第1話 フルーツポンチがあるの
朝露に濡れてキラキラと輝いている草を踏みしめて、オレはずんずんと山を登っていった。お気に入りの白いスニーカーはあっという間にぐっしょりと濡れていく。嫌いな湿っぽい感覚をどうにか逃がしたくて、とりあえずげんなりとした表情を作った。
「ましろー、今日は雨だぞ」
「あー?」
特徴的な高い声に上を見上げると、樹齢百年のクスノキの枝からレッサーパンダがオレを見下ろしていた。普段天気予報なんかしない彼に向かって眉を上げてみせる。
「どこ情報だよ」
「雨女が隣町に来たってカラス天狗が。今日は水城の家に一泊泊まっておくのが賢明だと思うね、子猫ちゃん」
「オレは子猫じゃねー」
左手で持っていた絵葉書をひらひらと振って、レッサーパンダに別れを告げた。はあっとため息を吐く。
「水城の家って。ジジババはもういねーじゃん」
古くさい匂いに、柔らかく温かい空気に包まれた家。そこにいるのはいつだってジジババだったのに。
「ましろ殿、今朝もまた水城嬢の元へ行かれるのですかな」
足元でしわがれた声が聞こえ、オレはびゃっと総毛だった。思わず飛び出た長い尻尾が緊張にピンと立っているのがわかる。
「地蔵……。おどかすなよ」
オレの膝くらいの、頭や肩に苔が生えている地蔵。人間に表情を彫り込まれたはずの石像のはずなのに、なぜか彼が穏やかに笑ったように見えた。
「おほほ、それは失敬。りすが花を置いていきましてね。嬢さんに渡してはくれませんか。私がぼんやり眺めているより、お手入れした方が花も喜ぶでしょう」
「お前、表情動かせんなら体も動かせんじゃねーの」
「私はじっとしているのが好きなのです」
「あっそ」
ため息混じりに地蔵の目の前にそっと置かれている小ぶりな青い花を拾い上げる。空の青とも少し違う、紫がかった薄い青だ。たった一輪のそれを鼻にそっと当てる。ほのかな甘い匂いが鼻腔を撫でていった。
「……郵便受けに入れるだけだから」
「ええ。ありがとうございます」
アイツの家までもう少し。オレは絵葉書と青い花を持って山道を登っていく。
ここは妖が棲む山だ。現在、ここに住んでいる人間はたった一人。山神様から山の窓口を任されているオレは、毎朝山に届くその人間宛ての郵便を届けに行っている。山神様のおかげでオレは山に棲めているから、役目を放棄することはできないのだ。
パッと視界が開けた。色褪せた赤い屋根が、生垣から覗いている。家の隣には畑があって、ひらりと白いワンピースが揺れたのが見えた。
今日はちょうど外に出てるのか。
オレは反射的に首をすくめると、忍び足に家の方へ向かった。生垣がちょうど空いているところから家の玄関に入れる。そこに白い木でできた郵便受けがあるのだ。さっさと用事を済ませて帰ろう。
ギ……と蓋を開けて、絵葉書を入れ、花を入れようとしたところで固まった。
……これ、オレがあげた花だと思われるんじゃ。
青く可憐な花びらをつんと指で突く。冗談じゃないと首を振り、郵便受けを閉じた。
「ましろくん。おはよう」
「げ」
ころころと鈴が鳴るような澄んだ声に、オレの隠していた耳がぴょこんと立った。恐る恐る振り返ると、薫が微笑を浮かべて立っていた。白いワンピースに麦わら帽子を被っている。オレはじり、と後ずさった。
「……じゃ」
「その花、ネモフィラ?」
「え?」
耳慣れない言葉に首をかしげた。薫がオレの右手を見つめている。ハッと持っていた花を後ろ手に隠した。
「ちが……! あ、いや」
自分がおかしな反応をしていることにぶわっと顔が熱くなる。薫がゆるりと小首をかしげたのが視界の端に映った。
ああ、もう。
観念してぐいっと花を差し出した。
「地蔵がお前にって」
「まぁ、そうなの。ありがとう」
薫がにこりと笑って受け取った。その作り笑いにむっと顔を顰めていると、彼女は人間の子供姿のオレに、視線を合わせるように屈んだ。
「こうして会えるのは久しぶりよね? 少し休んでいかない?」
薫がここに越してきたのが一ヶ月前の三月。オレがなるべく薫と鉢合わせないように郵便を届けていたせいもあり、引越しの挨拶を受けたきりになっていた。
嫌だと反射的に思ったけれど、「今日は雨だぞ。泊まってけば?」と脳内のレッサーパンダが囁いてくる。押し黙るオレに、薫は目を柔らかく細めた。
「フルーツポンチがあるの」
「……食べてく」
思わずぴょこんと立ってしまった猫耳を両手で押さえながら、オレはそっぽを向いた。
人間の姿の時は、本物の人間と見間違うほどです。しかし、感情がぶれると、猫耳と尻尾が出てしまうみたい。
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