第4話
人間には、どうしても合わない相手がいる。
これは仕方がない。
食べ物に好き嫌いがあるように、人にだって相性がある。
それなのに。
「……エマ」
「はい」
「さっきから、そのハンカチの同じところをずっと畳んでない?」
エマの手が止まった。
朝食を終えた私は、自室のソファで優雅に紅茶を飲んでいた。
本日の予定は午後から。
つまり、午前中は自由。
素晴らしい。
私はこの時間を最大限に満喫するつもりだったのだが、先ほどからエマの様子がおかしい。
「何かあった?」
「いいえ」
「あるわね」
「ございません」
「では、そのハンカチを見せて」
「なぜでございますか」
「たぶんもう四回くらい畳んでいるから」
エマが手元を見る。
綺麗に四つ折りされた白いハンカチ。
それを見て、少しだけ気まずそうな顔をした。
「……申し訳ございません」
「謝ることじゃないでしょう」
「仕事中ですので」
「だから?」
「私情を持ち込むべきではございません」
出た。
真面目な人のやつ。
私は紅茶を置いた。
「エマ」
「はい」
「座って」
「ですが」
「主人命令ですわ」
エマが黙った。
強い。
主人命令。
便利だ。
これは今後も適度に使おうと思う。
「……失礼いたします」
エマが向かいの椅子へ腰を下ろす。
もちろん、背筋はぴんと伸びたまま。
座っていても侍女だった。
「それで?」
「大したことではございません」
「大したことかどうかは、聞いてから私が決めるわ」
「アデライード様がお決めになるのですか?」
「ええ。今決めました」
「横暴でございます」
「おほほほ。公爵令嬢ですもの」
「そこだけ急に悪役令嬢らしくなさらないでください」
エマがほんの少し笑った。
よし。
さっきよりまし。
「実は」
少し迷ってから、エマが話し始めた。
「王宮に、以前一緒に働いていた侍女がおりまして」
「うん」
「昨日、久しぶりに会いました」
「仲が悪いの?」
「……悪い、と言うほどでは」
その言い方。
たぶん悪い。
「昔から、何かと比べられることが多かったのです」
「誰と?」
「その方と私が、です」
二人は同じ時期に侍女として働き始めたらしい。
年齢も近く、仕事を覚える時期もほとんど同じ。
だから周囲が勝手に比べた。
どちらが優秀か。どちらが先に上級侍女になるか。誰に仕えることになるか。
「その方自身にも、よく言われました」
「何を?」
「あなたは運がいい、と」
エマの声が少しだけ小さくなる。
「公爵家のご令嬢付きになれて羨ましい。自分ならもっと上手くやれるのに、と」
「……へえ」
私は紅茶のカップを置いた。
私のエマに何を言っているのかしら。
いや。
落ち着こう。
「昨日も?」
「はい」
「何て?」
「王太子妃になられる方に仕えられるのだから、将来は安泰ね、と」
「私は王太子妃になる予定ないけど」
「そこは今、置いておいてください」
「はい」
怒られた。
「それで?」
「私が恵まれているだけだと」
「なるほど」
「それくらいのことで気にする方がおかしいのです」
エマは淡々と言った。
でも、気にしているからハンカチを四回も畳んだのだろう。
「エマは、その人のこと好き?」
「……」
「一緒にいて楽しい?」
「……いいえ」
「また会いたい?」
「いいえ」
今度は早かった。
私は頷く。
「では、会わなくてよろしくってよ」
「……はい?」
エマが私を見る。
「必要がないなら、会わなければいいのよ」
「ですが、昔からの知人です」
「だから?」
「顔を合わせることもございます」
「その時は挨拶すれば?」
「それだけでよろしいのですか?」
「何でそれ以上しなきゃいけないの?」
エマが困ったような顔になる。
「仲良くしなければ角が立ちます」
「無理に仲良くしたら、エマが疲れるでしょう」
「それは……」
「だったら礼儀だけ守ればいいじゃない」
挨拶する。
必要な話はする。
仕事なら協力する。
それで十分だ。
「分かり合えない人と、無理に分かり合う必要なんてないわ」
エマが静かにこちらを見る。
私は焼き菓子を一つ取った。
「嫌いな人に使う時間なんて、一秒でももったいないわ」
「一秒、でございますか」
「一秒よ」
「ずいぶん短いですね」
「だって、その人のことを考えて嫌な気持ちになる十分があったら、美味しいお菓子でも食べた方がいいでしょう?」
私は焼き菓子を持ち上げた。
「このバターの香りを嗅いで」
「結構です」
「美味しいのに」
「存じております」
エマが小さく笑った。
今度は、はっきり分かった。
「それに、その人があなたを嫌うのも自由でしょう?」
「……自由、ですか」
「ええ。人の気持ちは止められないもの」
私は焼き菓子を半分に割る。
「だからエマも、その人を好きになる必要はないわ」
「嫌っていても?」
「別にいいんじゃない?」
エマが少し驚いた顔をした。
「でも、意地悪は駄目よ」
「もちろんです」
「悪口を広めるのもなし」
「いたしません」
「仕事の邪魔もなし」
「当然です」
「でしたら、それで十分ですわ」
私は残りの焼き菓子を口に入れた。
「礼儀だけ守って、あとは距離を取ればいいのよ」
エマはしばらく何も言わなかった。
やがて。
「……それで、いいのでしょうか」
「いいの」
「ですが」
「誰かに嫌われないために、エマが毎回傷つかなきゃいけない理由って何?」
そこで、エマの顔が止まった。
「あ」
まただ。
ちょっと真面目なことを言った。
「今のは忘れて」
「なぜでございますか」
「なんとなく」
「忘れません」
「そう」
それならまあ、いいか。
◇
午後。
私は王宮へ来ていた。
本日は王太子妃教育の一環として、王宮で開かれる小規模な茶会へ参加することになっている。
小規模。
大変便利な言葉だ。
三十人いる。
「これのどこが小規模なの?」
「正式な夜会に比べれば」
「比較対象がおかしいのよ」
「笑顔でお願いいたします」
「笑ってるわ」
「口元だけです」
「まあ。難しい注文ですこと」
そんなことを話していると。
「あら。アデライード様」
若い令嬢が近づいてきた。
淡い金色の髪。赤いドレス。顔には完璧な笑顔。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
「最近、王太子妃教育の内容をずいぶん変えていらっしゃるそうですね」
来た。
嫌味だ。
「少し見直しているだけですわ」
「まあ」
令嬢が扇を開く。
「さすがですわね。私はてっきり、厳しい教育がお嫌で減らしていらっしゃるのかと」
合ってる。
かなり合ってる。
「ええ。嫌ですもの」
「……え?」
「厳しいの」
令嬢が固まった。
たぶん否定されると思っていたのだろう。
「でも、必要なものは学んでいますわ」
「ですが、王太子妃になる方なら、人一倍努力なさるべきでは?」
「どうして?」
「どうしてって……」
「必要なことをできるようになれば十分ではなくて?」
「高い地位には、それだけの覚悟が必要ですわ」
「そうですね」
「でしたら」
「だから必要なことはします」
令嬢が止まった。
私はにこりと笑った。
「でも、必要のない苦労まで背負うつもりはありませんの」
「それでは怠惰だと思われても仕方ありませんわよ」
「そうかもしれませんね」
「……お気になさらないの?」
「あなたが私を怠惰だと思うことを?」
「ええ」
私は考える。
一秒。
「別に」
「……」
「私を嫌うのは、あなたの自由ですもの」
令嬢が目を見開いた。
「でも、そのために私の時間まで使わせないでくださいな」
沈黙。
あ。
少し言いすぎた?
でもまあ、いいか。
「では」
私は軽く会釈した。
「せっかくのお茶会ですもの。お互い楽しく過ごしましょう」
そして歩き出す。
三歩ほど進んだところで、エマが後ろからついてきた。
「アデライード様」
「何?」
「先ほどのお相手は、マルグリット伯爵令嬢でございます」
「そう」
「社交界でも顔が広い方です」
「へえ」
「……それだけですか?」
「他に何かある?」
エマが黙った。
「ありません」
「でしょう?」
今日は菓子がたくさんある。
せっかく来たのだ。
嫌味を言ってくる人に使う時間などない。
「あれ、美味しそう」
「アデライード様」
「今度は何?」
「……いえ」
エマが小さく笑った。
「私も、あちらの菓子は美味しそうだと思います」
「でしょう?」
進歩だ。
◇
「ずいぶん楽しそうだな」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、ジェラールが立っていた。
「殿下」
「先ほどから見ていた」
「いつから?」
「伯爵令嬢に喧嘩を売ったあたりから」
「売ってませんわ」
「そうか?」
「平和的に会話を終わらせただけです」
「相手はずいぶん固まっていたが」
「気のせいですわ」
私は菓子を皿に取り、ジェラールはその横へ並んだ。
「君は、嫌われるのが怖くないのか?」
不意に聞かれた。
「怖くないわけじゃありませんよ」
「そうなのか」
「もちろん。できるなら好かれたいです」
私は菓子を一つ選ぶ。
「でも、全員に好かれるのは無理でしょう?」
「ああ」
「だったら、そこに時間を使いすぎるのはやめました」
ジェラールの視線がこちらへ向く。
「嫌われないことばかり考えていたら、疲れますもの」
「……君らしいな」
「褒めてます?」
「今回は褒めている」
「まあ。珍しいこともあるのね」
「君は俺を何だと思っている」
「仕事の化身」
「まだ言うのか」
ジェラールがため息をついた。
その顔を見て、私は少し笑う。
「でも殿下」
「何だ」
「私のこと、結構好きでしょう?」
ジェラールが止まった。
あれ。
冗談のつもりだったのに。
「……なぜそうなる」
「だって、よく話しかけてくるから」
「婚約者だからだ」
「なるほど」
そうだった。
忘れていた。
「残念」
「何がだ」
「婚約者じゃなければ、私の魅力ということになったのに」
「……」
「殿下?」
「君は本当に」
「はい」
「自分に都合よく生きているな」
「ありがとうございます」
「褒めていない」
「またまた」
ジェラールは呆れた顔をしている。
けれど、少しだけ耳が赤いような気がした。
たぶん。
気のせいだろう。
私は目の前の菓子を一つ取った。
嫌な人とは、必要以上に関わらない。
話していて楽しい人とは、もう少し話す。
そして、美味しいものを食べる。
今日はそれで十分だった。




