなかった」
ノアトは視線を落とし、スミレの横顔を見つめた。
まだ静かで、まだ脆そうなのに、その奥には確かに生きた光が戻りはじめている。
「腕輪が、感情に反応してるのかもな」
ヴァレンが低く呟く。
「喜びか、安堵か……どっちにせよ、悪い変化じゃなさそうだ」
スミレはスープの皿を両手で包んだまま、じっと湯気を見つめている。
その肩からは、昨日より少しだけ力が抜けていた。
* * *
食事のあと、珍ドラはいち早く寝台へ転がり込み、満足そうに喉を鳴らした。
ヴァレンは机に道具を広げ、ガントレットの焦げを削りながら低く息を吐く。
ノアトは灯りを少し落とし、スミレの様子を確かめた。
「明日は夜明けのうちに動こう。宿を替える」
スミレは眠る前のようにまぶたを伏せ、小さく頷く。
ヴァレンは机に頬杖をついたまま、手元の資料へ視線を落とした。
「……黒蔦の連中、簡単には諦めねぇだろうな」
「うん。でも、だからこそ動かないと」
ノアトが返す。
ヴァレンはそれ以上言わず、ただ工具を置いた。
灰の街の風が窓を叩く。
それでも、狭い安宿の一室には、たしかに小さな温もりがあった。




