第2話
ジェラール王太子が来る。
そう聞いた瞬間から、私はずっと考えていた。
どうすれば婚約を穏便に終わらせられるのか。
罵倒はよくない。暴れるのもよくない。ゲームのアデライードみたいにヒロインをいじめるなんてもってのほかだ。
できれば誰も傷つけず、静かに、円満に。
そして私は自由になる。
完璧だ。
「アデライード様」
「何?」
「先ほどから、ずいぶん悪いお顔をされています」
「失礼ね」
「楽しそう、とも言えます」
「それなら合ってるわ」
鏡の前に座ったまま答える。
エマは私の黒髪を整えながら、小さくため息をついた。
本日の私は、淡い琥珀色のドレス。胸元にも袖にも過剰な装飾はなく、着心地重視である。
「もっと正式なドレスになさらなくてよろしいのですか?」
「今日は晩餐会ではないでしょう?」
「王太子殿下がお越しになるのですよ」
「それが?」
「それが、でございます」
「苦しい服を着たところで、殿下が代わりに息をしてくださると思う?」
「してくださらないと思います」
「でしたら、これでよろしくってよ」
エマはしばらく黙った。
「……その理屈で押し切るの、本当にお上手になりましたね」
「ありがとう」
「褒めておりません」
「まあ。残念ですこと」
◇
ジェラールは、午後きっかりにやってきた。
さすが王太子。
時間に正確。
こういう人はきっと、仕事もきっちりしている。
つまり、忙しい。
私はますます将来が不安になった。
「久しぶりだな、アデライード」
「ごきげんよう、ジェラール殿下」
銀髪に、淡い青灰色の瞳。背が高く、姿勢もいい。
いかにも乙女ゲームの攻略対象らしい、整った顔立ちだ。
前世なら画面越しに見て、素直に格好いいと思ったかもしれない。
しかし今の私には、王妃への入り口にしか見えない。
「何だ、その顔は」
「どの顔ですか?」
「歓迎されていない顔だ」
「まあ。よくお分かりで」
「否定くらいしないのか」
「嘘はよろしくありませんもの」
ジェラールが眉間にしわを寄せる。
私は何食わぬ顔で紅茶をひと口飲んだ。
おいしい。
こうしてお茶を飲みながらなら、多少面倒な話でも耐えられそうだ。
「今日は王太子妃教育について話がある」
「嫌ですわ」
「まだ何も説明していない」
「王太子妃教育でしょう?」
「ああ」
「でしたら嫌です」
「なぜだ」
「大変だからです」
「……それだけか?」
「十分な理由だと思いますけれど」
ジェラールが一瞬黙った。
「王太子妃となる以上、必要な教育だ」
「まだなっておりませんわ」
「婚約しているだろう」
「婚約は結婚ではありませんもの」
「そのための婚約だ」
「そうなんですか?」
「今さら何を言っている」
ジェラールのこめかみに、わずかに筋が浮いた。
短気な人には見えないのに、私と話していると疲れるらしい。
少し申し訳ない。
でも、将来王妃になる方がもっと嫌だ。
「アデライード」
「はい」
「王太子妃教育は、君の将来のために必要だ」
「その将来が嫌なんです」
ジェラールが黙った。
初めて聞いた、という顔をしている。
それも無理はない。
ゲームのアデライードは、王太子妃という立場にも、その先にある王妃の地位にも執着していた。
それを自分から嫌がるなんて、今のジェラールには理解できないだろう。
「王妃になりたくないのか?」
「なりたくありません」
「なぜ」
「忙しそうだからです」
「……」
「責任も重いでしょう?」
「ああ」
「公務も多いでしょう?」
「当然だ」
「まあ、大変ですこと。では遠慮いたしますわ」
「そんな簡単な話ではない」
「私にとっては、とても分かりやすい話です」
ジェラールは片手で額を押さえた。
「君はもう少し、高位貴族としての自覚を持った方がいい」
「ありますわ」
「どこに」
「家名を汚さない程度には礼儀も守りますし、必要なら社交にも出ます」
「それだけか」
「十分では?」
「王太子妃になる者としては足りない」
「ですから、ならなくてよろしくってよ」
「話が戻ったな」
「戻しました」
少し離れたところにいるエマが、ものすごく静かだ。
たぶん笑うのを堪えている。
あとで覚えておこう。
「君は昔、王妃になると言っていただろう」
「昔の私は若かったんです」
「今も若いだろう」
「考えが浅かったという意味です」
「自分で言うのか」
「過ちは早めに認めた方が楽ですもの」
ジェラールが少しだけ目を細めた。
怒っているというより、観察されている。
そんな感じがした。
「ずいぶん変わったな」
「そうですか?」
「以前の君なら、もっと王妃という立場にこだわっていた」
「面倒だと気づいたんです」
「王妃という立場を、面倒の一言で片づけるのか」
「だって面倒でしょう?」
私は数えるように指を折った。
「毎日きちんと起きる」
「当然だ」
「公務をする」
「当然だ」
「会いたくない方にも会う」
「それも必要だ」
「笑いたくない時も笑う」
「立場によってはな」
「体調が悪くても、いつでも好きに休めるわけではない」
「……まあな」
私は真顔で頷いた。
「ほら。無理ですわ」
「そこまで真顔で言うことか」
「大事なことです」
ジェラールは呆れたように息を吐いた。
でも私は本気だ。
「殿下」
「何だ」
「できるかどうかと、やりたいかどうかは別ですよ」
「……」
「私が王妃を務められるとしても、務めたいとは限らないでしょう?」
ジェラールが黙った。
私は紅茶へ手を伸ばす。
少し真面目なことを言ってしまった気がする。
「君なら務まる」
「それ、褒め言葉ではありませんわ」
「なぜだ」
「できるならやれ、と言われているみたいですもの」
「そういう意味ではない」
「でも、私はやりたくありません」
「そこは揺るがないんだな」
「はい」
即答すると、ジェラールはしばらく私を見ていた。
私は気にせず、テーブルの上の焼き菓子へ手を伸ばす。
「では、どう生きたい」
「のんびり」
「……」
「美味しいものを食べて、眠い時は寝て」
「……」
「嫌なことはできるだけ避けて、毎日機嫌よく暮らしたいです」
「それだけか?」
「それが案外、難しいんですよ」
ジェラールがこちらを見る。
「難しい?」
「ええ」
私は焼き菓子をひと口かじった。
「立派になるより、毎日ちゃんと幸せでいる方が難しいこともありますから」
少し真面目になりすぎた。
私は居心地が悪くなって紅茶を飲む。
「……そんな大したことを言ったつもりはないんですけど」
「誰も何も言っていない」
「顔が真面目だったので」
「君に言われたくない」
ジェラールが小さく息を吐いた。
それから、自分の紅茶へ手を伸ばす。
「王太子妃教育は」
「嫌ですわ」
「最後まで聞け」
「どうぞ」
ジェラールの眉がぴくりと動いた。
「すべて受けろとは言わない」
「え?」
予想外だった。
「内容を一度確認する」
「確認?」
「ああ。本当に必要なものと、慣習として続いているだけのものを分ける」
「減らすんですか?」
「不要ならな」
私は瞬きをした。
てっきり「王太子妃たるもの黙って全部やれ」と言われると思っていた。
「……意外と話が分かりますね」
「失礼だな」
「褒めていますわ」
「まったくそう聞こえない」
ジェラールはそう言ったが、先ほどまでより少しだけ表情が柔らかい。
「そのうえで、必要なものは受けてもらう」
「……全部なくすわけではないんですね」
「当たり前だ」
「少し期待しましたのに」
「するな」
私はため息をついた。
まあ、全部逃げるのは難しいらしい。
でも、減るならいい。
「分かりました」
「やけに素直だな」
「無駄を減らしてくださるなら協力します」
「無駄かどうかは確認してからだ」
「はいはい」
「返事は一度」
「はい」
まるで教師と生徒だ。
嫌だなあ。
でも、最初から「黙って全部やれ」と言わないだけ、この人は思ったより話が通じるらしい。
「では、今日は帰る」
「もう?」
「ああ。君と話していると予定より時間を使う」
「まあ。それは申し訳ありませんわ」
「反省していない顔だな」
「ばれました?」
「分かりやすい」
ジェラールが立ち上がる。
私も一応、見送るために立った。
扉の前まで行ったところで、彼がふと振り返る。
「アデライード」
「はい?」
「君は本当に、王妃になりたくないんだな」
「絶対に」
即答した。
ジェラールはしばらく私を見たあと、ほんの少し口元を緩めた。
「そうか」
「……何ですか」
「いや」
「感じ悪いですわ」
「そうかもしれないな」
そのままジェラールは帰っていった。
扉が閉まる。
私はエマを見る。
「何だったのかしら」
「さあ」
「笑われたわ」
「楽しそうではございました」
「何が?」
「殿下が」
「……まさか」
私は首を振った。
そんなはずはない。
私はそのうち現れるはずのヒロインにジェラールを任せて、円満に婚約を終える予定なのだ。
だから、今どう思われようと関係ない。
「まあ、いいわ」
私はソファへ座り直した。
「今日のお仕事はこれで終わりですわ」
「まだ午後三時でございます」
「殿下とお話ししたので疲れましたの」
「では、これから刺繍を」
「おほほほ。そんな面倒なこと、今からするわけありませんでしょう?」
「アデライード様」
「寝ます」
「まだ寝台へも行っておりません」
「では、ここで寝るわ」
「そういう問題ではございません」
私はソファのクッションを抱きしめた。
王太子妃教育は、少し減るかもしれない。
ジェラールも、思ったより話が通じる。
今日の成果としては十分だ。
私は満足して目を閉じる。
それでもやっぱり。
王妃なんて、絶対に嫌だ。




