第5話 もう人間の姿にはならないの?
二か月が過ぎた。慣れると、薫の家は居心地が良かった。昔からあそこは風が良く通るし、陽の光もよく入る。薫は、オレが話を振らない限りあまりしゃべらない。だから、オレは薫のことがまだよくわからなかった。分かったのは、毎日届く絵葉書は母や複数の友人から代わりばんこに来ているということ。時々、その返事を便箋ですること。そして、彼女はパソコンと液タブと呼ばれるもので絵を描くのを仕事にしているということだった。イラストレーターというらしい。そして、彼女はここに来てから一度も、山を出たことはなかった。
「ねえ、ましろくん。もう人間の姿にはならないの?」
薫がお仕事をしている足元で丸くなっていると、薫は眉を下げてオレを覗き込んできた。オレはふいとそっぽを向いて、薫から数歩距離を取る。
「ならない。妖にも事情があるんだよ」
「そう」
一か月前から、山神様に神力をわけてもらうことができていない。人間から生気を分けてもらうには契約が必要だから、薫の近くにいるからといって生気を分けてもらえているわけでもない。常時猫の姿でいるのは、生き延びるためには仕方がなかった。
ミコがすでにオレの寿命のことはばらしているのではないかと思っていたけれど、意外と口が堅かったらしい。
絵葉書を届けるついでに、薫には、ババの料理をオレが覚えている限り作ってもらった。それも今日で尽きてしまったけれど。オレは妖には珍しく、あまり記憶力が良くない。たぶん、すべては網羅できなかっただろう。ジジババと住んでいたのは三十年だ。とても二か月で収まるものではない。
「お前は、ジジババとは仲良かったの」
なんとなく聞いてみたくなった。オレが薫に目を向けると、彼女は穏やかにうなずいた。
「ええ。といっても、お盆とお正月に会う程度よ。たぶん、ましろくんの方が仲が良かったんじゃないかしら」
「そっか。でも、オレは二人の死に目に会ってねえからなあ。遺言、聞かせてくれよ」
すんなりと聞けたことに自分でも驚く。薫がかすかに息を呑んだのがわかった。オレは目を閉じる。チリンチリンという風鈴の音とともに、そのかわいらしい声がオレの耳の中に流れ込んできた。
「……一緒に生きてくれてありがとう。どうか、元気で」
遺言でも、それは薫の話した言葉として脳に落ちていく。二人の声なんて、とうに忘れてしまった。他にも、ジジババの声は、言葉は、今のオレにはなかなか思い出せない。最後に二人が家を出るときの言葉も、一言一句思い出すことができない。なんと言われただろうか。胸の奥にずっと積もらせたままでいようと、確かに思ったはずなのに。それは雪のようにすぐに溶け消えてしまった。
ゆっくりと目を開けた。
「そういえば、もうすぐお盆だよな。お前は帰らないの」
この時期、ジジババは少しばかり大きな荷物を持って山の外に数日出ていた。薫は目を伏せる。
「ええ。今は、いいわ」
「なんで? お盆は妖の世界でも一大行事なんだぞ」
「なんでもいいでしょう」
いつもはなんでも優しく答えてくれる薫には珍しく、雑な返答だった。けれど、オレはオレで聞いておきながらあまり薫の様子に頓着していなかった。
ジジババ、お盆にこの山に帰ってきてくれるかな。妖と幽霊は違うから、姿は見えないだろうけど。
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「あんた、すっかり薫ちゃんに懐いてるじゃない」
「あ? 懐いてねえよ。なんだよ」
山を下りて、入り口で丸くなっていると、ミコが不満げに話しかけてきた。オレは眉をしかめる。別に、薫が好きというわけではない。ジジババのことを思い出すのに都合がいいのだけの話である。ミコはなおも不満げに、オレの目の前に座り込んだ。
「あんたがいるせいで、なかなか薫ちゃんのところに遊びに行けないのよ」
「あー、それは悪かったな。オレがいるのは昼ごはんまでだから、ずらして来いよ」
オレが人間の家へ入ると、他の妖を寄せ付けないほどの清らかな空気の流れを作り込んでしまう。オレがいる人間の家には、オレがいる限り入ってくることができない。正式に契約して住み着いていた昔の水城邸は、常時他の妖は立ち入ることができなかった。悪意ある者もすべて入れないので、いい用心棒であるらしい。オレはいるだけなので特に何かしている気持ちにはなっていないし、それで人間に感謝されても聞き流してしまうけれど。
「やっぱり、薫ちゃんの生気を吸い取ればいいんじゃない」
「それは違うんだよ。オレはジジババが一番だったんだ」
「ホント、頑固よね。私嫌よ、こんな退屈な窓口なんか押し付けられたら」
「だから悪かったって」
「それについて謝られたのは初めてね」
「うるさいからもう行けよ」
言い争いは疲れてくる。最近、疲れることが増えた。衰弱しているようで、自分の体だけれどうっとうしい。さて、お盆になるころには、神力をもらえなくなってから三か月目になってしまうけれど、この体は持ってくれるだろうか。
「なあミコ、あいつにはオレのこと言うなよ」
「……言わないわよ」




