夕陽
「リズ。昨日は大丈夫だったかい?怪我は?」
オリヴァーの案内で王宮の回廊を歩きながら、先程のことを反芻してぼんやりしていたリズに、オリヴァーが顔を覗き込むようにして尋ねた。
急にオリヴァーの綺麗な顔が間近にきて、慌てたリズは顔を赤くしつつもはい!と答えた。思ったよりも大きな声が出て、慌てて口元に手を当てる。
「私は大丈夫です。オリヴァー様は大丈夫でしたか?」
「私も大丈夫だよ。あの場に居合わせた人の中で怪我をしたのは、リズの弟と影の護衛や警備員だけど、皆軽症だった。生徒も皆無事だったし、あれだけの翼白の中で、不幸中の幸いというやつだね」
それを聞いて、リズは少しほっとした。
「そうですか。……あの、オリヴァー様は翼白の大群がどうして学園に現れたのか理由を知ってるんですか?」
「大体のことは。でも、それをリズに教えることは出来ないんだ。リズも巻き込まれているのに、申し訳ないんだけど」
試しに聞いてみたが、やはりだめかとリズは少しだけ落胆しつつ、気を取り直して言った。
「気になさらないでください」
ごめん、とオリヴァーが眉を下げて謝る様があまりに可愛いいのとかっこいいのとで、リズは顔を赤くしつつ大丈夫ですを連呼した。
「リズは昨日のことでブレンダに茶会に呼ばれたのかい?」
「いえ。以前、偶然にセシル殿下からハンカチを借りまして。それを返す場を設けてくださったんです」
「そう。呼んだのはセシルのほうだったのか。てっきり昨日の聴取も兼ねているのかと思ったよ」
「私も昨日のことで話を聞かれるのでしょうか?」
「もしかしたら、エルゴード副団長から話を聞かれるかもしれないね。彼が今回の件の調査を任されたようだから」
怜悧でリズを探るようなアンセルの瞳を思い出して、リズは背筋がひやりとした。たった数分だけだが、アンセルと話してみて、リズは緊張して疲れを覚えた。出来れば二人で話すのは避けたいと思っていると、それを察知したオリヴァーが言った。
「一人が心細いなら、私も付き添おうか」
リズはぱっと顔を輝かせた。オリヴァーが一緒ならば心強いが、それはそれで許されるのだろうかと心配になる。
「あ、でも……いいんでしょうか?」
「大丈夫だよ。私もあの場に居合わせたから」
「ありがとうございます。オリヴァー様が居てくれるととても助かります」
にこりと微笑んだオリヴァーは、でも、と少し声を低くした。
「私達に話を聞いても分かることはほとんどないように思う。リズはあの日何か気付いたことはあった?」
「いえ……。不審な人物を見かけたこともありませんでしたし」
「私もだよ。ブレンダのそばにいたけれど、翼白が現れるまではこれといって変わったことはなかった。調査は難航するかもしれないな……」
オリヴァーは眉根を寄せて呟いた。
「ブレンダ殿下は大丈夫でしょうか?」
「ブレンダはああ見えてしっかりして強いから。それに、護衛もたくさんいるから大丈夫だよ」
「それならいいのですが……」
何事もなければいいが、そうはいかないだろう。それはきっとオリヴァーも察知しているはず。何が起こるのだろうか。一体誰がどうやって何のために、あんな大それたことをしたのだろうか。そしてその犯人は捕まるだろうか。
不安が胸をざわつかせていた。
リズは回廊から窓の外へと視線をやった。日が傾いて夕暮れ時にさしかかっていた。王宮の白い建物の一部が夕日に照らされて淡いオレンジ色に染まっている。
今日一日で色々なことがあった。セシルの頼み事、王女達との茶会、アンセルの質問……。
急に疲れを覚えたリズは、無意識のうちに小さくため息を吐き出した。
「リズ、何かあった?」
立ち止まって振り返ると、オリヴァーが心配そうにリズを見ていた。
「なんだか元気がないから」
「そんなことは、ありません」
オリヴァーは困り顔になった。小さく息を吐く。その目がどこか悲しげに見えて、リズは俯いた。リズの長い影が、オリヴァーの足元まで伸びていた。
「私には話せないことかい?」
「本当に大したことでは……。ただ、昨日から色々なことがあったので、少し疲れたのかもしれません」
それから、と言ったリズの頭の中にオレンジが浮かんだ。
「先程のお茶会で殿下がオレンジティーとオレンジチョコレートを用意してくださったんです。ガーランドはオレンジの生産地だから、きっと好きだろうと……」
そう、と答えたオリヴァーをちらと見上げて、リズは苦笑した。
「私はオレンジが大好きなんです。でも、用意してくださった南部のオレンジは酸味があって、私には少し酸っぱく感じてしまって。三角谷のオレンジは甘くて。それを思い出したらなんだか少し……」
寂しいとは口にしたくなかった。何を今更強がっているのかと思い、リズはふいと視線を逸らして苦笑した。
「子供ですよね……」
一歩、オリヴァーが大きく踏み出した。オリヴァーとリズの影が重なって大きな楕円になった。
「……リズ、まだ時間はあるね?」
えっと顔を上げると、オリヴァーが小さく微笑んだ。
「少しだけ私に時間をくれないかな。リズに見せたいものがあるんだ」
「見せたいもの?」
リズが戸惑っていると、オリヴァーがリズの手を取った。へ?と戸惑うリズに行こう!と言ってオリヴァーが駆け出した。
「こっちだ!」
「え、え?オリヴァー様!?」
何がなんだか分からないまま、リズはドレスを踏まないように走り、オリヴァーに引かれて階段を駆け上がった。
回廊を行き来する使用人達が、オリヴァーとリズが駆けてくると、驚きつつも端に避けて頭を下げる。中には、オリヴァーに気付いて走らないようにと注意する兵士もいたが、オリヴァーは謝罪しつつも見逃してよと人懐っこい笑顔で躱し、走るのを止めなかった。
一方リズは混乱の中にいた。
お、オリヴァー様と手を繋いでる!!
こんなところを誰かに見られたらまた校舎裏に呼び出されてしまうと思いつつも、喜びが勝った。
嬉しさと恥ずかしさがない混ぜになって、感情を抑えることが出来ない。顔は緩んで赤くなり、とても人様に見せていいような顔をしていないという自覚はあった。
オリヴァーの手のひらは普段から剣を扱うからか固くて厚い。それでいて指はすらりとして長く、滑らかですべすべだった。
リズは緊張と恥ずかしさで汗をかき出していた。ベタベタの手で気持ち悪いと思われていたらどうしよう。でも手を離してだなんて言えないし、離して欲しくないと思った。自分はどうしてしまったのか。
一人悶絶していると、オリヴァーが立ち止まった。
「ここだよ」
オリヴァーは大きな扉を開くと、リズを中へと誘った。そこは小さなサロンだった。部屋には食器や花瓶等の骨董品が飾られていて、中央に年期の入ったテーブルと椅子がある。
オリヴァーは部屋を突っ切ると、奥のベランダへとリズを連れて行った。
「ここは子供の頃、いつも従兄妹同士が集まって茶会という名のお喋りをしていた場所でね。私は昔からこの場所がお気に入りなんだ。来てみて」
オリヴァーに手を引かれてベランダに出ると、そこからは王都の街を一望することが出来た。
王宮の広大な前庭、丘を下った先にある黒色の屋根で統一された貴族街、背の高い教会の隣に位置する鐘楼、街の中心には恋人達のデートスポットである白鳥広場と三日月池のある緑豊かな三日月公園、その隣には様々な形をした屋根が並ぶ市場、赤茶色をした屋根が集まるのが平民街だ。
そして、その街をオレンジ色に照らすのは、大きな楕円の夕陽。
「綺麗……!」
美しい景色を前にして、リズはしばしの間、ベランダから身を乗り出すようにして魅入った。
「子供の頃、嫌なことや悲しいことがあると、ここに来ていたんだ。この美しい景色を前にすると、自分はちっぽけな人間で、なんて些細なことで悩んでたんだろうって思えたから」
私の家は母が中心だったんだ、とオリヴァーが続けた。
「母を十歳の頃亡くしてからというもの、父は消沈して口数が減り、兄は父と折り合いが悪くなり、私が二人の仲をなんとか取り持とうと必死になって、でも上手くいかなくてね。そんな時にここに来ては自分を慰めていたんだ」
「そうだったのですか……」
オリヴァーの家庭事情を初めて聞かされて、リズはそれ以上なんと言っていいか分からなかった。リズは勝手にオリヴァーは明るくて朗らかな家庭で育ったのだと思っていた。
「母は太陽みたいな人で、私達家族を照らしてくれる存在だった。そんな人がいなくなったら当然家は暗くなる。でも、自分も一緒になっていつまでも落ち込んでいられない。今度は母のように私が周りを明るくさせたい。ようやくそう思えるようになって、私は十三歳で騎士になったんだ」
そうだったのか。リズはどこか照れた様子のオリヴァーの横顔を眺めながら、ほうっと息を吐いた。
「オリヴァー様は……すごいです。どうやったらそんな風に前向きな気持ちになれるのでしょう」
リズは違う。オリヴァーのような明るく真っすぐな感情を持てなかった。リズを突き動かしているのは、真反対の復讐心だ。暗くて重くて、だけど捨てることの出来ない、リズにとっては原動力といってもいい大切なもの。
オリヴァーが眩しくて、リズは目を細めた。太陽のような人だと思う。だから、こんな風に憧れ、尊敬し、そして羨ましく思う。
「リズもすごいよ」
オリヴァーが真っすぐにリズを見つめて言った。
「私を助けてくれた時も、翼白が襲ってきた時も、リズはいつだって私の予想を越えて、驚かせてくれる。リズはとても強い女性だ」
だけど、とオリヴァーは僅かにリズに顔を寄せると、真剣な表情で言った。
「寂しいと思う時、辛いと思う時、悲しいと思う時は、いつでも私に言って欲しい。何も役に立たないかもしれないけれど、そばに居ることは出来る」
ね?とオリヴァーに言われて、リズはでも、と小さく零した。
「お忙しいでしょうし、ご迷惑じゃ……」
「全然迷惑じゃないよ。友達なんだから。でも会えない時もあるかもしれない……。その時は手紙を書いて欲しい」
「オリヴァー様は手紙を受け取らないのでは……?」
「学園ではね。でもリズは友達だから。王宮か自宅の方へ送ってくれれば大丈夫。ああ、それでも返事が届くには時間がかかるか……」
それじゃあと言って、オリヴァーは懐を漁った。上着の中から何かを取り出すと、反対の手でリズの手を取って、何かを握らせた。
「それをリズに預けるよ」
そっと手のひらを開くと、そこにはピンバッジがあった。金色の烏が羽を広げて口を開けている。
「それは金烏騎士団に入団した者に配られるもので、太陽と盾とその烏の三種類あるんだ。金烏騎士団のほとんどは太陽のバッジを好んで付けている者が多くてね。かくいう私もそうなんだ」
オリヴァーは騎士服の胸に付けている太陽の形をしたバッジを示した。
「余ったバッジは、任務から無事に帰れるようにと願いを込めて、恋人や家族に渡すのが騎士団の中での願掛けのようになってるんだ」
「そんな大事なものを私が預かるわけには……!」
「大丈夫。盾のバッジは家に預けてあるし。それはリズが持っていてくれないかい?」
「でも」
「寂しくても会えない時は、それを見て私が居ることを思い出して欲しいんだ。そうしたら、少しは辛い気持ちが紛れるだろうから」
それでも躊躇するリズに、オリヴァーは開いたままのリズの手を、両手で包み込むようにしてバッジを握らせて、至近距離でにこりと微笑んだ。
「大丈夫。これを持っていれば金烏の加護があるから」
オリヴァーの言葉はリズの心の中にすとんと落ちて、不思議と大丈夫だと思えた。つい先程まで不安や寂しさが渦を巻いていたというのに、今では安心感が胸を満たしている。
ふと目線を下げると、オリヴァーの胸に淡い黄色の光が灯っているのが目に飛び込んできた。
それを見た瞬間一気に顔が熱くなると、胸がきゅっと締め付けられ、どくどくとうるさい程の鼓動が鳴り始めた。
「ね?」
リズがはいとか細い声で返事をすると、するりとオリヴァーの手が離れた。名残惜しく思っていると、オリヴァーは夕陽に目を向けて言った。
「まるでオレンジみたいな夕陽だ。私もいつか三角谷のオレンジを食べてみたい。きっと美味しいんだろうね」
いつか、そんな日が来るのだろうか。来て欲しい、とリズは思った。いつかあのオレンジを食べるんだ。そして、オリヴァーにも食べさせるのだと、そう思うことが出来た。
「とても甘くて美味しいんですよ。オリヴァー様にはまず採りたてのオレンジをそのまま食べて欲しいです」
「楽しみだな」
ふふ、と二人は顔を見合わせて笑い合った。そうして夕陽が落ちるまで、二人は並んで景色を眺めていた。




