第十一話 時計台の中のトキワスレ
中は暗くなかった。
光があった。でも、太陽の光でも電気の光でもない。なんか古い光だった。夕方の終わりの、空がまだ少しだけ明るい時間の、そういう色の光が、壁ぜんたいからにじみ出ていた。
足元を見ると、石畳だった。
見上げると、天井が高かった。時計台の内側なのに、どこまでも上に続いていた。
壁に、扉があった。
一つじゃない。左右にいくつも、大きさも形も違う扉が並んでいた。
「どれだ」
タイガが言った。
「全部だ」
ポッケが答えた。
「一つずつ通っていけ。ここは、過去の夏休みが積み重なった場所だ。ぼくたちが冒険してきた場所が、少しずつ形を変えて現れる。全部通れば、奥に着く」
ミウが地図を広げた。
「地図は使える?」
「今はただの紙だ。でも持っていけ。最後に必要になる」
ミウが地図を鞄にしまった。
タイガが一番手前の扉の取っ手を持った。
「行くぞ」
最初の扉を開けると、アーケードだった。でも、夜のアーケードじゃなかった。昼間の、にぎやかな商店街だった。魚屋のおじさんが大きな声で値段を叫んでいて、パン屋さんの前に行列ができていて、子どもたちが走り回っていた。
でも、影だった。全部、影みたいに薄くて、触れたら消えそうだった。
「昔の商店街だ」
ミウが言った。
「にぎやかだったころの」
駄菓子屋「ハルちゃん堂」が見えた。今より看板が明るくて、子どもたちが群がっていた。ハルさんが笑って、ラムネを渡していた。
「ハルさんだ」
スズが言った。
若かった。今より何十年も若いハルさんが、たくさんの子どもたちに囲まれて笑っていた。
タイガがそっと手を伸ばした。
でも、触れる前に、影はさらさらと崩れていった。
「行こう」
ぼくは言った。
二つ目の扉を開けると、雲の上の駅だった。
でも、今のあの寂しい駅じゃなかった。ホームに人が立っていた。子どもたちが大きな荷物を持って、笑いながら何かを話していた。
「夏休みに、どこかへ行くところかな」
スズが言った。
「切符、ちゃんと使われてる」
ホームの子どもたちが、笑い声をあげた。
切符を手に持って、線路の先を見ていた。
楽しそうだった。その景色もさらさらと崩れて、次の扉が現れた。
三つ目は、地下王国だった。
消しゴム王の玉座の周りに、たくさんの子どもたちがいた。落とし物たちが光っていて、笑い声が聞こえた。忘れられた落とし物たちが、拾われていくところだった。
その先にも、昔の星坂町が続いた。満員のゲームセンター。バスが何台も来る停留所。縁日でにぎわう神社。子どもの歓声が響くプラネタリウム。
どの場所にも、今よりたくさんの子どもたちがいた。
今は静かになってしまったけど、確かにあった夏休みが、ここに積み重なっていた。
最後の扉は、特別な形をしていた。
他の扉より大きくて、表面に時計の文字盤みたいな模様があった。
タイガが取っ手を持つ前に、扉が、ひとりでに開いた。
中は広い空間だった。天井には、無数の時計の針がぶら下がっていた。大きさも形もばらばらな針が、でも全部止まっていた。
真ん中に、それがいた。トキワスレだった。大きさは、子どもくらいだった。形が定まっていなかった。時計の針でできた鳥みたいに見えるとき、古いマントを着た子どもみたいに見えるときがあった。全体がぼんやり光っていて、周りの空気が少し冷たかった。
目があった。丸くて、暗くて、でも、すごく澄んでいる目だった。
トキワスレは、ぼくたちを見ていた。
「来た」
声は、聞いたことのある声に似ていた。どこかに似ていると思ったら、さっきの、扉の前で聞こえた声だった。
「来ないで、と言ったのに」
「来た」
タイガが言った。
「来ないでって言われても、来なきゃいけないときは来る。おれたちの夏休みが、なくなりそうだから」
トキワスレがタイガを見た。
「なくなってしまえばいい。そうすれば、ずっと夏休みのままでいられる」
「ずっと夏休みのままって、どういうことだ」
タイガが聞いた。
「夏休みが終わらなければ、何も変わらない。店が閉まらない。人がいなくならない。楽しかった夏休みが、ずっと続く」
トキワスレがそう答えたら、ミウがこう言った。
「でも、そうじゃない。ずっと同じ夏休みが続いても、楽しくない。終わるから、次が来る。次があるから、楽しみになる」
「次なんていらない」
トキワスレの声が、少し高くなった。
「次が来たら、今がなくなる。昔の夏休みが、また一つ遠くなる。店が、また一つ閉まる。人が、また一つ減る。次が来るたびに、ぼくが守りたいものが、どんどん遠くなる」
ぼくは黙って聞いていた。トキワスレの言葉が、自分のことみたいに聞こえた。
次が来るたびに、遠くなる。転校が近づくたびに、星坂町での夏休みが、遠くなっていく気がした。だから、転校のことを言えなかった。でも。
「トキワスレ」
ぼくは呼んだ。トキワスレがぼくを見た。
「ぼくも、同じことを思ってた」
「同じ?」
「夏休みが終わったら、転校する。この町を離れる。それが怖くて、言えなかった。言ったら、本当に終わる気がして、ずっと黙ってた」
トキワスレが少し動いた。
「だから、分かる気がする。終わらせたくない気持ち」
「分かるなら、なぜ止めに来た」
「止めに来たんじゃない。話しに来た」
ぼくはポッケを背中から下ろして、前に出た。
鞄から、七枚のページを取り出した。
商店街、雲の駅、地下王国、ゲームセンター、バス停、神社、プラネタリウム。
それから、ミウが出した地図の欠片を受け取った。
「これ、ぼくたちが歩いた地図と、取り戻したページだ。この夏休みに、ぼくたちがこの町を歩いて、見て、聞いたことが、全部ここにある」
「それがどうした」
「この地図には、昔の商店街も、今の商店街も、両方ある。昔のハルさんも、今のハルさんも、どっちもいた。昔のゲームセンターも、今のゲームセンターも、どっちもある」
トキワスレが黙っていた。
「昔が好きなのは、分かる。でも、今もある。今の星坂町にも、ちゃんとあるものがある。ぼくたちが来た。駄菓子屋に行った。ゲームセンターで遊んだ。プラネタリウムで星を見た。それは、昔とは違うけど、ちゃんとあった夏休みだ」
「でも、終わる」
「終わる」
ぼくは言った。
「終わるから、次のページが描ける」
トキワスレがぴくっと動いた。
「終わらないと次に進めない。昨日取り戻したページには、ぼくたちがこの夏休みに歩いた場所が描いてある。全部、終わったことだ。でも、ちゃんとここにある。消えてない」
「消えない?」
「消えない。ユイさんが言ってた。星の光は昔の光でも、今ここに届いてる。思い出も同じだって」
トキワスレの形が、少しだけ変わった。
鳥みたいな形から、子どもみたいな形に近づいた。
丸い目が、ぼくをまっすぐ見ていた。
「ぼくが守りたかったものは、消えないの?」
「消えない。でも、しまっておくと、眠ってしまう」
スズの言葉を借りた。
「眠らせないためには、思い出を、だれかと共有しないといけない。地図に描いたり、話したり、見せたりして、ちゃんと渡さないといけない」
「渡したら、なくなる」
「なくならない。渡したら、増える」
タイガが前に出た。
「おれ、昔のスターボタンは知らない。でも、今のスターボタンを知ってる。ゴトウさんのこと、知ってる。夏休み大会をやるって、約束した。それは昔と違うけど、新しい思い出だ」
ミウが続いた。
「地図が破れた。でも、みんなで書き直した。きれいな地図じゃなくなったけど、四人の地図になった。それは昔の地図より、大事かもしれない」
スズが最後に言った。
「トキワスレさん、ここに来る子どもが少なくなったのは、本当のことだと思う。さびしかったと思う。でも、ナギサくんたちが来た。わたしたちが、見つけた」
トキワスレが、しばらく黙っていた。天井の針が、全部止まったまま、ぶら下がっていた。それから、トキワスレがゆっくりと手を伸ばした。
手の中に、一枚の紙があった。夏休み帳の、最後のページだった。
「受け取れば、夏休み一日目は終わる」
「分かってる」
「終わったら、次が来る」
「来る」
「次が来たら、今は遠くなる」
「遠くはなる。でも消えない」
トキワスレがぼくを見た。澄んだ丸い目で、まっすぐ見た。
「ナギサは、転校が怖くないのか?」
ぼくは少しだけ間を置いた。
「怖い。今でも怖い。でも、言えた。みんなに話せた。だから、少しだけ、怖くなくなった」
トキワスレの目が、細くなった。泣いているみたいだった。
「ぼくも、さびしかっただけだよ。忘れられたくなかっただけ」
「忘れない」
ぼくは強く言った。
「この町のこと、忘れない。ここで過ごした夏休みのこと、忘れない。トキワスレのことも、忘れない」
トキワスレは、最後のページを胸に抱えたまま、しばらく黙っていた。
「……忘れないって、言ってくれるなら」
小さな声だった。
「ぼくも、止めるのをやめる」
トキワスレが、最後のページをゆっくり差し出した。
ぼくは手を伸ばした。受け取る前に、少しだけ迷った。迷ったのは、一瞬だけだった。ぼくは、ページを受け取った。
天井の針が、一斉に動き出した。カチ、カチ、カチ、と音がした。
時計の針の音だった。トキワスレの形が、ゆっくりと変わっていった。
鳥みたいな形から、子どもみたいな形になって、それから、光になった。
やわらかい光だった。朝の最初の光みたいな、夕方の最後の光みたいな、そのどちらでもあるような光だった。光はゆっくりと天井に向かって上がっていって、止まっていた針の間をすり抜けて、消えた。消える前に、声が聞こえた気がした。
ありがとう、と言った気がした。確かじゃないけど、ぼくにはそう聞こえた。




