第2話 いらない!
「ましろくんは、猫なのよね?」
「そうだけど」
久しぶりに入った水城邸は、昔と変わらない古い匂いがした。たっぷりとそれを吸い込んで、けれどどこか新しい匂いも鼻の中に入ってきたから息を止める。
オレは案内された居間のローテーブルで胡坐をかいていた。ぐるりと部屋の中を見回す。窓際には観葉植物がこんもりと飾られていて、反対側の壁にはぐるりと腰壁が張り巡らされている。置いてあるものは招き猫やアンティーク物のポットなど。昔から変わらない。けれど、奥のキッチンにあるビビッドカラーのミトンや、アップライトピアノの上のテディベアなんかからは、また別のにおいがした。
「今まで妖とは縁がなくてね。妖は人間に化けるものなのかしら?」
「いや、別に」
薫はローテーブルの反対側に回ると、オレに氷がたっぷり入ったオレンジジュースを差し出してきた。ちらと向けてくる視線からは、妖であるオレを気にしていることが伝わってくる。それがうっとうしくてふるふると首を振った。
「これは。人間の姿だと何かと便利ってだけ」
人間の五指や身長は便利なのだ。妖力が少ないオレは、気を抜くと耳や尻尾が出てきてしまうけれど。……それに。
薫を見る。
……やっぱりちっとも似てねーや。
「ていうか、毎日郵便物が届くって何なの? いっつも誰から来てんだよ」
内心ガッカリしたことを打ち消すように、オレはぐいっと勢いよくオレンジジュースをあおった。口の中が一気に極寒。つらい。
薫はふふっと笑った。
「私の大切な人たちからよ。みんな手紙や絵葉書をくれるの」
「ふうん……」
初めて見る嬉しそうな表情に、オレはすっと目を逸らした。
手紙、か。
オレは字が読めない。簡単そうな、スカスカな字は、前にジジに教えてもらった。ひらがな、というらしい。でも、時はあっという間に過ぎ去っていって。
ジジに教えてもらったことは、どんどん指のすきまから零れ落ちていくんだ。人間の手は、猫の手よりもずっとすきまが大きいから。
「フルーツポンチ持ってくるから、少し待っていてね」
「ん」
薫が居間から姿を消す。この家は居間と台所が離れていて、お互い姿が見えなくなる。オレは大の字に寝転がった。
「あれから……何年だ、じゅう……ご、いや、なな……」
『ましろ殿』
「ぅひゃ!」
突然頭の中で低い声がどすんと響いてきて、オレは飛び上がった。人間の姿の時には隠していた耳と尻尾が飛び出して、ぶわりと毛が逆立つ。
『ましろ殿、山神様がお呼びだ。お前がのんびりと構えているせいで、山神様がついにしびれを切らしたぞ』
「す、すぐ行く! やまみち、何か手土産はいるか!?」
『遠回りをするつもりか? いらぬ。今すぐ山神様の下へ来なさい』
「はいッ」
山神様のそばで仕えているやまみちに、オレはピンと背筋をただした。頭の中からやまみちの気配が消える。
やっべ、すぐ行かなきゃ!
オレはこけそうになりながら、あわただしく玄関へ向かった。途中で薫とすれ違う。その手にはフルーツポンチが二つ載っているお盆が。思わず横目で追ってしまったから、薫のびっくりしている顔もはっきりと視界に映った。
「あれ、ましろくん、フルーツポンチは?」
「いらない! オレもう行くから!」
薫の返事も聞かず、オレは水城邸を飛び出した。
****
オレが山神様に逆らえない、呼び出されたら何もかも放り出して馳せ参じなければならない理由は、ごく簡単だ。
オレは、山神様に生かされている妖だから。
この山のてっぺんにはご神木がある。立派なしめ縄の少し上には、オレが猫の姿になればすんなり入れるくらいの洞穴があるが、さすがに不敬が過ぎるので入ったことはない。オレがその洞穴の前に跪くと、脳内にしゃらんと鈴の音が響いた。やまみちが、ここまで来たオレを労ったのだ。洞穴からも渋い声が響いてくる。
「ましろ、呼び出された理由はわかっているな?」
「……もう、あんまり時間はないってことですよね」
「分かっているのならなぜ何もしない? 私も、ずっとお前に神力を分けられるほど太っ腹ではないのだぞ」
オレは唇をそっと噛み締めた。己の特性が嫌だ。
オレは人間の生気を吸い取ることで生き長らえる妖だ。人間に依存しなければ生きていけない妖。前までは水城邸に居候して、そこに住んでいたジジとババの生気を養分に生きていた。二人がいなくなってからは、山神様のご厚意で、この山に満ちる神力を吸い取って生きている。
……神様に頼りすぎたな。
オレはため息を吐くのをこらえ、つぶやくように言った。
「……新たに棲みつく人間を探します。猶予はどれだけいただけますか」
「一月だ」
一月!?
ごくん、と生唾を飲み込んで叫ぶのをこらえる。オレの驚きなんて歯牙にもかけない山神様の声が無情に響いた。
「このご時世、山を守るのも大変なのだ。お前に分け与える神力はもはやない」
人間ではない山神様は、オレのもう一つの特性の恩恵を受けられるわけじゃない。
「……わかりました。頑張って探します」
「よろしい」
もう行っていいぞ、と言われて、オレはふらふらと御前を後にする。
覚束ない足取りで、けれども転ばずに山を下っていく。時々会う知り合いの妖と口をきく気にもなれない。頭の中が真っ白なまま、気づけば山の入り口についていた。入り口に生えている松の木を背もたれに座り込む。松の生気を背に受け、オレは曇天を仰いだ。
「まずいことになったぞ……」
やまみちは、音だけの妖で体がありません。山神様の大事な側近。




