第1話
目を覚ました瞬間、私は思った。
天国とは、こういう場所なのかもしれない。
ふかふかの寝台。肌触りのいいシーツ。天蓋から垂れる薄い布。そして何より素晴らしいのは、目覚まし時計が鳴らないことだ。
「……最高」
私は枕に頬を押しつけた。
あと五分。いや、十分。できれば昼まで寝ていたい。
そんなことを考えていると、控えめな音がして扉が開いた。
「アデライード様。お目覚めでしょうか」
「まだよ」
「お返事されていますが」
「寝言よ」
「ずいぶん明瞭な寝言でございますね」
侍女のエマがため息混じりにカーテンを開けた。
朝の光が部屋へ差し込み、私は掛布を頭まで引き上げる。
眩しい。
朝というものは、どうして毎日こんなにも律儀にやってくるのだろう。
「本日は十時から刺繍のお稽古がございます」
「まあ、そうでしたの」
「はい」
「では、お休みしますわ」
「昨日もお休みになりました」
「二日連続ということになりますわね」
「そういう問題ではございません」
エマの声はどこまでも冷静だった。
この侍女、なかなか手強い。
私は仕方なく掛布から顔を出し、天蓋の向こうに広がる豪華な部屋を見回した。
白い壁。繊細な彫刻の施された家具。大きな鏡台。花瓶には、今朝摘んだばかりらしい花まで飾られている。
ここは私の部屋だ。
正確に言えば、公爵令嬢アデライード・ベルナールの部屋。
そして私は、そのアデライード本人だった。
もっと正確に言えば、私はある日突然、前世の記憶を思い出した。
前世の私は、ごく普通の日本人女性だった。朝起きて仕事へ行き、帰れば夕食を作る。食べれば皿を洗い、お風呂に入れば髪を乾かし、明日の準備をして眠る。
そして、また朝が来る。
何か一つ終えるたびに、次の「やること」が待っていた。
人生という名の無限連続作業。
今思えば、なかなか恐ろしいものである。
「アデライード様?」
「……前世の洗い物を思い出していたわ」
「ぜんせ?」
「気にしなくってよ」
「はあ」
エマは怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
いい侍女である。
聞かないことも才能だ。
そして今世の私は、公爵令嬢。
「朝食をご用意しております」
「行くわ」
私は即座に起き上がった。
「刺繍はお休みになるのに、朝食にはずいぶん積極的でございますね」
「当然でしょう? 食事は生きるために必要ですもの」
「刺繍も令嬢として必要でございます」
「刺繍をしなくても死にはしませんわ」
「……左様でございますか」
「ええ。ですから本日は遠慮いたします」
「まだ何も申し上げておりません」
「先手必勝よ」
食堂へ行けば、すでに朝食が並んでいた。
焼きたてのパン。ふわふわの卵料理。野菜のスープ。瑞々しい果物。そして香りのいい紅茶。
私は椅子に座る。
それだけだ。
座っているだけで、温かい食事が出てくる。
「……幸せ」
思わず呟くと、後ろに立っていたエマが首を傾げた。
「いつもと同じ朝食でございますが」
「だからいいのよ」
温かいスープをひと口飲む。
美味しい。
パンも卵料理も美味しい。
しかも食べ終わった皿を、私が洗わなくていい。鍋も洗わない。台所も片づけない。明日の献立まで考えなくていい。
座って、食べて、終わり。
なんて素晴らしいのだろう。
「アデライード様、なぜ泣いておられるのですか」
「感動しているの」
「卵料理に?」
「人生に」
「……左様でございますか」
エマはもう何も言わなかった。
たぶん諦めたのだろう。
◇
食後。
私はさらに素晴らしい時間を迎えていた。
「少し熱くはございませんか?」
「ちょうどいいわ」
浴室で、エマに髪を洗ってもらっている。
長い黒髪を温かな湯が流れ、エマの指が丁寧に頭皮を揉んでいく。柔らかな香りの泡が立ち、私は目を閉じた。
何もしなくていい。
本当に、何もしなくていい。
「はあ……最高」
「毎回おっしゃいますね」
「毎回最高なんですもの」
前世では、疲れて帰ったあとに髪を洗うのが面倒だった。
洗えば終わりではない。乾かさなければならない。
分かっているからこそ、やらなければならない。
そんな小さな「やらなければならない」を、私はずっと積み重ねていた。
だから今世では、同じことをしない。
眠たければ寝る。嫌なことは断る。自分でしなくていいことは人に任せる。
そして、美味しいものを食べる。
幸せを、わざわざ後回しにしない。
「アデライード様?」
「何?」
「ずいぶん幸せそうなお顔をされています」
「幸せだもの」
私は目を閉じたまま答えた。
「生きているし、ご飯も美味しいし、髪まで洗ってもらえるのよ?」
「……ずいぶんと慎ましい幸せでございますね」
「大きな幸せを待って、小さな幸せを見逃す方がもったいないわ」
エマの手が、一瞬止まった。
「……そういうものでしょうか」
「そういうものよ」
髪を洗い終えると、今度は椅子に座って乾かしてもらう。
これまた私は何もしない。
最高である。
この人生では、頑張りすぎない。
立派にならなくてもいい。
私が機嫌よく生きられれば、それで十分。
そう思っていた。
その時までは。
「そういえば、アデライード様」
「なあに?」
「本日の午後、王太子殿下がお越しになります」
「……誰?」
「ジェラール殿下でございます」
私は瞬きをした。
ジェラール。
銀髪。淡い青灰色の瞳。王太子。
そして――アデライードの婚約者。
「……あ」
全部思い出した。
ここは、ただの異世界ではない。
前世で友人に勧められて少しだけ遊んだ、乙女ゲームの世界だ。
そしてアデライードは、ヒロインをいじめ、王太子に婚約を破棄され、最終的には社交界から追放される。
典型的な悪役令嬢だった。
私は鏡の中の自分を見る。
艶のある黒髪。琥珀色の瞳。華やかな顔立ち。
なるほど。
どう見ても悪役令嬢だ。
「そうだった……」
「何か?」
「私、悪役令嬢だったわ」
「はい?」
いや。
待って。
婚約破棄。
それって。
むしろ好都合なのでは?
王太子と結婚しなくて済む。
王太子妃にならなくて済む。
そして将来――王妃にならなくて済む。
王妃。
国の行事。外交。社交。慈善活動。王族としての公務。後継者問題。
山ほどある責任。
絶対に忙しい。
絶対に休めない。
昼寝どころではない。
私はゆっくりと顔を上げた。
「エマ」
「はい」
「王太子と結婚したら、私はどうなるの?」
「まずは王太子妃となられます。いずれ殿下が即位なされれば、王妃陛下に」
「……王妃?」
「はい」
私は数秒黙った。
それから、背筋をすっと伸ばした。
「まあ」
鏡の中の私は、どこからどう見ても優雅な公爵令嬢だった。
「それは無理ですわ」
「はい?」
「王妃なんて絶対に嫌です」
心の底から言った。




