数年振りの手料理
「ただいまー」
思っていたよりもアビーの帰宅が早い。仕事じゃなかったのか?それともこの世界ではこれが普通なのか?
一方のクレアは、自分の運命を受け入れるのが早く、すぐにタブレットを操作して、勉強に勤しんでいた。
「クレア?二階かしら?」
アビーの声が、朝よりも高らかで美しく聞こえた。俺は彼女の様子に少し違和感を抱いた。クレアも同じことを考えているようだ。眉間に皺を寄せながら、こちらに向かっておかしな顔を向けてきている。
「そうよ、お母さん……?」
クレアの声は動揺を隠しきれていなかった。
階段を昇るアビーの足音が近づいてくる。この後考えられる状況は二つ。まず、一つ目は優しい声を出して、急にさっきの続きが始まる。二つ目は朝の彼女の様子は、朝が弱い故の態度で、今はもうすでに落ち着いていて、全く心配がいらない。この二択だ。
後者であればなんの問題もない。だが、前者だった場合、今度こそ俺がなんとかしなければ、彼女は俺の目の前で痛い目を見ることになる。そんなイベントは絶対に避けたい。
もう俺はこの世界観の虜になってしまっている。いや、もはやこの世界が、俺の新しい世界のような錯覚を起こしていると言っていいだろう。
アビーが階段を昇りきった。クレアも緊張の面持ちで、部屋の扉を見つめている。俺も、自分の体を自在に動かせるか、一つ一つの体の部位を小さく動かして、確認した。
ひとまず大丈夫だ。
アビーの姿が見えた。朝と変わらず、太った実年齢よりも老けたおばさんであることは変わらない。だが、明らかに違うところがあった。それが、表情だった。
朝はまるで悪魔に取り憑かれているのではないかと錯覚するくらい、恐怖心を煽る表情をしていた。しかし、今はまるで美味しいクッキーを焼いたばかりの優しい近所のおばさんのように優しくて穏やかな表情だった。
「ずっと勉強してるの?」
その言葉には嫌味がなく、どちらかと言えば、彼女の疲労を心配しているように聞こえる。これがいつもなのか?だが、クレアの困惑した表情を見る限り、どうやら今日限定のレアイベントのようだ。
「うん、わからないところは、エリックに教えてもらってた」
「エリック……?」
アビーの目が若干悪魔に戻ろうとしているのが見えた。
エリックとは?もしかして俺のこと?その謎のことを考えていると、俺の頭の中へとある情報が流れ込んできた。
「型番:ERC0005643」
もしかして、その三文字をとってエリックなのか?
「そう。そう呼んでるの……。ごめんなさい」
「いい名前じゃない。とりあえず、勉強はこれくらいにして、下でちょっと一休みしない?お菓子とかもいっぱい買ってあるわよ」
「お菓子?」
しかし、アビーはあまりクレアの話を聞いているようには見えなかった。
「そうよ!あ!でも、あまり食べすぎないでね。今日の夕食は豪華よ!それこそ何年かぶりに私が腕によりをかけて作っちゃうわよ!」
「お母さんが?」
クレアの反応に俺はハラハラした。ここまで盛り上がっている母親に彼女は水を差すような返事しか返していなかった。
「どうしたの?嫌かしら?」
クレアはすぐに自分の犯した過ちに気がつき、首を横に振った。
「よかったわ!用意しておくから、早く降りてらっしゃいね」
アビーは優しく言いたいことだけ言って、部屋を出て行った。その時、俺に向けてきた悪魔の眼差しと、分析機能で確認したノルアドレナリンの数値を見て、俺は確信した。
彼女はやっぱり朝の時と変わっていないと。いやもしかしたらノルアドレナリン値が通常の5倍となれば、それ以上に彼女は何か張り詰めた恐怖や不安を感じているというのか?
「どういうことかしら?」
クレアは声を潜めて尋ねてきた。まぁそれはこちらが聞きたいことなのだが、明らかに、朝よりも様子がおかしいことは確かだ。
「お菓子なんて、もう何年も買ってきたことがなかったし、手料理なんてしてるところ、私、見たことないわ」
どうやらとてつもなくレアイベントを引き当ててしまったようだ。
「ねぇ、一緒に来てくれない?」
声を潜めながら、懇願してくるクレアをもちろん放っておくことはできない。
「わかりました」
俺がそういうと、クレアは恐る恐る下の階のリビングへと向かった。アビーが鼻歌を歌っている。
「何か良いことでもあったのかなぁ?」
そう言いながら、クレアはぎゅうっと俺の手を掴んでいた。
「やっと降りてきた!さぁさぁいらっしゃいな!」
クレアは心配そうにこちらを見てきた。俺はどうして良いかわからず、とりあえず頷いてみた。すると、クレアはそれで何かを感じ取ってくれたのか、俺の手を離して、リビングのテーブルの元へと向かった。
「ホットチョコレートだ!」
「大好きでしょ?」
クレアが無邪気な声をあげている。
「今から、ちょっと早いけど夕飯を作るから、それを飲んで待っててくれる?」
アビーの声がキッチンから聞こえてくる。だが、俺はすぐに違和感に気がついた。冷蔵庫の中はパスタとミートソースしかなかった。しかし、これから料理をするはずなのに、買い物袋もなければ、キッチンには調味料すらない。
まさか、手料理の仕方を忘れてしまったわけではないだろう。
俺のその不信感が、クレアが飲もうとしていたホットチョレートへ歩みを進めた。俺の目が一生懸命に、ホットチョコレートを解析している。
解析結果が出た直後、俺は確かにアビーの声を聞いた。
「クレア、ごめんなさい……」
その瞬間、引きこもり時代に培ってきたゲーマーとしての反射神経スキルを使って、俺はクレアが持っていた、ホットチョコレート入りのマグカップを空中へと蹴り上げた。




