第八話 スズだけが見える道
七回目の七月二十一日は、朝から晴れていた。昨日の雨が嘘みたいに空が青くて、蝉がうるさくて、日差しが石畳をじりじり焼いていた。ぼくは家を出る前に、破れた地図の欠片を鞄に入れた。ミウが持っている半分と合わせれば、一枚分になる。
ポッケが机の横から言った。
「今日は、スズが道を見つける」
「スズが?」
「次の場所は、地図の空白に場所が出ていない。スズにしか見えない道の先にある」
「スズにしか見えないって、どういうこと」
「そのままの意味だ。スズが見えていても、ほかの三人には見えない。だから、スズを急かすな。スズの言葉を、ちゃんと待て」
「分かった」
「特にタイガに言え」
「タイガに言う」
集合場所に着くと、スズが先に来ていた。今日はいつもより早い時間だったのに、スズはもう路地の入り口に立っていた。どこかを見ていた。商店街の方でも、時計台の方でもなくて、路地の奥の方を。
「おはよう、スズ」
「おはよう、ナギサくん。今日、昨日より暑いね」
「そうだね。今日の場所、分かりそう?」
「分かるかどうかは、行ってみないと。でも、昨日から何かが引っかかってる感じがしてた。あっちの方から」
スズが指さした先は、商店街を抜けた先の住宅街の方だった。
「神社がある辺り?」
「その手前。路地がいくつか交差してるところ。普段は何もないんだけど、昨日の夜、あそこから変な色がした」
「変な色?」
「さびしい色。うまく言えないけど、そういう色がした」
スズはよくそういうことを言う。さびしい色とか、眠ってる音とか。ぼくには分からないけど、スズには確かに見えている。それはもう疑っていなかった。
タイガとミウが来た。タイガが来るなり「今日どこだ」と言った。
「スズが案内してくれる」
「スズが? どこへ」
「まだ分からない。でも、スズが感じてる場所がある」
タイガがスズを見た。
「スズ、分かるの?」
「分かるかどうか、行ってみないと」
「行ってみないと分からないなら、どうやって行くんだ」
「感じながら、歩く」
タイガが「うーん」という顔をした。でも何も言わなかった。
ぼくがタイガの横で小さく言った。
「急かすなよ」
タイガが小さくうなずいた。スズが先を歩いた。ぼくたちは後ろからついていった。
スズの歩き方はゆっくりだった。普段からゆっくりだけど、今日はもっとゆっくりだった。時々止まって、あたりを見回し、角では少し迷ってから道を選ぶ。
商店街を抜けて住宅街に入ると、道が細くなった。石畳が途切れ、古い家の庭木が道まではみ出している。
スズは細い路地を左へ曲がり、次の角を右へ進んだ。
「スズ、どうやって分かるの。標識も何もないじゃないか」
ぼくが聞くと、スズが少し考えた。
「道が、光ってる」
「光ってる?」
「みんなには見えない?」
ぼくたちは顔を見合わせた。光は見えない。ただの路地だった。
「スズには光って見えてるんだ」
「うっすらと。普段は見えないけど、今日みたいに変な感じがするときは、見える」
タイガが何か言いかけた。ぼくが見ると、口を閉じた。
しばらく進むと、スズが十字路で立ち止まった。四方向に道が続いていて、どれも同じように見える。タイガがそわそわし始めた。ぼくはそっと袖をつかんだ。
「でも」
小声で言うタイガに、ぼくは首を横に振った。
ミウもノートを持ったまま、静かに待っていた。
一分ほどして、スズがぽつりと言った。
「あっち」
指さしたのは、いちばん細い道だった。
「確かめてもいい?」
「うん。わたしも、確かめたい」
スズは細い道へ入り、数歩進んで振り返った。
「こっちだ。光が強くなった」
ぼくたちはそのあとについていった。突き当たりに、小さな神社があった。
木造の鳥居は、赤い色が落ちて薄茶色になっている。短い参道の石畳には苔が生え、境内には小さなお社と三本の木があるだけだった。
神社というより、ただの古い場所という感じだった。
「こんなところに神社があったんだ」
タイガが言った。
「知らなかった」
ぼくも言った。
「地図にもないからね」
ミウが地図を確認した。空白の一つが、ちょうどここを示していた。
「ここだ。スズ、合ってた」
スズがほっとした顔をした。
「合ってた」
「ちゃんと見えてたんだね」
「見えてたけど、合ってるかどうかは、着くまで少し不安だった」
タイガがスズの方を向いた。
「スズ、ごめん。途中で急かしそうになった」
「分かってた」
「分かってたの」
「タイガくんが黙ってくれてたから、よかった」
タイガが後ろ頭をかいた。
「まあ、ナギサに止められたからだけど」
「それでも、止まってくれたから」
スズが小さな声で言った。ポッケが背中で言った。
「さて、神社の中を確かめろ。ページがある」
鳥居をくぐると、空気が変わった。外より少し涼しくて、しんとしていた。蝉の声が遠くなった気がした。お社の前に進むと、賽銭箱があった。古くて、板がところどころ腐っている。でも賽銭箱の上に、何かがいた。最初は見えなかった。スズが「あそこ」と言って指さして目を凝らしたら見えた。影だった。小さな影。形が定まっていなくてゆらゆらしている。光があるのにできている影じゃなくて、影そのものがそこにいる感じだった。
「トキワスレ?」
ぼくが聞いた。影がぴくっと動いた。
「ちがう」
スズが言った。
「トキワスレじゃない。でも、トキワスレのかけらみたいなもの」
「かけら?」
「トキワスレがここにいたことの、残りかす。みたいな感じ。うまく言えないけど」
影はゆらゆらしていた。近づいても、逃げなかった。スズが一歩、前に出た。
「何かが聞こえる。小さくて、遠い声。でも……さびしい、って言ってる気がする」
タイガが腕を組んだ。
「さびしい、か。またか」
「またか、って」
「レジ袋も、切符も、落とし物も、みんなさびしかったじゃん。さびしいものが多い町だな、星坂町」
ミウが何かを書き留めながら言った。
「さびしいものが多いんじゃなくて、さびしいものがちゃんと残ってる町なんじゃないかな。消えないで、どこかにいる」
「それはいいことなの、悪いことなの」
ぼくが聞くと、ミウは少し考えた。
「どっちでもあると思う。残ってくれてるのはうれしいけど、さびしいままなのはよくない」
スズが賽銭箱の前にしゃがんだ。影をじっと見た。
「何を怖がってるの」
独り言みたいに言った。影がゆらっと動いた。
「忘れられるのが怖いんだね」
スズが続けた。
「この神社、ここに来る人が少なくなったから。忘れられそうで、怖いんだね」
影が少し小さくなった。縮んだというか丸くなった。うずくまったという感じだった。
「忘れないよ」
スズが言った。
「ミウちゃんが、地図に描く。タイガくんが、覚えてる。ナギサくんが、ここに来た。わたしが、見えた。だから、忘れない」
影がゆっくりと薄くなっていった。薄くなりながら、光になって、空に溶けていった。賽銭箱の上に、一枚の紙が残った。夏休み帳のページだった。ページを拾い上げると、神社の絵が描かれていた。色あせた鳥居と、苔むした石畳と、三本の木。だれも来ない神社の、静かな風景だった。ミウがページを受け取って、地図の欠片に神社の場所を書き込んだ。
「残りの空白、あと一つだ」
全員が黙った。あと一つ。次が終われば、全部のページが揃う。でも、ページが揃ったとしても、時計台の針が動くかどうかは分からない。トキワスレに会わないといけない。
タイガが伸びをした。
「スズ、よく案内してくれた。迷子にならなかった」
「迷子になりそうだったよ、十字路で」
「でも、ちゃんと選んだじゃん」
スズは神社の方を振り返った。
「うん。立ち止まったら、見えた」
タイガは少し考えるような顔をして、それからうなずいた。
「そっか。立ち止まるのも大事なんだな」
スズが小さくうなずいた。
ミウが地図を閉じて、ぼくを見た。一瞬だけ、目が合った。ミウはすぐ目を逸らした。何か言いたそうな顔だったけど、言わなかった。
ぼくも、何も言わなかった。ポッケが背中から言った。
「帰り道、神社の裏の路地を通れ。近道だ」
「裏に道があるの?」
ぼくが聞くと、ポッケが答えた。
「さっきスズが光が見えると言っていた道の、続きがある。地図には載っていないが、ちゃんとある」
スズが鳥居の裏を見た。
「光、ある。細いけど」
「案内してくれるか、スズ」
スズがうなずいた。
「案内する」
スズが先に歩き出した。ぼくたちがあとについた。今度は、だれも急かさなかった。
裏の路地は狭かったけど、確かに近道だった。商店街の手前まで、ずいぶん早く戻れた。路地を抜けたとき、スズが立ち止まって、時計台を見上げた。
「もうすぐ、夏休み一日目が、ぜんぶなくなる」
ぼくたちは足を止めた。
「どういう意味?」
タイガが聞いた。
「トキワスレの力が、弱くなってる。ページを取り戻すたびに、無理をして一日目へ戻してる」
「力がなくなったら?」
「夏休みそのものが消える。時間が止まって、もう動かなくなる」
沈黙が落ちた。時計台の針が見えた。七月二十一日、午前八時ちょうど。ずっと止まったまま。
「急がないといけない」
ミウが言った。
「残りの空白、あと一つ。そこを確かめたら、トキワスレのいる時計台に行く」
「そこで、どうするんだ」
タイガが聞いた。だれも答えなかった。ポッケが背中でゆっくりと言った。
「話す。それしかない」
「話すだけで、なんとかなるの」
「なるかどうかは、やってみないと分からない。でも、トキワスレは悪いやつじゃない。さびしいやつだ。さびしいやつに必要なのは、倒されることじゃなくて、話を聞いてもらうことだ」
タイガが腕を組んだ。
「話を聞くのは、ナギサが得意だよな」
ぼくを見た。
「ナギサって、人の話を最後まで聞けるから」
「そうかな」
「そうだよ。スズの話もちゃんと聞くし、ポッケのえらそうな話も聞くし」
「ポッケの話を聞くのとスズの話を聞くのは、ちがうと思うけど」
「でも聞く」
ぼくは時計台を見た。トキワスレが、中で泣いている。地図に書いてあった。
なくしたくなくて、夏休みを終わらせないようにしている。ぼくにも、なくしたくないものがある。言えていないことがある。
「ナギサくん」
スズが呼んだ。ぼくはスズを見た。
「思い出って、しまっておくと、だんだん眠っちゃうんだと思う」
「どういう意味?」
「だれかと共有しないと、少しずつ形が変わって、くっきりしなくなっていく。だれかに話すと、ちゃんと形のまま残る気がする」
スズはそれだけ言って、また前を向いた。ぼくはその言葉を胸のあたりで受け取った。
しまっておくと、眠っちゃう。転校のこと。言えていないこと。
ポッケが言った。
「ナギサ。次の場所は、プラネタリウムだ。町外れの、星の話をする場所だ」
「そこにも、ページがある?」
「ある。ただし、ページだけを探して帰れる場所ではなさそうだ」
「どういう意味?」
「行けば分かる」
ポッケはそう言って、ファスナーを閉じた。蝉が鳴いた。商店街の向こうで、時計台が夏の空に立っていた。針は止まったまま。でも、動かすための何かが、ぼくの中で少しずつ、形になってきている気がした。




