剥がされた仮面
ホットチョコレートが入ったマグカップは宙を舞い、床に叩きつけられると、無機質な音を立てながら、砕け散った。クレアの足元にはホットチョコレートが泥のように飛び散っている。
クレアは驚いた顔でこちらをみていた。それは無理もない。だが、今彼女がこれを飲んでしまったら、彼女は深い眠りについてしまう。なぜわざわざこんな時間に彼女を無理矢理にでも寝かしつける必要があるのだろうか?そう考えた時、俺のシステムがそのさきの未来を悪と判断したのだ。
「大丈夫?」
やはり、アビーの口から出た言葉は、クレアには向けられていないのではないかと思う。
「なんでこんなことをしたの?」
「ごめんなさい。ちょっと手が滑っちゃって……」
クレアは嘘をついた。アビーの鋭い目つきがクレアに注がれる。アビーはゆっくりとクレアに近づいている。
俺はタイミングを計っていた。アビーの進路を予測して、ちょうど良いタイミングで、ホットチョコレートのふきあげをする算段だ。
だが、進路を予測することができても、そこに到達する予測時間までは正確に、出すことができない。
アビーはある一定の距離まで近づくと、足を止めた。
「あんた……、庇ったね?」
俺が思い描いていた中で、もしかしたら一番最悪な状態になってしまったかもしれない。
クレアは再び恐怖の表情を浮かべている。
「どうして?なんで私を拒むの?」
アビーのノルアドレナリン値がさらに上昇している。
「私はあなたの母親よ?腹を痛めてあんたを産んでやったの!あんたは私がいなかったら、生きていないの!なのに、なんであんたは……」
アビーが俺をみている。その目は赤く腫れ上がり、涙を浮かべている。
「ごめんなさい、お母さん。私はそんなつもりは……」
「わかっているわ!全部私が悪いの。私があんたを怒ったからいけないの。あんたが悪いことをしても、たとえあんたのためを思っていたとしても、あんたは私に怒られるべきじゃないの」
「お母さん、何を言ってるの?」
だが、母の耳に娘の声は届いていなかった。
「落ち込んでるあんたのために愛する人がホットチョコレートを買いに行って、そのまま帰ってこなかったとしても、全部私が悪いの」
俺はだんだんとアビーの言っていることの意味を察することができた。そして、この後彼女がしようとしていることも……。
「ごめんね、クレア。お母さんのためだと思って許して」
今だ!
「ホットチョコレートを検知、直ちに清掃モードに入ります」
俺はそう言いながら、床のホットチョコレートに目掛けて、アビーを巻き込みながら、突撃した。そして、アビーの重みを背中に感じながら、床の掃除を始めると、ホットチョコレートはみるみるうちに綺麗になった。
だが、俺の心の目的は、床の清潔さではない。
アビーはまだ倒れている。今がチャンス!
俺は、クレアを抱き抱え、玄関へと向かった。これで彼女をこの家から救い出すことができる。だが、いつまたこの高性能の機械が、アビーの服従ロボットに成り下がってしまうかわからない。
なら、一刻も早くクレアをこの家から離さなければ……。
俺がドアノブに手をかけようとしたとき、乱暴に扉を叩く音が轟いた。
「おい、アビーまだか?」
どすのきいた男の声が聞こえる。あの女、一体何を考えているんだ?俺は瞬時にここから家を出るのは得策ではないと考え、すぐに裏口から逃げる作戦に変更した。
こういう機転の切り替えは、数々の難関ゲームをクリアするのに必須スキルだ。
だが、その裏口への行く手を悪魔に魂を売ったアビーがもうすでに立ちふさがっていた。
「あんた!機械の分際でどういうつもりよ!クレアは私のものよ!」
やはりあのおばさんは怒号がお似合いだ。俺は急いで二階へ続く階段を駆け上がると、クレアの部屋へと駆け込んだ。俺はクレアを降ろして、部屋の棚やベッドで扉をふさいだ。
クレアも自分の勉強机を一生懸命に、扉の近くへと持って行こうとしている。
「これからどうするの?」
クレアが心配そうにこちらをみている。
そんなことはわからない。だが、不安はなかった。このハイテクなアンドロイドならどんなことでも乗り越えられる気がしている。それにもし、これがゲームの世界だとしたら、俺は誰よりもゲームのシステムに詳しい。
「心配ありません、クレア様」
その言葉を聞いたクレアはいぶかしげな表情を浮かべた。
「あなたは誰なの?」
急に飛び出してきたおかしな質問の答えを俺は必死で探した。
その時、扉の外からバタバタと慌ただしい足音が聞こえてくる。俺は彼女に静かにするよう人差し指を立てて口元にあてた。
「おい、何があったんだ?早くしないとビッグDに殺されちまうぞ」
男の声だ。恐らくさっき玄関にいたやつだろう。
「ロボットに娘をとられたのよ」
「は?何言ってんだよ!お前指示出したのか?お前の声で登録してあるんだったら、抗えないだろうがよ」
扉の向こうから聞こえてくる不吉な会話を聞いて、クレアが今にも泣き出しそうな顔でこちらを見てくる。
俺は胸を締め付けられる想いを抱きながら、優しくうなずいた。だが、不安なのは俺の方だ。
自分の意識が度外視され、意思に反した行動をとらされることがどれほど残酷なことか……。
「ちょっとあんた!早く扉を開けなさい!」
アビーの怒号に、俺のシステムが反応を示した。俺のクレア救出作戦はここまでなのか?何か策はないのか?
だが非情にもクレアのおびえる表情に覆いかぶさるように、俺の視界にはアビーからの指示が出されている。




