第6話
最近。
ジェラールがよく現れる。
王宮へ行けばいる。廊下を歩けば会う。休憩室へ行けば、なぜかあとから来る。
婚約者なのだから、それくらい普通なのかもしれない。
でも。
「……また?」
「何だ、その言い方は」
午後。
王宮の中庭にある東屋で、私はジェラールを見上げた。
本日は王太子妃教育の日。午前中に歴史、昼食後に外交儀礼。
そして今は、貴重な休憩時間である。
一人でぼんやりする予定だった。
「殿下、お仕事は?」
「ある」
「では、お仕事なさっては?」
「今は休憩だ」
「殿下が?」
「ああ」
「自主的に?」
「そうだ」
私はじっとジェラールを見る。
銀髪に、淡い青灰色の瞳。いつも通りきちんとした服装。
けれど今日は、侍従も少し離れたところで待っている。
本当に休憩しに来たらしい。
「……熱でもあります?」
「ない」
「具合が悪いとか」
「なぜ休憩するだけで病人扱いされる」
「だって殿下でしょう?」
「どういう意味だ」
「仕事の化身」
「まだ言うのか」
ジェラールがため息をついた。
私は皿から、小さな焼き菓子を取る。
今日は蜂蜜と木の実が入ったものだ。
美味しい。
休憩には甘いもの。
大事である。
「それで」
ジェラールが向かいの椅子へ座った。
「何をしている」
「見れば分かるでしょう?」
「焼き菓子を食べている」
「正解」
「それだけか」
「休憩ですもの」
「本当に何もしないんだな」
「休憩なのに、何をするんです?」
聞き返すと、ジェラールが黙った。
「……殿下?」
「いや」
「まさか」
嫌な予感がする。
「休憩中も書類を読んだりしてませんよね?」
「時々」
「まあ。駄目ですわ」
「なぜ君に叱られる」
「それ、休憩ではありませんもの」
「場所は移動している」
「場所の問題じゃないわ」
私は焼き菓子を置いた。
「休憩というのは、仕事をしない時間です」
「ずいぶん断定するな」
「当たり前です」
「では、何をすればいい」
「何もしなければ?」
「何もしない?」
「はい」
ジェラールの顔が、本気で困った。
私は少し驚く。
「……殿下」
「何だ」
「何もしないの、苦手?」
「必要性が分からない」
「重症ね」
「病気みたいに言うな」
でも、少しだけ分かる気もした。
この人は幼い頃から王太子だ。
勉強、公務、剣術、外国語、帝王学。
何もしない時間なんて、ほとんど持たずに生きてきたのかもしれない。
「では」
私は空いているカップを指した。
「紅茶を飲んでください」
「それだけか?」
「それだけ」
ジェラールが侍女に紅茶を淹れてもらい、一口飲む。
「次は?」
「ありません」
「……」
「だから休憩だってば」
「落ち着かないな」
「五分くらい耐えてください」
「耐えるものなのか?」
「殿下の場合は」
私はもう一つ焼き菓子を取った。
「そのうち慣れますわ」
「君は慣れすぎだ」
「才能です」
「誇るところなのか」
「もちろん」
しばらく、二人で黙っていた。
風が吹く。
庭の木々が揺れ、遠くで鳥が鳴いている。紅茶の香りと、柔らかな日差し。
私は椅子の背にもたれた。
気持ちいい。
何も起こらない。
何も達成しない。
でも、こういう時間が私は好きだ。
「……悪くないな」
不意にジェラールが言った。
「でしょう?」
「ああ」
「何もしないのも、ちゃんと休憩なんです」
「それなら分かる」
「前は分からなかったでしょう?」
「君に付き合わされて、少しはな」
私は彼を見る。
最近、こういうことが増えた。
以前なら否定していたことも、一度考えてから受け入れる。
「殿下」
「何だ」
「変わりましたね」
「俺が?」
「少し」
「君のせいだろう」
「人のせいにしないでください」
「いい意味で言っている」
それ。
ずるい。
私は誤魔化すように紅茶を飲んだ。
「王太子妃教育の見直しも、思った以上に効果が出ている」
ジェラールが続けた。
「そうなの?」
「ああ。女官たちからも、王宮内の仕事の分担を見直せないかと意見が上がってきた」
「まあ。いいことですわね」
「君は驚かないんだな」
「楽になるならいいでしょう?」
「簡単に言うな」
「難しくする必要あります?」
「……ないかもしれないな」
ジェラールが少し笑う。
まただ。
この人、最近よく笑う。
ゲームの中では、もっと冷たい印象だった気がする。
でも今、私の前にいるジェラールは、案外普通の二十代の男性に見えた。
「何だ」
「何が?」
「じっと見ている」
「殿下も人なんだなと思って」
「君は本当に俺を何だと思っている」
「王太子」
「人だ」
「知ってます」
「絶対に忘れていただろう」
「少しだけ」
ジェラールが呆れる。
その時、侍従が東屋の外から声をかけた。
「殿下。そろそろ次のお時間でございます」
「ああ」
ジェラールが時計を見る。
そして。
「もうか」
小さく呟いた。
私は聞き逃さなかった。
「殿下」
「何だ」
「休憩、気に入りました?」
「……悪くなかった」
「でしょう?」
何となく嬉しくなって、私は笑った。
「また休めばいいんですよ」
「また?」
「はい」
「君と?」
「一人でも」
「そうか」
なぜか、少しだけ残念そうに見えた。
気のせいだろうか。
「では、明後日もこの時間に休む」
「宣言すること?」
「予定に入れた方が確実だ」
「真面目ね」
「君ほど気楽にはできない」
ジェラールが立ち上がる。
私は焼き菓子を一つ持ち上げた。
「次はもっと美味しいのを用意しておきます」
ジェラールの足が止まった。
「君も来るのか?」
「え?」
「明後日」
「ああ」
深く考えずに答える。
「暇なら」
「予定は?」
「午前中だけです」
「なら来い」
「命令?」
「頼んでいる」
「殿下が?」
「何だ」
「珍しい」
「来るのか、来ないのか」
「行きますよ」
「そうか」
今度こそ。
ジェラールは少しだけ満足そうに出ていった。
私はその背中を見る。
「……何なのかしら」
近くにいたエマが、なぜかものすごく微妙な顔をしていた。
「エマ」
「はい」
「何?」
「何も」
「絶対何かある顔」
「ございません」
「言って」
「では、一つだけ」
エマは少し間を置いた。
「殿下は、アデライード様とお休みになりたいのでは?」
「……私と?」
「はい」
「どうして?」
「そこからでございますか」
エマが深いため息をついた。
失礼ね。
◇
翌日。
王宮へ行くと、ジェラールはいなかった。
別に。
探していたわけではない。
本当に。
ただ、いつもどこかで顔を見るから、今日は見ないなと思っただけだ。
「殿下は本日、北棟で会議でございます」
エマが言った。
「聞いてないけど」
「お顔に書いてありましたので」
「何が?」
「殿下はどこかしら、と」
「書いてないわよ」
「左様でございますか」
絶対に信じていない。
「別に会いたいわけじゃないし」
「はい」
「明日会うし」
「はい」
「約束してるから」
「はい」
「……何、その返事」
「何も」
嫌な感じ。
私は王太子妃教育の教本を開いた。
今日は地方慣習。
ちゃんと勉強する。
十分ほど経った頃。
ふと、明日の菓子のことを考えた。
ジェラールは甘すぎるものをあまり食べない。前の蜂蜜の焼き菓子は食べていたし、木の実も嫌いではなさそう。
なら、果物のタルト?
それなら紅茶は少し渋めの方がいいだろうか。
「……アデライード様」
「何?」
「ずいぶん楽しそうですね」
「何が?」
「明日のご休憩が」
「そう?」
「はい」
私は教本へ視線を戻した。
何となく、認めたくない。
「お菓子を食べられるからよ」
「いつでも召し上がっています」
「王宮のお菓子は家と違うもの」
「ご自宅から持参されるおつもりでしたよね?」
「……」
エマ。
最近強くなったわね。
◇
翌日。
約束の時間。
私は東屋で待っていた。
今日のお菓子は、小さな林檎のタルト。
料理人に頼んで、甘さを少し控えめにしてもらった。
もちろん、私も食べたかったからだ。
ジェラールのためだけではない。
本当に。
たぶん。
「待たせたか」
声がして、振り返る。
「少し」
「時間前だぞ」
「私が早く来ただけ」
「なら待っていないだろう」
「細かい」
ジェラールが向かいへ座る。
そして、テーブルのタルトを見た。
「今日は林檎か」
「嫌い?」
「いや」
「じゃあどうぞ」
一つ渡す。
ジェラールが口にして、少し目を細めた。
「……美味いな」
「でしょう?」
なぜか、私が褒められたみたいで嬉しい。
「甘すぎない」
「殿下、甘いものはそこまでお好きじゃないでしょう?」
ジェラールの手が止まった。
「覚えていたのか」
「何となく」
「そうか」
それだけなのに。
少し嬉しそうな顔をする。
何なの。
本当に。
「アデライード」
「何?」
「前に、俺自身が嫌なのかと聞いたな」
「ああ」
婚約を解消したい理由の話だ。
「覚えてるわ」
「俺は」
少しだけ間があった。
「君自身を、嫌だと思ったことはない」
「……?」
「むしろ最近は、君といる時間を楽しいと思っている」
一瞬、意味を理解するのが遅れた。
「あ」
「何だ」
「それって、結構な褒め言葉では?」
「そう言っている」
耳が熱い。
困る。
こういうの。
「……殿下」
「何だ」
「そういうこと、急に言うのはよくないですよ」
「なぜ」
「心の準備が」
「何の準備だ」
「……よく分からないけど」
「君が言ったんだろう」
「まあ、そうですけど」
私はタルトを食べる。
美味しい。
でも、さっきより味が分からない。
「私は」
何となく。
言ってしまった。
「殿下が王太子じゃなかったら」
「……ああ」
「結構、好きかもしれません」
言った。
言ってから、気づいた。
「……」
「……」
二人とも黙る。
まずい。
「やっぱり、今のなし」
「なしにはしない」
「忘れて」
「断る」
「殿下」
「聞いた」
「聞かなかったことに」
「しない」
ジェラールの口元が少し上がる。
「何笑ってるんですか」
「君が珍しく困っているから」
「まあ、性格が悪いこと」
「誰かさんの影響でね」
「……もう帰る」
「まだ休憩時間だ」
「休憩終わり」
「自分で休めと言っただろう」
「今は何かしたいの」
「逃げたいだけだろう」
図星。
私は立とうとする。
けれど。
「アデライード」
名前を呼ばれて、足が止まった。
「何?」
「俺が王太子でなければ、か」
「忘れてって言ったでしょう」
ジェラールは少し考えるようにこちらを見た。
それから。
「なら、その条件がなくなるくらいには、俺を知ればいい」
「……はい?」
「俺は王太子だ。それは変わらない」
淡い青灰色の瞳が、まっすぐこちらを向く。
「だから、王太子である俺が本当に嫌なのか。それとも、王妃になる未来が嫌なのか。君自身で確かめればいい」
「簡単に言いますね」
「君がいつも言っているだろう。必要なことだけ考えればいいと」
「こういう時だけ使わないでください」
ジェラールが笑った。
完全に楽しんでいる。
「殿下」
「何だ」
「最近、私で遊んでません?」
「気のせいだ」
「絶対、気のせいじゃない」
「君の反応が面白いからな」
「ほら、やっぱり!」
東屋の外で、エマが顔を伏せている。
たぶん笑っている。
私は椅子へ座り直した。
腹が立つ。
本当に腹が立つ。
なのに、胸の奥が少しだけ落ち着かない。
困った。
このままだと。
婚約を解消したい理由が。
王妃になりたくない。
それだけになってしまう。




