第四話 駄菓子屋の奥の雲の駅
三回目の七月二十一日が来た。朝、目が覚めると、窓の外から蝉の声がして、下の階でラジオが流れていた。七月二十一日、本日は晴れのち曇り――もう驚かなかった。
ぼくは起き上がって、夏休み帳を確認した。昨日取り戻したページは、ちゃんとそこにあった。商店街の絵が描かれたページ。それだけが、もとに戻っている。
残りは、まだ白紙だった。ポッケは机の横でファスナーを閉じたまま、動かなかった。
「起きてる?」
「起きてる。うるさい」
「起きてるなら返事してよ」
「した」
ぼくは着替えて、地図を鞄に入れた。今日の空白は、駄菓子屋の辺りだとミウが昨日言っていた。集合場所は、昨日と同じ商店街の入り口にあるベンチだった。
ミウはもう来ていた。ノートを開いて、昨日の記録を見直している。
「おはよう」
「おはよう。昨日のまとめ、もう一回確認してたとこ」
「几帳面だね」
「そういうもんでしょ」
スズはミウの隣で、空を見ていた。曇っていて、遠くに灰色の雲が見えた。
「おはよう、スズ」
「おはよう、ナギサくん。今日、雨になるかも」
「天気予報見た?」
「ううん。なんとなく」
スズはそういうことをよく言う。そしてだいたい当たっている。
タイガは少し遅れて来た。走ってきたらしく、息が切れていた。
「待たせた! 行こうぜ、駄菓子屋!」
「走ってきたの」
「家からここまでタイムアタックしてた」
「なんで」
「夏休みっぽいから」
ミウが呆れた顔をした。スズが小さく笑った。ぼくも笑った。タイガがいると、変な夏休みでも少しふつうの夏休みみたいな気がした。駄菓子屋「ハルちゃん堂」は商店街の中ほどにある。シャッターが目立つようになった商店街の中で、ここだけはちゃんと開いていた。のれんが風にゆれていて軒先に子ども用の縁日みたいなくじ引きの台が出ている。
引き戸を開けると、戸口につるされた鈴がちりんと鳴った。中は薄暗くて、木の棚にいろんな駄菓子が並んでいた。十円のチョコ、粉末ジュース、麩菓子、ねりあめ、瓶に入ったラムネ。ぼくが小さいころから変わっていない。カウンターの奥から、ハルさんが出てきた。
白髪まじりの小柄なおばあさんで、割烹着を着ている。目じりに深いしわがあって、笑うとそのしわがぜんぶ動く。
「あら、来たね」
ハルさんはぼくたちを見て、それからぼくの背中のポッケを見て、目を細めた。
「また来たんだねえ」
「また、って?」
ぼくが聞くと、ハルさんはふふっと笑った。
「そのリュック、昔もここに来たことがあるんだよ。ずいぶん前のことだけど」
ポッケが背中でもぞっと動いた。
「……久しぶりだな、ハルさん」
「久しぶりねえ、ポッケ。あのころの子どもたちも、もうおとなになっちゃったね」
「そうか」
ポッケは、それだけ言って黙った。
ハルさんは、ぼくたちに向き直った。
「奥に用があって来たんだろう。好きに見ていいよ。ただし、棚のものを倒さないように」
ぼくたちは顔を見合わせた。
「奥に何があるか、知ってるんですか」
ぼくは聞いた。
「昔からたまに開くんだよ、あの引き戸」
ハルさんはそう答えて、また奥に引っ込んだ。驚いた様子が、まるでなかった。
棚の奥に、古い引き戸があった。ふつうの木の引き戸で、取っ手が少し錆びている。でもその戸のふちから、うっすらと白い光が漏れていた。
「ここだね」
ミウが地図の空白を確認しながら言った。
「開けるぞ」
タイガが取っ手に手をかけた。
「待って。心の準備」
「早く」
「今してる」
三秒後、タイガが引き戸を開けた。白い光が、どっとあふれてきた。目が慣れると、そこには空が広がっていた。下を見ると、雲があった。上を見ても、雲があった。
ぼくたちは、雲の上にいた。足元は木造のホームで、古びたベンチが並んでいる。壁には黄ばんだ時刻表が貼ってあって、でも時刻の欄はぜんぶ空白だった。
小さな駅だった。どこへも続いていない、雲の上の駅。
「すごい」
タイガが息をのんだ。声が小さかった。あのタイガが。
「すごいな、これ」
ミウがノートを取り出しながら言った。手が少し震えている。
「記録しなきゃ」
スズは引き戸をくぐって、ホームに一歩踏み出した。白い靴が、木造のホームに静かに着地した。スズはあたりを見回した。それから、ゆっくり歩き出した。雲の上の駅は思ったより広かった。ホームが一本あって、線路があって、でも線路は少し行ったところで雲の中に消えていた。改札口があって、待合室があって、売店の跡みたいなものもある。でもどれも古くて、だれかが長い間使っていない感じがした。
「何が来る駅なんだろ」
タイガがホームの端を覗き込んだ。下は雲だった。
「帰り道の時間が来る駅だ」
ポッケが言った。
「帰り道の時間?」
「昔の子どもたちが、遊びの帰りに使った時間が、ここに集まってくる。夕方、日が沈むころ、家に帰りたくなくてぐずぐずした時間。友だちとの別れ際、もう少しだけって思った時間。そういうものが、ここへ来るんだ」
ぼくは待合室を覗いた。
ベンチに、だれかが座っていた痕がある。背もたれのところが、うっすら色が違う。
「ページはどこにある?」
ぼくが聞くと、ポッケが答えた。
「切符が必要だ。切符がないと、次のページが戻らない」
「切符って、どこに」
「それを探せ」
ミウが手帳を見ながらホームを歩いた。スズは売店の跡を調べている。タイガは改札口に近づいて、回転バーをくるっと回した。
「動く!」
「当たり前だろ」
ぼくは、だれかが使っていた跡の残るホームを歩いた。
ひっそりしていた。さびしい、という感じじゃなくて、ただ、静かにそこにある感じ。
「ナギサくん」
スズの声がした。ぼくはスズのいる方へ行った。スズはベンチの前でしゃがんでいた。ベンチの下をじっと見ている。
「どうした」
「いる」
「何が」
「切符」
ぼくもしゃがんで、ベンチの下を覗いた。最初は何も見えなかった。でも目を凝らすと、ベンチの脚の根元に、小さな白いものがあった。切符だった。
ふつうの硬券切符と同じ形だけど、色がくすんでいて、角が丸くなっていた。泣いているというか、しゅんとしている、そんな感じがした。
「どうやって気づいたの」
「なんか、声がした気がして」
「声?」
「小さくて、すごく遠い声。でも確かにそこにあった」
スズはゆっくり手を伸ばして、切符をそっとつまんだ。
切符を手のひらに乗せると、スズはしばらく黙っていた。
「この切符、ずっとここで待ってたんだと思う」
「だれを?」
「使ってくれる人を」
タイガとミウが走ってきた。
「見つかった?」
「うん」
ミウが切符を見た。
「何が書いてある?」
切符には、文字がぼんやりと浮かんでいた。
ぼくには読めなかった。でも、スズはその文字を読んだ。
「また明日遊ぼう、って書いてある」
また明日遊ぼう。だれかが言ったまま、使われなかった約束。
タイガが切符を受け取って、裏表を確認した。
「使われなかったって、どういうこと。これ、どうすれば使えるの」
ポッケが言った。
「声に出せ。約束を、もう一度」
「え」
「また明日遊ぼう、と言えばいい。だれでもいい。ちゃんと気持ちを込めて」
タイガが切符を持ったまま、ぼくたちを見回した。
それから照れくさそうに後ろ頭をかいた。
「また明日遊ぼう、って、そういうの言うのなんか恥ずかしいな」
「恥ずかしいのか」
「言えないわけじゃないけど」
スズがタイガの横に並んだ。
「じゃあ、わたしが言う」
スズは切符を受け取って、まっすぐ前を向いた。
雲の上の駅のホームで、スズの声が静かに響いた。
「また明日遊ぼう」
切符が、ふわっと光った。光は白くて、やわらかくて、駅全体に広がった。線路の向こう、雲の中から、汽笛みたいな音が遠く聞こえた。切符はスズの手の中で溶けるように消えた。代わりに、ホームの端に一枚の紙が落ちてきた。夏休み帳のページだった。
ミウが拾い上げた。
「絵が出てきた。この駅の絵だ」
ホームと、ベンチと、雲の中に消えていく線路。ぼくたちが今立っている場所が、きれいに描かれていた。
引き戸をくぐって駄菓子屋に戻ると、カウンターの上にラムネが四本並んでいた。ガラスびんの中で、青いビー玉が光っている。
「お疲れさん。飲んでいきな」
ハルさんが、にこにこしながら言った。
「え、いいんですか」
「いいよ。サービス」
タイガが、待ってましたとばかりに一本取った。
「うわ、冷たっ」
ビー玉を押しこむと、ぽん、と小さな音がした。泡がびんの中をのぼっていく。
「うめえ!」
タイガの声が店の中に響いた。
「ありがとうございます」
ミウは両手でびんを持って、少しだけ背筋を伸ばした。
スズは何も言わずに、こくこくと飲んでいる。よほどおいしかったのか、ほっぺたが少しだけゆるんでいた。
ぼくもラムネを一口飲んだ。しゅわっとした炭酸が、喉の奥ではじけた。
さっきまで雲の上の駅にいたのに、今は駄菓子屋の床に立っている。手の中のびんは冷たくて、ビー玉はからんと小さく鳴った。
また明日遊ぼう。
切符に書かれていた言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
そう言われたまま、使われなかった約束。そういうものが、あの駅に集まってくる。ぼくは転校することを、まだだれにも言っていなかった。言ったら、また明日遊ぼうって言えなくなる気がしていた。でも、言わないままいたら。
それって、切符を置きっぱなしにするのと、同じなんだろうか。
「ナギサ」
ポッケが背中から呼んだ。小さな声だった。
「なに」
「ラムネ、ぬるくなるぞ」
ぼくはラムネを一口飲んだ。しゅわしゅわした。
ハルさんが、棚を拭きながら言った。
「昔はね、あの引き戸、しょっちゅう開いてたんだよ。子どもがたくさん来て、わいわいして、また来るねって言って帰っていく。そういう毎日だった」
「今は?」
「今は、ときどきしか開かない。子どもも、あんまり来なくなったしね」
ハルさんは笑っていたけど、その笑顔の中に、何かもの寂しいものがあった。
「あなたたちが来てくれて、よかった」
ぼくたちは顔を見合わせた。
タイガが少し背筋を伸ばして、空になったラムネをカウンターに置いた。
「また来ます。また今度じゃなくて、また来ます」
タイガらしくない、ちょっと真剣な声だった。
ハルさんのしわが、ぜんぶ動いた。
帰り道、ミウが地図の二つ目の空白を塗りつぶしながら言った。
「残りの空白、まだ五つ以上あるね」
「そうだな」
「一日一個のペースで進んでも、まだかかる」
「うん」
ミウは少し間を置いた。
「夏休みが終わるまでに、全部取り戻せるかな」
ぼくは答えなかった。夏休みが終わるまでに。そのあとのことを、ぼくはまだみんなに言っていなかった。
夕方、雲が厚くなった。スズが朝に言っていた通り、雨が降り始めた。ぼくたちは商店街のアーケードで雨宿りをした。
日付は七月二十一日のままなのに、昨日までとは少し違う。ページを取り戻すたびに、夏休みも少しずつ動き出しているのかもしれない。
タイガが傘を持っていなくて、ミウが折りたたみ傘を貸した。タイガとスズが一本の傘に入って、ミウはもう一本取り出してぼくと入った。
「ポッケの中に傘あったんじゃないの」
ぼくが聞くと、ポッケが背中で少し動いた。
「それはさっきミウに渡した」
「さっきってどのタイミングで」
「駄菓子屋を出るとき」
いつのまに、と思ったけど、ポッケはそういうやつだった。
雨がアーケードの外に降って、商店街を濡らしていた。遠くに時計台が見えた。針は、まだ止まっていた。取り戻したページが手のひらに二枚。あの時計台が動くのは、まだ先の話だった。ぼくはアーケードの天井を見上げた。昨日は、ここが星空になっていた。今日は、ただの天井だ。でも、昨日のことはちゃんと覚えている。また今度じゃなくて、ちゃんと覚えている。それだけは、確かだった。




