第十話 ナギサが言えなかったこと
走りながら、景色が薄くなっていくのが分かった。白い靄みたいなものが、町全体にかかっていた。商店街のアーケードが、魚屋の看板が、パン屋さんのにおいまでが、うっすらと薄れていく気がした。足が動いた。止まれなかった。
「ページを全部持っているか!」
ポッケが背中で叫んだ。
「持ってる!」
ミウが地図を抱え直した。
「走れ! 時計台に向かえ!」
ポッケの声で、ぼくたちは一斉に走り出した。
タイガが前を走っていた。いちばん足が速かった。ミウが続いた。スズがぼくの横を走っていた。スズは普段ゆっくり歩くくせに、走るのは遅くなかった。
商店街の入り口まで来たとき、タイガが突然止まった。
「なんで止まるんだ」
ぼくが聞くと、タイガはミウを見た。
「ミウ、さっきから顔色が変だぞ」
ミウが立ち止まっていた。地図を持った手が、震えていた。
「大丈夫」
「大丈夫に見えない」
「大丈夫。走れる」
ミウは前を向いて、また走り始めた。タイガが「ほんとかよ」と言いながら続いた。
アーケードに入ると、白い靄が薄くなった。屋根があるから、空の変化が直接来ない分、少しだけましだった。ぼくは走りながら、商店街を見た。
駄菓子屋「ハルちゃん堂」ののれんが、薄くなっていた。
スターボタンの「営業中」のプレートが、薄くなっていた。まるふく堂のガラクタの山が、薄くなっていた。この町が、消えようとしている。走る足に、力が入った。
「ナギサ」
ミウが走りながら言った。
「雲の駅って、どこにあったんだっけ」
「駄菓子屋の奥だよ。みんなで行っただろ」
「そう、だったよね」
ミウは地図を見た。でも、雲の駅の絵が薄くなりかけていた。
「一瞬、思い出せなかった」
ミウの声が震えた。
ぼくの胸が冷たくなった。町だけじゃない。ここで過ごした時間まで消え始めている。
「急ごう」
ぼくたちは、さらに足を速めた。
時計台の前まで来たとき、ぼくたちは足を止めた。息が切れていた。
靄はここが一番濃かった。時計台の周りだけ、白い霧みたいなものが渦を巻いていた。
時計台の針は、まだ止まっていた。七月二十一日、午前八時ちょうど。
タイガが膝に手をついて、息を整えた。
「ここから、どうする」
ポッケが言った。
「今すぐ入れるかどうか、分からない。トキワスレが、力を絞り出してる。入れないようにしてるかもしれない」
「どうすれば入れる」
「……ページを見せれば、少し道が開くかもしれない。取り戻したページを、全部合わせれば」
ミウが地図の欠片を出した。ぼくが残りの欠片を出した。合わせると、一枚の地図になった。その上に、ぼくたちが取り戻したページを重ねた。商店街の絵。雲の駅の絵。地下王国の絵。ゲームセンターの絵。古いバス停の絵。神社の絵。プラネタリウムの絵。
七枚が、地図の上に重なった。光が出た。弱い光だったけど、確かに出た。時計台の霧が、少しだけ薄くなった。扉が見えた。時計台の入り口の扉が、少し開いていた。
でも、扉までの道はまだ霧に埋まっていた。白い靄が地面を流れ、ぼくたちの足もとを隠している。
「これじゃ、どこを歩けばいいか分からない」
ミウが言った。
タイガが霧の中へ足を踏み出した。
「だったら、おれが先に行く」
「待って」
スズがタイガの腕をつかんだ。
次の瞬間、タイガが踏み出そうとしていた石畳が、音もなく消えた。下には、時計の針が渦を巻く暗い穴が開いていた。
「うわっ!」
タイガが飛びのいた。
「道が、消えたり戻ったりしてる」
スズが目を細めた。
「でも、光が見える。細いけど、扉まで続いてる」
「どこだ?」
「右。そこから、三歩まっすぐ」
タイガがうなずいた。今度は一人で走り出さなかった。スズの言葉を聞きながら、ゆっくり進んだ。
「ここか?」
「うん。そこに何かある」
タイガが霧の中へ手を伸ばした。重そうな時計の針が、道をふさいでいた。
「どけえっ!」
タイガが両手で押す。針がぎしぎしと動き、細い通り道が開いた。
「今!」
スズが叫んだ。ぼくたちはそこを抜けた。けれど、扉の前まで来ると、七枚のページがばらばらに浮き上がった。風もないのに、霧の中へ飛ばされそうになる。
「順番がある!」
ミウが叫んだ。
「わたしたちが行った順に並べて! 商店街、雲の駅、地下王国――」
ぼくとタイガがページを押さえ、スズが霧の中へ消えかけた一枚をつかんだ。ミウが一枚ずつ地図の上に並べ直す。
最後のプラネタリウムのページが重なった。
七枚の絵から光が伸び、扉まで一本の道を描いた。
そのとき、時計台の奥から声がした。
泣いているような、小さな声だった。
『来ないで』
ぼくの足が止まった。
「今の、聞こえた?」
三人は首を横に振った。ぼくにだけ聞こえた。トキワスレの声だった。
「行けそうだ」
タイガが言った。でも、ぼくは動けなかった。ずっと、言う場所を探していた。でも本当は、言わない理由を探していただけだった。
この扉へ入れば、また後回しにできる。
それでは、今までと同じだ。
ぼくは扉ではなく、三人を見た。
「タイガ」
「なに」
名前を呼んだのに、その先がすぐには出てこなかった。
ミウが地図を持つ手を止めた。スズも、ぼくの横で静かに立っている。
言わなきゃ。
そう思ったら、胸の奥がぎゅっとなった。
「ぼく、引っ越す」
やっと、それだけ言えた。
「夏休みが終わったら、となりの町に」
タイガが黙った。
「父さんの仕事の都合でもう決まってる。この夏休みが星坂町での最後の夏休みになる」
ミウが、地図をぎゅっと持った。スズは何も言わず、少しだけうつむいた。
「なんで、今まで言わなかった?」
タイガの声が低かった。
「怖かった。言ったら、本当に終わる気がして。夏休みが始まって、みんなと遊んで、普通にしていたら、少しだけ忘れられる気がして。転校することを言わなかったら、まだ大丈夫みたいな気がして」
「それって、ずるくないか」
タイガが言った。怒っているのに、声が震えていた。
「おれに、知らないまま夏休みを過ごさせるつもりだったのか」
「そういうわけじゃない」
「そういうわけじゃないって、どういうことだよ。転校するって、そんな大事なことを、なんでずっと隠してたんだよ」
「タイガ」
ミウがおだやかな声で言った。
「怒る気持ちは分かる。わたしも、同じだから」
タイガが止まった。ミウがぼくを見た。
「ナギサ、わたしも聞いてた。この間、お母さんが言ってたのを。引っ越しの準備って」
「ミウは、知ってたんだ」
「うすうす気づいてた。もっと前から。ナギサが、何かを隠してるのは分かってた。でも、自分で言うまで待とうと思って、待ってた」
ミウの声は、怒っていなかった。でも、だからこそ、胸に刺さった。
「言わないままいなくなるのは、ずるい」
ミウが言った。おだやかな声だったけど、まっすぐだった。
「大事な人に、大事なことをだまってるのは、その人のことを信用していないみたいで、寂しい」
ぼくは何も言えなかった。そうだ、と思った。ミウはぼくが転校することを知っていた。知っていても、ぼくが言い出すまで待っていた。それが、ミウのやさしさだったのに。そのやさしさに、ぼくは甘えていた。
「ごめん。タイガにも、ミウにも、スズにも。ずっと言えなかった。言ったら、夏休みが終わる気がして、怖かった。でも、言わないのも、怖かった。どうしたらいいか分からなくて、そのままにしてた」
タイガが空を見上げた。白い靄が、また少し濃くなっていた。
「……分かったよ。怒るのは当然だろって思う。でも、言ってくれたから、まあ……よかった。言わないままじゃなくて」
タイガがぼくを見た。
「夏休みが終わったら、転校するんだろ。でも今は、まだ夏休みだろ」
「うん」
「じゃあ、今は冒険する。引っ越しのことは、そのあとでちゃんと考える。それでいいか」
ぼくはうなずいた。ミウが鞄からペンを出した。
「地図に、書いておく」
「何を」
ぼくが聞くと、ミウは地図を見たまま答えた。
「今日のことを。ナギサが話してくれた日のことを」
ミウは破れた地図の欠片に、小さく「七月二十一日、ナギサが話した」と書いた。
字が少し歪んでいた。ミウの字がそんなふうになるのを、ぼくは初めて見た。
「言えたね、ナギサくん」
「うん」
スズが、ぼくの袖を少し強く握った。
時計台の霧が、また少し薄くなっていた。
七枚のページが合わさった地図が、弱い光を出し続けていた。
ポッケが言った。
「行けるぞ」
時計台の扉の前に立った。木の古い扉で、鉄の取っ手がついている。隙間から、冷たい空気が漏れていた。タイガが取っ手に手をかけた。
「開けるぞ」
「開けて」
タイガが扉を引いた。重かった。両手で引いて、足を踏ん張って、それでもゆっくりしか開かなかった。ぼくとミウも手をかけた。スズも横から押した。
四人で、扉を開けた。中から、冷たい風が来た。それといっしょに、声が聞こえた。
子どもの声だった。
低くも高くもない、性別も年齢も分からない、でも確かに子どもの声だった。
「来ないで」
声は言った。
「夏休みを終わらせないで」
ぼくたちは扉の前で、声を聞いた。怖くはなかった。
さびしい声だったから。泣いているみたいな声だったから。
「行く」
ぼくは言った。
「終わらせに行くんじゃない。話しに行く」
ポッケが、背中でぽつりと言った。
「そうだ。それだ、ナギサ」
ぼくは一歩、踏み込んだ。
その後ろから、タイガ、ミウ、スズが順番に続いた。
四人で、時計台の中に入った。扉が、静かに閉まった。




