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第80飯 「狭間蓮、依頼は受ける」

俺の部屋、ちゃぶ台の横の壁に見えないゲートがある。


くぐった先は、禰室のホテルのロビーだった。観葉植物の陰から出てきた俺に、フロントの人が少しだけ目を丸くした。


外に出ると、空気が肺に刺さった。空は高く、雲が薄い。あの九日分の吹雪は、もう止んでいるらしかった。


『下僕。寒いのじゃ』

『剣の中で寒いも何もないだろ』


『気分の問題じゃ』


シフトで町を抜けて、禰室ダンジョンの入口へ向かう。鉄の門の脇の小屋で入場記録を書いた。名前、ランク、人数、目的。


目的の欄で、少し手が止まった。


——返却。


職員は記録簿を見て、俺の顔を見て、もう一度記録簿を見た。何か言いたそうだったが、何も聞かれなかった。


門をくぐって洞窟を二十メートルほど進む。ホテルのゲートを消し、岩壁に両手をついて、古城のエントランスに残しておいたゲートと繋いだ。



 ◇



古城のエントランスは、出てきたときのままだった。高い天井。両脇に並ぶ石の柱。椅子も、卓も、器もない。


ボンッ。


ヴィヴィが実体化して、ぐるりと周りを見回した。


「……何もないのう」

「俺たちが全部持っていったからな」


スマホを取り出す。文珠川さんがドローンで撮った映像を、昨日のうちに送ってもらっていた。


映像を止めて、壁際を見る。ここに長い卓があった。インベントリから引き出し、床に残った脚の跡にぴたりと合わせる。椅子を並べ、燭台を元の位置に戻す。


「下僕。それは、なんのためじゃ」

「元に戻してるんだよ」


「わざわざ同じ場所にか」

「同じ場所じゃないと意味がない」


次は厨房だ。石の竈が三つ並んでいる。薪、器、鉄鍋を戻していく。


最後の鍋を鉤に掛けたとき、奥の裏口の扉が音もなく開いた。


冷たい風の中に、白い鞘の剣を手にした青い肌の女が立っていた。アズールだった。


アズールは俺を見て、ヴィヴィを見て、それから元に戻った厨房を見た。その目が、わずかに揺れた。


「……何をしている」

「返しに来ました」


俺は両手を開いて、何も持っていないことを見せた。


「この城から持ち出した物を、元の場所に戻しています」


アズールは答えない。信じていない顔だった。前に会ったとき、人間は口先ばかりだと言っていた。


だから、口で説明するのはやめた。


「二階に上がります。ついて来てもらっても構いません」


アズールの横を通り過ぎる。背中に視線が刺さっていた。それでも、斬りかかってはこなかった。


寝室に四つの寝台を映像のとおりに並べ、二階の部屋を全部終えて廊下に出ると、外の光が少し傾いていた。アズールが壁にもたれて、腕を組んでいる。剣は鞘に収まったままだ。


「……書庫の本がない。帳面と地図もだ」

「はい。今、東卿の大学にあります。俺の恩師が預かっています」


アズールの目が鋭くなった。


「必ず返します。ただ、先生があの本を研究させてほしいと言っています」

「……だから、寄越せと」


「違います。貸してほしいんです。大学からの正式な依頼です。持ち主の許可がなければ研究はしない、と先生は言っています」


アズールは、しばらく黙っていた。


「……なぜだ。ダンジョンの中の物は誰のものでもない。お前たち人間はずっとそう言って、勝手に持っていった。なのに、なぜ返す」

「あなたが泣いていたからです」


アズールの肩が、びくりと跳ねた。


「大事なものを奪われた人の顔だと思いました。……俺も、そういう顔をしたことがあるので」


アズールが目を逸らした。


そのとき、ヴィヴィが一歩前に出た。下からじっとアズールの顔を見上げる。アズールの身体がこわばった。


「おぬし。右脚の魔王剣を、ずっと守っておったのじゃろ」

「そうです……私たちを、覚えていらっしゃるのですか」


「覚えておらん」


アズールの顔が、わずかに歪んだ。


「わしは魔王の心臓じゃが、魔王のことはあまり覚えておらん。今わしが覚えておるのは、暗い祭壇にいたことと、この世界の食い物はうまいことじゃ」


「あなた様は……この前、私に自由だと言いました」

「言ったな」


ヴィヴィは、にっと笑った。


「それは今も変わらん。好きに生きればよい。好きなものを食えばよい。わしはそう思うておる」


アズールが息を呑んだ。


「……ついて来い。見せたいものがある」


城の裏口を出ると、前に二階の窓から見た石の小屋があった。床に左右の釣り合いがとれていない幾何学模様が刻まれている。


「ここに立て」


模様の中に立つ。ヴィヴィが俺の袖を掴んだ。アズールが胸の前で手のひらを合わせると、模様が外側から青く灯り、次の瞬間には窓のない部屋に立っていた。


段を上がって床板を押し上げると、そこは物置だった。扉の向こうに、ごく普通の家の廊下が続いている。畳の匂いがした。


「……ここは」

「私の家だ」


玄関の外は坂の上だった。眼下に、雪をかぶった禰室の家並みが見える。


アズールは何も言わずに坂を下り始めた。



 ◇



坂を下りきった先に、見覚えのある店があった。


北海めぐみ食堂。引き戸に『本日休業』と手書きの札が下がっている。


アズールが戸を開けた。中は暖かく、ストーブの上でやかんが湯気を立てている。


客席が埋まっていた。カウンターに五人、テーブル席に十人以上。年寄りに、作業着の男に、スーツの女。子どもを膝に乗せた母親もいる。厨房の奥には、白い前掛けの女性が立っていた。


全員が一斉にこっちを見た。


「……アズール。連れてきたのかい」

「ああ」


カウンターの端の年配の女性がゆっくりと立ち上がり、俺を見て、それからヴィヴィを見た。


その輪郭が、陽炎のように揺らいだ。皺の刻まれた肌が青く変わり、髪の間から長く尖った耳が伸びる。


テーブル席でも、カウンターでも、厨房の奥でも。一人、また一人と青い肌に変わっていく。


店の中の人間は、俺一人になった。


「この町には、私たちのような者がたくさんいる」


振り返ると、アズールの輪郭も揺らいでいた。青い肌が白く変わり、尖った耳が髪の中に消える。髪をうしろで一つにまとめた、二十代前半くらいの女性。


前にこの店で見た店員だった。


「……義名間さん?」

「おお! わしのザンギに水をこぼした女じゃ!」


アズールが、ほんの少しだけ困ったように笑った。


勧められるまま、テーブル席に座った。向かいにアズールが座り、厨房の女性が湯呑みを二つ置いていった。


「五十年前、この世界にダンジョンが現れた」


アズールが湯呑みを両手で包んだまま言った。


「私たちはそのときこちらへ来た。来たくて来たわけじゃない。気づいたら知らない世界にいた。言葉も分からない。食べ物も分からない。帰り方も分からない」


ストーブの上のやかんが、小さく鳴っていた。


「一族の長だった私の母は、この町で死んだ。死ぬ前に、私に言った。この世界には食べるものがたくさんある。だから、ここに残りなさい、と」


「……下僕、わし、ここで同じことを言うたのう」

「ああ。言ってたな」


あのとき義名間さんが水をこぼしたのは、そういうことだったのか。


「私たちはここで暮らしている。人間の姿を借りて、人間の名前で、人間の仕事をして。この店で町の者に飯を食わせている」


カウンターの年寄りが、小さく頷く。


「人間は私たちのことを知らない。知れば怖がる。それに以前の一件で、魔族は敵だと皆が思っているだろう」


桜樹町ダンジョンのシルラスの一件か。


「それでも私たちはここが好きだ。向こうに帰るつもりはない」


ストーブの前、母親の膝の上で、青い肌の小さな子どもが眠そうに目をこすっていた。


「アズールさん。俺に、魔王を復活させるつもりはありません」

「……ではなぜあの祭壇にいた」


「ヴィヴィが壁にさわったら、勝手に開いたんです。あそこに魔王剣があることも、ヴィヴィとひとつになることも知りませんでした。俺はてっきり、あなたが俺の魔王剣や魔剣を狙って襲ってきたんだと思ってました。違うんでしょう?」

「当たり前だ!」


アズールは息を吐いて、声を落とした。


「私たちの目的は、右脚の魔王剣と、ここの暮らしを守ることだ。……魔王剣のほうは、もう守れなかったがな」


視線が俺の隣に落ちる。ヴィヴィは湯呑みをふうふうと冷ましていた。


「狭間蓮、依頼は受ける」


アズールは顔を上げた。


「書庫の本も帳面も地図も貸してやる。好きに研究すればいい。いずれ返すなら、それで構わない」

「……ありがとうございます」


「ただし条件がある。私たちのことは、しばらく誰にも言わないでほしい」


アズールはまっすぐに俺を見ていた。


「この町に私たちがいること。この店のこと。私が、義名間梓であること。お前の協会にも、お前の国にもだ」


俺は店の中を見回した。眠りかけている子どもまで、全員が俺の返事を待っていた。


「分かりました」


アズールの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。


「それとは別に、一つ提案があります。大学の研究に、協力者として加わってもらえませんか」

「……今、隠れていたいと言ったばかりだが」


「隠れたままで構いません。名前も顔も出しません。話を聞くのは、神崎先生と文珠川さんだけです」

「……人間に、何を教えろと」


「資料の内容。ダンジョンのこと。そして五十年前のことです。来たくて来たわけじゃないって話を、ちゃんと記録に残したいんです」


アズールが黙った。


「それに魔族は敵だって広めたの、俺の配信でした。でもあなたたちは多分、あの二人組、シルラスとカジンとは違う。そうでしょう?」

「……ああ。そうだ」


「もちろん謝礼も出ます。人間とまっとうに取引したっていう記録を、少しずつ積み上げていきたいんです」

「……なぜお前がそこまでする」


「——いつか、魔族だと言っても大丈夫な日が来るように。みんなで仲良く飯を食いたいじゃないですか」


俺は笑って、隣のヴィヴィを見た。


「……お前のことは、まだ信じたわけじゃない」

「はい」


「大学の件は受ける。それ以外は、考えておく」

「ありがとうございます」


頭を下げると、ヴィヴィに袖を引かれた。


「下僕、話は終わったかの。わしは腹が減ったのじゃ。海鮮丼を頼むのじゃ」

「今日は休業だ」


「なんじゃとぉ!?」


ストーブの前で、青い肌の子どもがくすくすと笑った。



=========================

なお街を歩いている時、アズールは幻影魔法で蓮以外には姿を見えなくしてあります。


本日もう一話を更新しています!

ぜひそちらもよろしくお願いいたします!


 

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