三者調停会議 ―トライアド・カウンシル―
朝のアルシエル家は、焼き立てのパンの甘い匂いで満ちていた。
スミレは低いテーブルの端に座り、紙に走らせた鉛筆で要点を並べ、それを指先で“ここ”“ここ”と示していく。声はほとんど出さない。
けれど、身振りと短い囁きでじゅうぶん伝わる。
――市場に光。黒外套の男。
投影碑。神殿が“顕現”。
範囲外は静穏。範囲内は別世界。
「つまり……外は警報が鳴っただけ。中で騒いでいたのは、神殿の中だけってことね」
母が鍋敷きの上に湯気の立つポットを置きながら、スミレのメモを読み替える。
父は腕を組み、目を細めた。
「神殿が現れて……だが市場は壊れていない。幻影に近い“投影”か」
廊下から、ばさばさとタオルをいじる音。
「おはよ〜」
ノアトが洗面所帰りの濡れ髪のまま現れ、椅子に腰かける。どこか間の抜けた笑みで、ぽつり。
「昨日は久しぶりに本気で戦って疲れた」
――テーブルの上の時間が、一瞬止まった。
父が真っ先に口を開いた。
「ノアト、魔力もないのに戦えたのか? 相手は神殿の主なんだろう?」
ノアトは視線を宙に泳がせ、斜め向かいにいるスノアをちらりと見てから、気まずげに耳たぶを掻いた。
「えっと……魔力を貸してくれたんだよ、そのあと戦えって言われて」
困ったように笑う兄に、母の眉が跳ね上がる。
「魔力を“付与”? 相手はモンスターではなかったのかしら?」
「巫女だったよ」
ノアトの一言に、両親の声が揃った。
「え……?」「は……?」
「いや、ほんとに怖かったな最初は」
ノアトは、言葉の温度だけ妙に平熱だ。
「遺物発動者は隣で消されて、食後の運動で戦えって言われてさ……。
“満足させたら帰らして”って条件付きで受けたら、まぁなんとかなっただけで……。しかも、はちみつパン一緒に食べただけでイヤリングまでくれて。ほんとは優しい巫女なのかも。またいつか会えるかな?」
――再び、時間が止まる。母はポットを握ったまま固まり、父は喉で何か言いかけて言葉を失い、スミレは「はちみつ……」とだけ小さく反芻した。
スノアは、兄を凝視する。
「お兄ちゃんって、魔法使えるの?」
スノアが問い、指先がぴくりと動く。彼女の一人称は家の中ではやわらぐ。
ノアトは即答した。
「使えない」
「使えないのに魔力は借りられるの?」
「借りられた。貸してくれたから」
「誰が?」
「巫女」
沈黙の海に、玄関の方から間の抜けた大声が飛び込んだ。
「すいませーん! ノアト・アルシエル様はいらっしゃるでしょうかー? 三者調停の使いの者ですー!」
「三者調停?」
スノアが瞬きをする。
スミレも視線で「何?」と問う。
しかし両親は椅子を引く音も惜しんで玄関へ。慌ただしい囁き声、説明のやり取り、戻ってきた父の顔は、先ほどの固さに“公務”の影が混じっていた。
「ノアト。今回、街でRCL5――災害級の遺物が無断使用された件で、三者調停会議が開かれる。お前は当事者として招集だ」
「ちなみに拒否権はないそうよ」
母がやわらかく笑うが、目は笑っていない。
ノアトは胸を押さえ、ゆっくり床へ倒れ込んだ。
「うっ……昨日のダメージが……」
「仮病はだめ!」
スノアが仁王立ち。
「ちゃんと行きなさい!」
「はぁい……」と返事をしてノアトはゆっくりと起き上がった。
* * *
ギルド《遺物調査局クロニカ》ブレストン支部――
普段は依頼掲示の札が踊る賑やかなロビーも、今日は張り詰めた空気が薄氷のように床を覆う。二階の奥、円卓の間。扉の上には古い真鍮の銘板――三者調停会議室。
「ノアトさん、こちらです」
受付嬢フェリス・ハートリーが眼鏡を押し上げ、小声で囁く。
事務的な微笑みの奥に、“何かとんでもないものに触ってしまった書記官”の覚悟が見えた。
「えっと、三者って、どの三者?」
ノアトが訊くと、フェリスは手際よく三本指を立てる。
「ギルド代表、市政代表、そして貴族代表です」
磨かれた扉が開く。円卓には三つの席が半月形に配置され、その両脇に補佐席。
中央やや奥、気品を軽く纏った学者風――
ブレストン支部長、エリオット・アウレリウス。
真剣な目が、好奇心と猜疑心の均衡で光っている。
右手には、頑丈な手で書付を押さえる市政代表、バルド・メイスン。無駄が嫌いな現場の人間という匂いがする。
左手には、銀の飾りを控えめにあしらった礼装。貴族代表、エドガー・ヴァーロード卿。眉間にしわを寄せ、斜に構えた目で“政治的影響”の地雷の位置を計算中。
補佐席にフェリス。壁際には、口が軽くて有名な警備兵――気さくなおじさん。扉脇で背筋を伸ばしていた。
「遅れてすみません……」
ノアトは一番最後に入室し、気まずそうに会釈して席にすべり込む。
エリオットが立ち上がり、短く礼をした。
「では――三者調停会議を始めましょう。誓文の確認を。“三声の和なくして剣を抜かず”」 三者が軽く頷き、会議は滑り出す。
まずは事実の整理。
場所は市場大広場、発動遺物は神殿投影碑。無断使用。RCL5。
「使用者に心当たりは?」とメイスン。
「黒い外套の男とのこと」とヴァーロード卿。
「うむ。ここまでは、その場にいた市民の情報と同じ」とエリオットが呟く。
次に、神殿内部の状況。
境界をまたぎ、別位相。守護天使と高位水霊の出現。敵対意思は薄いが、儀式的な“試し”を課す傾向。
フェリスが書記用のペンを走らせる。
「神殿の主との会話は?」
ノアトは肩を竦める。
「ええと、用はなにか?と聞かれまして、隣の黒い外套の方が答えたあと消されました…。
それからはちみつパン一緒に食べたあと“魔力貸すから勝負をしよう”って申し出を受けました」
「外套の男は一体何を…」
「……“面白がってるだけだろう”って……」
円卓の空気が、わずかにずれる。メイスンが咳払い。
「つまり、巫女は君の意図――敵意がないことを読み取り、貸与を申し出たと?」
「そう……なるんですかね。おかげで、戦えはしたんで」
「貸与元は“神託巫女”で間違いないのだな?」
ヴァーロード卿の声は針のように細い。
ノアトは返事をしたあと、片耳から下げた耳飾りを見せる。
「はい。そのあとは……イヤリングもらいました」
――フェリスのペンが止まり、警備兵のおじさんが気管に何か詰まらせたような咳をした。
「確認ですが」エリオットが慎重に言葉を選ぶ。
「君は“神託巫女”と会食したのだね?」
「パンです。会食っていうほどじゃ――」
「はちみつパン、ですね?」
フェリスが妙に丁寧に復唱し、メモに【会食:はちみつパン】と書き足す。
ヴァーロード卿が椅子の肘掛けを、二度、軽く叩く。
「神殿側から“満足”という評価基準が示され、通過者に神話級クラスからの贈り物――耳飾が授与された。
これは“選定”だ。つまり君は、神殿に“選ばれた”」
「選ばれし、はちみつパンが……?まぁ美味しいけど」
ノアトの声が小さくなる。スノアがいたら、ここで“ノアトは、黙って”と言われただろう。
卿は真顔だ。
「甘美なる契約の比喩だ」
メイスンが現実に引き戻す。
「被害は最小限。市場は無傷。だが、RCL5が市内で使われ、当事者は消滅。責任範囲を明確にし、再発防止を――」
エリオットが頷き、書類を一枚滑らせる。
「加えて、神殿側との“接触可能者”が我々の手元にいる、という事実。ノアト君、君は魔法は使えないのだったね?」
「使えません」
「だが“貸与”で運用できた。これは前例が少ない。君が“媒介”として機能する可能性がある」
「媒介……?」
「橋、です」フェリスが端的に補う。
「向こうとこちらを“安全に”繋ぐ橋」
ヴァーロード卿がため息を細く吐く。
「神殿は気まぐれだ。次に顕現した際、敵対でなく“試し”に留めるための手立てが必要。君はそのカードになりうる」
「えっ……」
メイスンが机を軽く叩く。
「市政としては、市民の安全が第一だ。次回、顕現があれば、まず境界の封鎖と避難動線の確保。ギルドは接触班の編成。貴族側は――」
「政治的火消しだとも」
ヴァーロード卿の口元がわずかに皮肉に歪む。
「“巫女とパンを分け合った青年”という愉快な見出しが広まる前にな」
「それはもう手遅れでしょう……」
フェリスが机の端を見やる。そこには、メモを見ながら頷きすぎている警備兵の姿。
エリオットがまとめに入る。
「では、当面の結論だ」
「三者の和――“三声の和なくして剣を抜かず”。
本件、剣は抜かない。討伐ではなく調停運用。
ノアト君は任意協力の“接触補助”として登録。強制はしない。だが危険は伴う。異議は?」
メイスンが手を挙げる。
「任意協力でよい。ただし、次回顕現時はギルド立会いを必須に」
ヴァーロード卿も渋く頷く。
「書面を整えよう。神殿由来の贈与物は一時預かり、もしくは登録管理を提案する」
全員の視線がノアトの耳に吸い寄せられる。
小さな耳飾り――“神託耳飾”。ノアトは反射的に両手で耳を隠した。
「没収なの……?」
フェリスが咳払い。
「保管も可能です。のちほど対応致しますので――」
「よろしい。では、合意する」
エリオットが木槌を軽く鳴らす。
「本日の三者調停、ここまで」
* * *
会議室を出ると、フェリスがすっと歩幅を合わせてきた。
「お疲れさまでした、ノアトさん。
……落ち着いたら、簡単な報告書を“分かりやすく”お願いします。『会食:はちみつパン』の部分は、そのままで」
「そこ、必要なの?」
「事実ですから」
廊下の角では、警備兵のおじさんが既に誰かに向かって身振り手振り。
「いやぁ、さすがだよ! 巫女様に選ばれて、パンを半分こして――」
「口は災いの元、ですよ」フェリスが微笑で釘を刺す。
おじさんは「おっと」と口元を押さえるが、次の瞬間、別の方向に向かって親指を立てた。
階段の踊り場、スミレが壁にもたれて待っていた。
ノアトを見ると、安堵の笑みを、口元だけでそっと作る。
「ただいま」
ノアトが手を振ると、スミレは近づいて、彼の耳飾りに視線を落とし、そして胸の前で小さく親指を立てた。
「いや、それ褒めるところなのか……」
スミレは、ポケットから包みを出す。紙袋から――はちみつパン。
*
その頃、ブレストンの街角では――
「聞いたかい? 巫女様と“パンを契った”青年がいてね」 「やだ、素敵……」
新しい噂が、はちみつの香りを引き連れて、軽やかに広がりはじめていた。
次の“顕現”がいつであれ、“三声の和なくして剣を抜かず”という誓文のもと、ブレストンは今日もいつもの賑わいを取り戻していく。
ノアトは耳飾りをそっと指で触れた。 ――また会えるかな。
(……いや、パンは持っていこう。絶対に)




