↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
92/94

第79飯 「……すみません、騒がしくして」

店は、神蔵坂(かぐらざか)を下りきったところにあった。


外濠沿いに建つ、レンガ造りのビルの二階。『ピッツェリア ラ・ランテルナ』という店だ。


階段を上がると、木の温かい匂いがした。天井の低い店内に、使い込まれた木のテーブルが並んでいる。奥の壁に、レンガを積んだ大きな窯があった。その口の中で、薪がオレンジ色に燃えている。


そして、その先がテラスだった。


広い。板張りの床が外濠に張り出していて、手すりの向こうは水面だった。対岸の街の灯りが、濠に揺れている。夜風が、ほんのり水の匂いを運んできた。


「おお……」


ヴィヴィが、手すりに張りついた。


「水の上で飯を食うのか!」

「水の横だな」


「同じことじゃ!」


案内されたテラス席に座る。四人掛けの、木の丸テーブルだった。


メニューを持ってきた店員が、俺の顔を見て、一瞬固まった。


「……あの、失礼ですが」

「はい」


「狭間さん、ですよね。昨日のニュースの」


隣のテーブルの会話が、ぴたりと止まった。


「え、短剣ニキ?」

「本物?」

「Sランクの人だよね。千門の」

「スタンピード止めた人じゃん」


ざわ、と空気が揺れた。テラスのあちこちから、視線が集まってくる。


やっぱり、昨日の今日では無理だったか。


「……すみません、騒がしくして」

「いえ、とんでもないです!」


店員が慌てて首を振った。


そのとき、奥のテーブルから、年配の男性が一人立ち上がった。ゆっくりこっちへ歩いてくる。


「突然すみません」


男性は、俺の前で深く頭を下げた。


「羽多に住んでいる娘が、あの夜、倉庫街で助けていただいたそうです。気づいたら化け物が消えていて、お礼を言おうとしたら、もういなかったと」


「……」


「娘の代わりに、言わせてください。ありがとうございました」


何と返せばいいのか、分からなかった。


あの夜は、とにかく急いでいた。一つでも多くの群れを片付けることしか考えていなかった。誰を助けたかなんて、ほとんど見ていなかった。


それでも、その誰かは、ちゃんとそこにいたのだ。


「……娘さんが無事で、よかったです」


ようやくそれだけ言うと、男性はもう一度頭を下げて、自分の席へ戻っていった。


テラスのどこかで、小さな拍手が起きた。それが少しずつ広がって、やがて止んだ。


ヴィヴィが、俺の顔をじっと見上げていた。


「下僕。顔が赤いぞ」

「うるさい」


「照れておるのじゃな」

「いいから、早く頼め」


先生が、何も言わずにワインのグラスを傾けていた。目元だけが、やけに優しかった。


 ◇


「お待たせしました。こちら、店長からです」


最初に運ばれてきたのは、頼んでいない皿だった。


薄く切った生ハムが、花びらのように皿に広げてある。脂の白い筋が、テラスの灯りに透けて光っていた。横には、皮つきのまま揚げたポテトが山になっていて、その上から何かが削りかけてある。


「トリュフのポテトです。どうぞ」


香りが、先に来た。


土と森の匂いを、ぎゅっと濃くしたような香り。それが、揚げたてのポテトの湯気に乗って、テーブルいっぱいに広がった。


「な、なんじゃこの匂いは」


ヴィヴィの鼻がひくひく動いている。


ポテトを一本つまんだ。カリッ。表面が軽く割れて、中はほくほくだった。塩気のあとに、さっきの香りが鼻の奥まで抜けていく。


生ハムを一枚、口に入れる。舌の上で、脂がすっと溶けた。塩辛さと、熟成した肉の甘みが、ゆっくり広がっていく。


「……うまいっす」


文珠川さんが、目を閉じていた。


「研究室のカップ麺と同じ世界の食べ物とは思えないっす」

「普段何食べてるんですか」


「カップ麺っす」


 ◇


奥の窯に、店員が長いへらを差し込んだ。


薪の火の中から、丸いピザが引き出される。縁がぷっくりと膨らんで、ところどころ黒く焦げていた。


ヴィヴィが、椅子の上に立ち上がった。


「下僕! あれじゃ! あれが、ピザがうまく焼けるやつじゃ!」

「座れ」


「禰室の巨人を焼いたやつと同じじゃ!」

「同じじゃない。あと店の人に聞こえる」


テーブルに、ピザが四枚並んだ。


赤いトマトソースに白いモッツァレラと緑のバジルが乗った、マルゲリータ。チーズを使わず、トマトとにんにくとオレガノだけのマリナーラ。海老とイカとムール貝がごろごろ乗った、ペスカトーレ。焼いたナスとズッキーニとパプリカが色とりどりに並んだ、オルトラーナ。


禰室から帰った日に、ヴィヴィが挙げた四つだ。一つも忘れていなかったらしい。


「いただくのじゃ!」


ヴィヴィがマルゲリータを一切れ持ち上げた。チーズが、糸を引いてどこまでも伸びる。


「伸びるのじゃ! どこまで伸びるのじゃ!」


伸びきったチーズを、ヴィヴィがまとめて口に押し込んだ。


もぐもぐ。


「…………」


ヴィヴィの動きが止まった。


「……下僕」

「なんだ」


「わしは今、五百年ぶりに、本当のピザを食うておる気がする」

「五百年前にピザあったのか」


「知らん! うまいのじゃーーーー!」


ヴィヴィの声が、外濠の水面を渡っていった。対岸の歩道で、誰かが振り返るのが見えた。


テラスのあちこちから、笑い声が上がる。


俺も一切れ食べた。


生地の縁が、さくっと割れた。中はもちもちとしていて、薪の香ばしい匂いが口に広がる。トマトの酸味と、モッツァレラの甘みと、バジルの青い香り。三つしか乗っていないのに、足りないものが何もない。


マリナーラは、チーズがないぶん、トマトとにんにくの味がまっすぐ来た。ペスカトーレは、噛むたびに海老の甘みと、貝の出汁がじゅわっとあふれた。オルトラーナの野菜は、窯の熱で甘くなっていて、ナスがとろりと溶けた。


「狭間様、こっちのペスカトーレ、やばいっす。貝の汁が生地に染みてるっす」

「オルトラーナもいいですよ。ナスがとろとろで」


「先生、ワインに合いますか」

「合うね。困ったことに、とても合う」


四枚あったピザは、十分もしないうちに、全部ヴィヴィと三人の胃袋に消えた。比率は、だいたい七対一対一対一だった。


 ◇


「お待たせしました。トリュフクリームのパスタです」


幅広のパスタが、白いクリームソースに絡んで皿に盛られていた。


店員が、手のひらほどの黒い塊を取り出した。銀色の削り器を、皿の上にかざす。


シャッ、シャッ、シャッ。


薄く削られた黒いトリュフが、ひらひらとパスタの上に降り積もっていく。さっきのポテトとは比べものにならない香りが、テーブルを包んだ。


ヴィヴィが、皿の上に顔を寄せて、目を閉じた。


「……下僕。これは、匂いだけで飯が食える」

「食うのはパスタだぞ」


フォークに巻きつけて、口に運ぶ。


濃厚なクリームが、舌にまとわりついた。そこに、トリュフの香りが重なる。噛むと、幅広の麺がもっちりと歯を押し返してくる。チーズのコクと、黒胡椒のぴりっとした刺激。最後に、また香りが鼻の奥へ抜けていく。


「…………」


誰も、しばらく口をきかなかった。


最初に沈黙を破ったのは、やっぱりヴィヴィだった。


「おかわりじゃ」

「早いな」


 ◇


最後に、店員が三つの皿を運んできた。


「本日のアイスケーキです。三つでよろしかったですね」

「三つじゃ!」


一つ目は、真っ白なホールケーキだった。周りを、半分に切ったいちごがぐるりと囲んでいる。てっぺんにも、つやつやのいちごがいくつも乗っていた。


二つ目は、赤くて丸いドーム形のケーキだった。黒い点々と頭がついている。


「てんとう虫じゃ!」


ヴィヴィが、皿に顔を近づけた。てんとう虫のケーキには、ちょこんと白い花まで乗っている。


三つ目は、色とりどりの小さなアイスが、花束のように盛り上がっていた。ピンク、オレンジ、黄色、薄い緑。その間に、白い花が二輪添えてある。


「これは……花束か……」


ヴィヴィが、三つの皿を順番に見て、固まった。


「食うのが、もったいないのじゃ」


「……お前、熱でもあるのか」

「失礼な!」


ヴィヴィは三秒迷ってから、スプーンを手に取った。


「でも食うのじゃ!」


だろうな。


いちごのケーキにスプーンを入れる。中は、白いバニラアイスと、赤いいちごのソースが層になっていた。口に入れた瞬間、冷たさが舌に広がって、すぐにいちごの甘酸っぱさが追いかけてくる。


「冷たいのじゃ! でも甘いのじゃ! いちごがじゅわっとするのじゃ!」


てんとう虫は、赤い殻の中が、木苺のシャーベットとバニラアイスの二層になっていた。


「すっぱいのと甘いのが、交互に来るのじゃ!」


花束のケーキは、一つ一つのアイスの味が違った。マンゴー、木苺、青りんご、レモン。


「一口ごとに、違う果物の味がするのじゃ! 花束の中に、果物の畑があるのじゃ!」


「詩人っすね、ヴィヴィアン様」


文珠川さんが、感心したように言った。


三つのアイスケーキも、ほとんどがヴィヴィのものになった。俺と文珠川さんと先生は、それぞれ二口ずつもらった。それで十分だった。


 ◇


テラスに、夜風が吹いていた。


外濠の水面に、街の灯りが揺れている。先生はワインの最後の一口を、ゆっくり飲んでいた。文珠川さんは、満腹で椅子の背にもたれている。


ヴィヴィは、俺の隣で、空になった三つの皿を満足そうに眺めていた。


「下僕」

「なんだ」


「明日は、どこへ行くのじゃ」

「禰室だ」


「また寒いところか」


ヴィヴィが、少しだけ黙った。


「……あの女に、会うのか」

「会えたらな、と思ってる」


ヴィヴィは、それ以上何も言わなかった。


濠を、一艘の小舟がゆっくり渡っていく。舳先に吊るされたランタンの灯りが、水の上に細い道を描いていた。


明日は、あの古城に行く。


彼女の家の物を、返しに行く。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。