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王妃なんて絶対に嫌です!~前世で働きすぎた悪役令嬢は、今世こそぐーたら暮らしたい~  作者: 黒猫と珈琲


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5/10

第5話

 ついに。


 この日が来た。


 私は王宮の廊下、その柱の陰から少し離れた場所にいる少女を見つめていた。


 淡い栗色の髪。大きな緑色の瞳。小柄で華奢で、高位貴族の令嬢たちとは少し違う、素朴で柔らかな雰囲気。


 間違いない。


「あの子よ」

「何がでございますか」


 隣でエマが聞く。


 私は声を潜めた。


「ヒロイン」

「ひろいん?」

「私を救ってくれる人」

「どなたですか、あのご令嬢」

「ソフィー・ルノー男爵令嬢」


 名前まで覚えている。


 前世で遊んだ乙女ゲームの主人公。


 下級貴族の娘でありながら優秀な成績を認められ、王宮主催の若者向け講習会へ参加する。


 そこでジェラールと出会い、やがて恋に落ちる。


 そして、悪役令嬢アデライードとの婚約は破棄される。


「来たわ」

「何がですか」

「自由よ」

「はい?」


 私は思わず両手を握った。


 王太子妃教育。


 社交。


 公務。


 その先にある、王妃という未来。


 そこから解放される可能性が、今まさに目の前を歩いている。


「アデライード様」

「何?」

「お顔が怖いです」

「喜んでいるのよ」

「悪巧みをしているようにしか見えません」

「まあ。失礼ですこと」


 私は柱の陰から出た。


 よし。


 まずは、ヒロインと仲良くなろう。


     ◇


「ソフィー・ルノー様?」


 声をかけると、少女が勢いよく振り返った。


「は、はい!」


 そして私の顔を見た瞬間、固まった。


 あ。


 そうだった。


 ゲームのアデライードは怖かった。


 公爵令嬢で、王太子の婚約者。しかも黙っていれば少し威圧感のある顔。


 下級貴族からすれば、突然話しかけられるだけで緊張するのだろう。


「初めまして。アデライード・ベルナールですわ」

「も、もちろん存じております!」

「そう?」

「はい!」


 声が大きい。


 かなり緊張している。


「そんなに固くならなくてよろしくってよ」

「はい!」

「楽にして」

「はい!」


 全然楽になっていない。


 私はエマを見る。


 エマが首を横に振った。


 どうやら私のせいらしい。


「今日から王宮の講習会に参加なさるのでしょう?」

「はい。地方行政と王国史を学ばせていただくことになりました」

「優秀なのね」

「そ、そんな」


 ソフィーの頬が赤くなる。


 可愛い。


 なるほど。


 ヒロインだ。


 私はじっと彼女を見る。


「……あの」

「何?」

「何か、私の顔についておりますでしょうか」

「いいえ」


 私は満足して頷いた。


「可愛いなと思って」

「えっ」


 ソフィーの顔がさらに赤くなる。


 エマが小さくため息をついた。


「アデライード様」

「何?」

「初対面のご令嬢を困らせてはいけません」

「褒めただけよ」

「距離感というものがございます」

「まあ。難しいですこと」


「ご、ご心配なく! 嬉しいです!」


 ソフィーが慌てて首を振った。


 素直で明るくて、少し緊張しやすい。


 やはり、いい子だ。


「困ったことがあったら私に言ってね」

「よろしいのですか?」

「もちろん」

「ありがとうございます」


 ソフィーが笑う。


 よし。


 第一段階は成功。


「ところで」

「はい」

「ジェラール殿下には、もうお会いになって?」

「……王太子殿下、ですか?」

「ええ」

「いいえ。まだ遠くからお姿を拝見しただけです」


 まだ。


 私は心の中で拳を握った。


 なら。


 会わせればいい。


     ◇


「アデライード様」

「何?」

「先ほどから、なぜソフィー様を王太子殿下の執務室方面へ誘導しているのですか」

「偶然ですわ」

「三回曲がりましたが」

「王宮は広いもの」

「先ほど、殿下がおいでになる場所を侍従に確認されていましたね」

「念のためよ」

「何の念ですか」


 エマが冷たい。


 でも私は諦めない。


「アデライード様、本当にこちらでよろしいのでしょうか」


 隣を歩くソフィーも、不思議そうにしている。


「ええ。この先の庭園が綺麗なの」

「庭園を見に?」

「そう」


 嘘ではない。


 本当に庭園はある。


 そして、そこをジェラールが通る予定だ。


 完璧。


「あ」


 来た。


 向こうから銀髪の男性が歩いてくる。


 侍従を一人連れている。


 ジェラール。


 私は瞬時にソフィーの背中を軽く押した。


「きゃっ」

「アデライード様!?」


 ソフィーが一歩前へ出る。


 ちょうど、ジェラールの前。


 これ。


 これよ。


 ゲームならここで音楽が流れる。


 風が吹く。


 目が合う。


 恋が始まる。


 私は期待に満ちて二人を見た。


「ルノー男爵令嬢か」

「は、はい! 王太子殿下におかれましては、ご機嫌麗しく――」

「そんなに緊張しなくていい」

「はい!」

「講習会に参加していると聞いた」

「はい。大変貴重な機会をいただき、ありがとうございます」

「ああ。励むといい」

「はい!」


 ジェラールが頷く。


 ソフィーも頭を下げる。


 そして。


 終わった。


「……」


 あれ?


 ジェラールはすでに私を見ている。


「アデライード」

「はい?」

「なぜ君は柱の後ろに隠れている」

「隠れてませんわ」

「半分隠れている」

「たまたまです」

「出てこい」

「はい」


 仕方なく出る。


 ジェラールが訝しげに私を見る。


「何をしていた」

「庭園を見に来ました」

「君が?」

「何ですか、その反応」

「この時間は王太子妃教育ではなかったか」

「休憩中です」

「ずいぶん遠くまで来たな」

「散歩ですわ」

「普段、歩くだけで疲れたと言う君が?」

「健康のためです」

「急に健康に目覚めたのか」

「人は変わるものですわ」


 鋭い。


 この男。


 私の行動を理解し始めている。


「あ、あの」


 その間、ソフィーは完全に置いてけぼりだった。


「ごめんなさい」


 私は慌てて振り返る。


「ソフィー様。こちらジェラール殿下」

「知っています」

「そうよね」


 何を言っているんだ、私は。


「殿下。こちらソフィー・ルノー男爵令嬢ですわ」

「さっき話した」

「そうでした」


 ジェラールの視線が冷たい。


 おかしい。


 出会わせるところまでは成功したのに、恋が始まる気配が一切ない。


 でも。


 最初はこんなものかもしれない。


「ソフィー様」

「はい」

「お茶でもどう?」

「これからですか?」

「ええ」


 私はジェラールを見る。


「殿下もご一緒にいかが?」

「なぜ俺も」

「お時間あります?」

「ない」

「では作って」

「君は王太子の予定を何だと思っている」

「調整可能なもの」

「違う」


 即答された。


 仕方ない。


 今日は諦めよう。


     ◇


 翌日。


「ソフィー様。こちらのお菓子、わたくしのおすすめなの」

「はい。とても美味しいです」

「でしょう?」


 王宮の休憩室。


 ソフィーと二人でお茶をする。


 まずは情報収集だ。


「ソフィー様は、どんな男性が好き?」

「ぶっ」


 ソフィーが紅茶を噴きかけた。


「大丈夫?」

「だ、大丈夫です!」

「急だった?」

「かなり」

「ごめんなさい」


 私は焼き菓子を食べる。


「それで?」

「聞くんですね」

「気になるもの」

「……特に考えたことがありません」

「たとえば、銀髪とか」

「髪色ですか?」

「背が高いとか」

「高すぎると首が疲れそうです」

「淡い青灰色の瞳とか」

「ずいぶん具体的ですね」


 だめだ。


 全然食いつかない。


「王族とか」

「無理です」

「え」


 早い。


 私は焼き菓子を置いた。


「どうして?」

「大変そうですもの」


 ……ん?


 何だろう。


 急に親近感が湧いた。


「分かる」

「ですよね?」

「分かるわ」

「行事も多そうですし」

「多いの」

「人前にも出ますよね」

「出るわ」

「気を抜けなさそうです」

「そうなのよ!」


 思わず身を乗り出した。


 ソフィーも身を乗り出す。


「私は小さな家で、好きな人と静かに暮らせたら十分です」

「いいわね」

「庭で野菜を育てたり」

「素敵」

「休みの日は朝寝坊したり」

「最高」


 二人で頷く。


 そして。


 私は気づいた。


「……駄目じゃない」

「何がですか?」

「何でもない」


 どうしよう。


 ヒロイン。


 王太子に興味がない。


 ゲームと違う。


 いや、ゲームだって最初からジェラール一筋だったわけではない。


 選択肢によって攻略対象は変わる。


 そうだ。


 ジェラールルートに入れればいい。


「ソフィー様」

「はい」

「王太子も悪くありませんことよ」

「そうでしょうか」

「顔はいいし」

「それは分かります」

「真面目だし」

「はい」

「話も聞いてくれるし」

「そうなのですね」

「頭も柔らかいし」

「よくご存じですね」

「まあ、婚約者なので」


 ソフィーがじっと私を見る。


「アデライード様」

「はい」

「殿下のこと、お好きなんですね」

「え?」


 今度は私が止まった。


「何で?」

「今、ずっと褒めていらしたので」

「違うわよ」

「違うのですか?」

「これは客観的評価ですわ」

「そうでしょうか」

「そうよ」


 危ない。


 妙な誤解をされた。


「私はむしろ、あなたと殿下が仲良くなればいいと思っているの」

「……はい?」


 ソフィーが固まった。


 しまった。


 言った。


「アデライード様」

「はい」

「殿下の婚約者でいらっしゃいますよね?」

「今はね」

「今は?」

「将来的には分からないでしょう?」

「分からないものなのですか?」

「人生、何があるか分からなくってよ」


 ソフィーが困ったように眉を下げる。


「私は、人の婚約者を好きになるつもりはありません」

「そこは気にしなくていいのよ」

「気にします」

「真面目ね」

「普通だと思います」


 エマにも似たようなことをよく言われる。


「それに」


 ソフィーが少し笑った。


「王太子殿下より、アデライード様とお話ししている方が楽しいです」

「……私?」

「はい。最初は怖い方だと思っていました」

「やっぱり?」

「少しだけ」

「まあ。正直ですこと」

「でも、お話ししてみたら全然違いました」


 ソフィーは柔らかく笑った。


「私、アデライード様ともっと仲良くなりたいです」


 可愛い。


 とても可愛い。


「……あなた、本当にいい子ね」

「また急ですね」


 そうして。


 私は本来のヒロインと友達になった。


 婚約破棄は。


 一歩も進んでいない。


     ◇


 数日後。


「アデライード」


 王宮の廊下を歩いていると、ジェラールに呼び止められた。


「殿下」

「少しいいか」

「長い話?」

「なぜ最初にそれを聞く」

「予定を立てたいので」

「十分でいい」

「ならどうぞ」


 近くの小さな応接室へ入る。


 扉が閉まった瞬間、ジェラールが私を見る。


「聞きたいことがある」

「はい」

「ルノー男爵令嬢に、俺を勧めているそうだな」


 早い。


 情報が早い。


「誰から聞いたんです?」

「本人だ」


 ソフィー。


 いや。


 たぶん普通に話しただけだ。


「勧めてるというほどでは」

「では何だ」

「おすすめ?」

「俺は菓子か何かか」

「おすすめの王太子」

「国に一人しかいない」


 確かに。


「なぜそんなことをする」

「仲良くなったらいいかなって」

「なぜ」

「相性よさそうですし」

「どこを見てそう思った」


 ゲームです。


 とは言えない。


「直感?」

「疑問形で答えるな」


 ジェラールの眉間にしわが寄る。


「アデライード」

「はい」

「俺とルノー男爵令嬢が親しくなれば、君はどうするつもりだ」


 来た。


 私はにっこり笑った。


「応援しますわ」


 ジェラールが黙った。


「……本気か?」

「ええ」

「俺は君の婚約者だぞ」

「知っています」

「それなのに、別の女性との仲を応援すると?」

「はい」


 ジェラールが深く息を吐いた。


「そのために、俺と別の女性をくっつけようとしている?」

「そういうことになります」

「つまり君は、婚約を解消したいのか」

「できれば」

「穏便に?」

「できれば」

「誰も傷つかない形で?」

「理想です」


 静かだ。


 ものすごく静かだ。


「アデライード」

「はい」

「一つ聞く」

「何でしょう」

「なぜ俺が、ルノー男爵令嬢を好きになる前提なんだ?」


 私は固まった。


「それは……ソフィー様、可愛いでしょう?」

「そうだな」

「素直だし」

「ああ」

「優秀だし」

「そう聞いている」

「ほら」

「それが何だ」

「好きにならない?」

「ならない」


 即答。


「……まだ会ったばかりだから?」

「そういう問題ではない」

「もう少し話したら?」

「なぜ君がそこまで勧める」

「可能性を広げようと思って」

「いらない」


 強い。


「でも」

「アデライード」


 ジェラールが一歩近づいた。


 私は思わず一歩下がる。


「何?」

「もう一度、同じことをしたら」

「したら?」

「次は一時間かけて話す」

「……」


 脅しだ。


 これは明確な脅し。


「まあ。なんて恐ろしい」

「ならやめろ」

「卑怯ですわ」

「何とでも言え」


 ジェラールはそう言って扉へ向かう。


「殿下」

「何だ」

「本当にソフィー様、なし?」

「なしだ」

「少しも?」

「ない」


 そこまで言って、ジェラールが振り返った。


「それより」

「はい?」

「なぜそんなに、俺と他の女性をくっつけたがる?」

「だから婚約を――」

「それだけか?」


 言葉が止まった。


 ジェラールの淡い青灰色の瞳が、まっすぐ私を見ている。


 さっきまでの呆れた顔ではない。


 少しだけ、真剣だった。


「俺と結婚したくない理由は、本当に王妃になりたくないからだけなのか」


 私は答えられなかった。


 考えたことがなかったから。


 私にとって、ジェラールとの結婚は王妃になることと、ほとんど同じだった。


 公務。


 責任。


 忙しい生活。


 それが嫌で。


 だから結婚も嫌だと思っていた。


 でも。


 ジェラール本人が嫌なのかと聞かれたら。


「……殿下のことは、嫌いじゃないです」

「そうか」

「むしろ、思っていたより話しやすいし」

「思っていたより、は余計だ」

「でも王妃は嫌」

「そこはぶれないな」

「大事なので」


 ジェラールがまた息を吐いた。


 今度は、少しだけ笑っている。


「分かった」

「何が?」

「いや」

「気になる」

「君が気にする必要はない」


 そう言って、ジェラールは部屋を出ていった。


 私は一人残される。


「……何だったの?」


 本当に分からない。


 ただ一つ、分かったことがある。


 ヒロインは現れた。


 ヒロインとは仲良くなった。


 ジェラールとも出会わせた。


 なのに。


 婚約破棄への道は、なぜか前より遠くなった気がする。


「……おかしいわね」


 こんなはずではなかったのに。


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