終 灯火
次の次の春の善き日に、姫は鹿崎と華燭の火を灯した。
十八になった姫はそれはもう美しく、頬を輝かせて鹿崎と結ばれた。
鹿崎は皇の覚えめでたく出世し、誰ひとりその婚姻に文句をつけられる者はいなかった。
睦は姫と共に、鹿崎の屋敷に住まうことになった。あの山荘とは比べ物にならないほど素晴らしい屋敷である。
それでも毎年夏になると、あの山荘に避暑に行く。鹿崎と姫の思い出の場所でもあり、睦にとってもまた忘れられぬ場所でもあった。
娑魔児神の社は変わらずそこにあり、睦は山荘に行く度にそこで手を合わせた。そして物寂しく思った。
もうその社に、有象は横たわっていなかったのだ。
鹿崎の屋敷にもいない。
有象は、鹿崎の結婚後すぐに──式の術を解かれていた。
鹿崎が自ら解いた。もはや有象が自ら死を考えることもなく、鹿崎の敵にならぬと判断した上での解放だった。
それに睦も喜んだ。喜んだのはつかの間だった。
「少し旅に出る」と言って、彼が去っていったからだ。有象の言う「少し」がどれほどなのか、睦には分からなかった。
一年が過ぎ、二年が過ぎ、姫が玉のような子を産み母になっても帰って来なかった。
三年目の夏の終わり。明日には山荘を去らねばならない日の朝。
睦はいつものように、短刀を持って社に入った。昨日と同じで誰もいないそこは、ひどく広く感じられた。
睦はいつものように、短刀を娑魔児像の前に置こうとして、その動きを止める。
あったからだ。
昨日までなかったはずのものが、そこにはあったからだ。
汚れているが、それを睦が見間違うはずがなかった。
赤い袋の、肌守り。
睦は信じられない気持ちで、それに手を伸ばした。まばたきをしたら消えてしまうのではないかと思った。だが、消えなかった。
短刀とともに肌守りをぎゅっと握りしめ、睦は祈りも忘れて社を出た。
近くにいたのだと思うと、いてもたってもいられなかった。社の周囲を見回すが、どこにもあの大きな姿はない。
屋敷の中にいるかもしれないと、睦ははしたなくも急ぎ足であちらこちらと探し回る。けれど、見つかりはしなかった。
鹿崎の部屋までたどりつくものの、入ることも声をかけることもためらわれて睦が立ち尽くしていると、
中から、こう、鹿崎が声を投げてきた。
「あやつなら、先ほど社の方へ戻りましたよ」
睦は、ふりだしに戻った。
こんなに胸をはやらせて駆け戻ったすごろくは、睦は初めてだった。
乱れる息もそのままに、彼女は社の中を覗き込む。
大きな背をこちらに向けて横たわっている姿が見えた時、睦の心臓は止まってしまうかと思った。
おそるおそる社の中に入り、ずっと握りしめていた短刀とお守りを床に置いて、睦は彼の背の側で手をついた。
「お帰りなさいまし」
彼が寝ていても良かった。
ただただ、嬉しかった。
縁が切れていなかったことが、本当にもうどうしようもなくただ嬉しかったのだ。
沈黙は、長くはなかった。
「おう、いま帰ったぞ」
ごろり、と。
男は睦の方へと寝返りを打つ。
左の頬にひどく大きな刀傷をこしらえている有象が、そこにはいた。しかし、変わらぬ強いまなざしだった。
随分強い相手とやりあって来たのだと、それを見れば睦もよく分かった。驚きも嘆きもしなかった。そんなことよりも、いまは再会を喜ぶので精一杯だったのだ。
「……お前の旦那より、強い男を探しに行っておった」
笑いながら、有象が言う。
「まあ……見つかりましたか?」
彼は睦の亡くなった夫のことを、直接知っているわけではない。その強さも鹿崎の噂で聞く限りだっただろう。
「いいや、おらぬ。お前の旦那は、どんな男よりも強くてかなわん」
有象が笑うので、睦も「そうですか、夫も喜んでおりましょう」と笑った。
そしてそのまま社で、有象と睦の夫の話をした。睦は短い結婚の頃の話を、有象は鹿崎から聞いた話を持ち寄り語らった。
彼も少しではあるが、故郷の話をしてくれた。
睦にとって、とても幸福な日となった。
同じ日に、鹿崎が睦にこう言った。
「あの愚か者は、獅郎に勝ったと自分が思えるまで、睦殿に何も言わぬ気であろう」
そして続けた。
「睦殿がもし、あの愚か者を憎からず思っているのであれば、面倒を見てはもらえまいか。放っておくと、またどこぞに大槌を担いで走ってゆくか分からぬのでな」
その後──ひっそりと睦と有象は共に火を灯したのだった。
『終』