第3話
王宮という場所は、広い。
とにかく広い。
廊下は長いし、階段は多いし、扉もやたらと重い。
私は朝からすでに疲れていた。
「まだ始まってもいないのですが」
「ここまで来るだけで十分働いた気がするわ」
「馬車でいらしただけです」
「心の準備が大変だったの」
「便利な言葉でございますね」
今日は、王太子妃教育の内容を見直す日だ。
先日の話し合いで、ジェラールは本当に教育内容を精査すると言った。
正直なところ、半分くらいは社交辞令だと思っていた。王太子が、昔から続いている教育をそんな簡単に変えるはずがない。
そう思っていたのだが。
「こちらへ」
案内された部屋には、すでに何人もの人が集まっていた。
王太子ジェラール。王宮付きの礼法教師。歴史学の教師。外交儀礼を担当する老侯爵。そして、王太子妃教育全体を監督しているらしい年配の伯爵夫人。
重い。
空気が重い。
私は早くも帰りたくなった。
「アデライード、座れ」
「まあ。今ならまだ帰れませんこと?」
「まだ何も始まっていない」
「だからこそ、今なら間に合いますわ」
「座れ」
「はい」
私は素直に椅子へ座った。
こういう時は逆らわない。
無駄に体力を使うから。
机の上には、分厚い冊子が何冊も積まれている。
嫌な予感しかしない。
「こちらが現在の王太子妃教育の全課程です」
伯爵夫人が言った。
私は冊子を見る。
そして、もう一度見る。
「こちら、全部ですの?」
「当然です」
「何年かかるんです?」
「通常は数年かけて学びます」
「ですよね」
一番上の冊子を開いた。
外交儀礼。各国史。宮廷作法。舞踏。慈善事業。王宮会計。晩餐会の席次。季節ごとの祭礼。王族としての手紙の書式。国内各地方の慣習。王家の系譜。
うん。
多い。
「こちらを王太子妃一人で、すべて?」
「学ぶのです」
「学んだうえで?」
「必要に応じて判断します」
「なるほど」
そこまでは分かる。
問題は。
「では、この辺りは?」
私は別の頁を指した。
「『王宮の花器配置における季節ごとの様式』?」
「王太子妃として最低限の教養です」
「最低限」
「はい」
「花瓶の置き方が?」
「伝統でございます」
来た。
伝統。
便利な言葉、その二。
「では、この『王族女性の朝の装いにおける宝石選定』は?」
「それも必要です」
「何のために?」
「王家の威厳を保つためです」
「朝から?」
「朝からです」
私はそっと冊子を閉じた。
「ジェラール殿下」
「何だ」
「わたくし、帰ってもよろしくって?」
「だめだ」
「まあ、残念ですこと」
伯爵夫人が眉をひそめる。
「アデライード様。王族とは、己を律し、国のために身を尽くすものです」
「身を尽くす」
「ええ」
「体調が悪くても?」
「責務がある以上、時には耐えるべきこともございます」
「まあ。それは嫌ですわ」
思わず口から出た。
部屋が静かになる。
ジェラールが額を押さえた。
「アデライード」
「だって嫌でしょう?」
「言い方を選べ」
「では……わたくし、その考えには賛同いたしかねますわ」
「急にそれらしくなったな」
「こちらの方がお好みで?」
「そういう問題ではない」
難しい。
伯爵夫人は表情を変えなかった。
「高位にある者ほど、自らを律するものです」
「それは分かります」
私は頷いた。
「でも、倒れるまで我慢するのは違うでしょう?」
伯爵夫人が少し黙る。
私は冊子を開き直した。
「頑張ることが悪いとは思っていません。でも、必要なのは苦労することではなく、きちんと役目を果たすことですよね?」
ジェラールがこちらを見る。
私は一冊の冊子を持ち上げた。
「たとえば王宮会計。これは必要だと思います」
「ほう」
会計を担当しているらしい男性が、少し身を乗り出した。
「王太子妃が数字をすべて処理する必要はなくても、お金がどう動いているのか分からなければ判断できませんもの」
「その通りです」
「外交儀礼も、地方の慣習も必要。でも」
私は別の頁を開いた。
「花器配置まで、わたくしが覚える必要あります?」
「……」
「朝の宝石も?」
「……」
「晩餐会の蝋燭の本数まで?」
「それは」
「詳しい方にお任せすればよろしいのでは?」
伯爵夫人の眉がぴくりと動いた。
「それでは王太子妃としての威厳が」
「王太子妃が蝋燭の本数を間違えたら、国が滅びますの?」
「そういう話ではありません」
「では、大丈夫ですわね」
「大丈夫ではありません」
「アデライード」
ジェラールの声が少し低くなった。
「はい」
「楽しんでいるだろう」
「少し」
「やはりか」
私は咳払いした。
いけない。
真面目にやろう。
「つまり私は、王太子妃にしかできないことは、本人がやればいいと思うんです」
皆がこちらを見る。
「でも、侍従長でもできること。女官長でもできること。専門の方の方が上手にできること。それまで全部抱える必要はないでしょう?」
「伝統的には、王太子妃も把握を」
「把握と実務は別です」
少しだけ強く言った。
「全部知っている必要はあるかもしれない。でも、全部自分でやる必要はありませんわ」
部屋が静かになる。
私は机の上の冊子へ視線を落とした。
「何でも一人で背負う人がいると、周りはそのままでいられるんです」
「どういう意味だ?」
ジェラールが聞いた。
「だって、その人が全部やってくれるなら、誰も困らないでしょう?」
私は肩をすくめた。
「困っていない人は、わざわざ仕組みを変えませんもの」
ジェラールが少し目を細めた。
伯爵夫人も、今度はすぐには反論しなかった。
あれ。
少し真面目になりすぎたかもしれない。
私は何となく周囲を見回す。
焼き菓子がない。
会議なのに。
改善点を一つ見つけた。
「……まあ、そんな大した話ではありませんけれど」
「いや」
ジェラールが言った。
「大事な話だ」
「そう?」
「ああ」
彼は目の前の冊子を開いた。
「王太子妃教育の目的は、仕事を抱え込ませることではない」
「そうです」
「国を支えるために必要な知識と判断力を身につけさせることだ」
「そうそう」
「軽いな」
「同意しているだけです」
ジェラールは私を無視して、冊子を閉じた。
「なら、目的から外れているものは見直すべきだ」
伯爵夫人が驚いた顔をする。
「殿下」
「伝統をすべて捨てるつもりはない。だが、伝統だから残すのではなく、必要だから残すべきだ」
私は瞬きをした。
思ったより、ずっと柔らかい。
この人は、自分が正しいと思っていることにしがみつくタイプではないらしい。
「まず課程を三つに分けよう」
ジェラールが指を折る。
「本人が必ず学ぶべきもの。概要を把握すればよいもの。専門職に任せるもの」
「まあ。素晴らしいですわ」
「君は少し黙っていろ」
「はい」
伯爵夫人は、まだ納得しきっていない顔だった。
それでも、王太子が決めた以上は従うらしい。
「では、殿下のお考えに従いましょう」
「頼む」
「ただし」
伯爵夫人が私を見る。
「アデライード様」
「はい」
「必要と判断されたものから逃げることは許されませんよ」
「……」
私はジェラールを見る。
助けてくれない。
「……はい」
「声が小さいです」
「はい」
私はしぶしぶ答えた。
◇
会議が終わった頃には、すっかり疲れていた。
王宮の長い廊下を歩きながら、深いため息をつく。
「疲れた」
「ほとんど座っておられましたが」
「頭を使ったのよ」
「珍しく」
「失礼ね」
そこへ、後ろから足音が近づいてきた。
「アデライード」
ジェラールだった。
「殿下」
「今日は助かった」
「私が?」
「ああ。王太子妃教育について、誰も疑問を持たなかった」
「長く続いていると、そうなるものです」
「君は疑問ばかりだな」
「楽をするためなら、よく考えます」
「そこだけ聞くと最低だな」
「結果がよければよろしくってよ」
「開き直るな」
ジェラールは呆れたように言った。
けれど、少しだけ笑っている。
「それにしても」
彼が歩きながら言う。
「君は本当に、頑張ることが嫌いなんだな」
「違います」
「違うのか?」
「頑張りたいことを頑張るのは嫌いじゃありません」
「では、何が嫌なんだ」
私は少し考えた。
「必要もないのに苦労することかしら」
ジェラールがこちらを見る。
「楽にできるなら、その方がいいでしょう?」
「君らしいな」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
私は窓の外へ目を向けた。
王宮の庭に、午後の光が差している。
「とにかく、今日は働きました」
「会議に出ただけだ」
「立派に働きました」
「自分で言うな」
「ですから帰ったら昼寝します」
「もう夕方だぞ」
「では、夕寝ですわね」
「初めて聞いた」
「今作りました」
ジェラールがとうとう笑った。
声を立てるほどではない。
でも、確かに笑った。
私は少し驚いて、その横顔を見る。
「殿下」
「何だ」
「笑えるんですね」
「君は俺を何だと思っている」
「仕事の化身」
「失礼だな」
「褒めてます」
「絶対に違う」
王宮の長い廊下に、ジェラールの呆れた声が響く。
私は少しだけ思った。
この人。
思っていたより、付き合いやすいかもしれない。
まあ。
それと結婚するかどうかは、まったく別の話だけれど。
王妃なんて。
やっぱり絶対に嫌なのだから。




