第79飯 「……すみません、騒がしくして」
店は、神蔵坂を下りきったところにあった。
外濠沿いに建つ、レンガ造りのビルの二階。『ピッツェリア ラ・ランテルナ』という店だ。
階段を上がると、木の温かい匂いがした。天井の低い店内に、使い込まれた木のテーブルが並んでいる。奥の壁に、レンガを積んだ大きな窯があった。その口の中で、薪がオレンジ色に燃えている。
そして、その先がテラスだった。
広い。板張りの床が外濠に張り出していて、手すりの向こうは水面だった。対岸の街の灯りが、濠に揺れている。夜風が、ほんのり水の匂いを運んできた。
「おお……」
ヴィヴィが、手すりに張りついた。
「水の上で飯を食うのか!」
「水の横だな」
「同じことじゃ!」
案内されたテラス席に座る。四人掛けの、木の丸テーブルだった。
メニューを持ってきた店員が、俺の顔を見て、一瞬固まった。
「……あの、失礼ですが」
「はい」
「狭間さん、ですよね。昨日のニュースの」
隣のテーブルの会話が、ぴたりと止まった。
「え、短剣ニキ?」
「本物?」
「Sランクの人だよね。千門の」
「スタンピード止めた人じゃん」
ざわ、と空気が揺れた。テラスのあちこちから、視線が集まってくる。
やっぱり、昨日の今日では無理だったか。
「……すみません、騒がしくして」
「いえ、とんでもないです!」
店員が慌てて首を振った。
そのとき、奥のテーブルから、年配の男性が一人立ち上がった。ゆっくりこっちへ歩いてくる。
「突然すみません」
男性は、俺の前で深く頭を下げた。
「羽多に住んでいる娘が、あの夜、倉庫街で助けていただいたそうです。気づいたら化け物が消えていて、お礼を言おうとしたら、もういなかったと」
「……」
「娘の代わりに、言わせてください。ありがとうございました」
何と返せばいいのか、分からなかった。
あの夜は、とにかく急いでいた。一つでも多くの群れを片付けることしか考えていなかった。誰を助けたかなんて、ほとんど見ていなかった。
それでも、その誰かは、ちゃんとそこにいたのだ。
「……娘さんが無事で、よかったです」
ようやくそれだけ言うと、男性はもう一度頭を下げて、自分の席へ戻っていった。
テラスのどこかで、小さな拍手が起きた。それが少しずつ広がって、やがて止んだ。
ヴィヴィが、俺の顔をじっと見上げていた。
「下僕。顔が赤いぞ」
「うるさい」
「照れておるのじゃな」
「いいから、早く頼め」
先生が、何も言わずにワインのグラスを傾けていた。目元だけが、やけに優しかった。
◇
「お待たせしました。こちら、店長からです」
最初に運ばれてきたのは、頼んでいない皿だった。
薄く切った生ハムが、花びらのように皿に広げてある。脂の白い筋が、テラスの灯りに透けて光っていた。横には、皮つきのまま揚げたポテトが山になっていて、その上から何かが削りかけてある。
「トリュフのポテトです。どうぞ」
香りが、先に来た。
土と森の匂いを、ぎゅっと濃くしたような香り。それが、揚げたてのポテトの湯気に乗って、テーブルいっぱいに広がった。
「な、なんじゃこの匂いは」
ヴィヴィの鼻がひくひく動いている。
ポテトを一本つまんだ。カリッ。表面が軽く割れて、中はほくほくだった。塩気のあとに、さっきの香りが鼻の奥まで抜けていく。
生ハムを一枚、口に入れる。舌の上で、脂がすっと溶けた。塩辛さと、熟成した肉の甘みが、ゆっくり広がっていく。
「……うまいっす」
文珠川さんが、目を閉じていた。
「研究室のカップ麺と同じ世界の食べ物とは思えないっす」
「普段何食べてるんですか」
「カップ麺っす」
◇
奥の窯に、店員が長いへらを差し込んだ。
薪の火の中から、丸いピザが引き出される。縁がぷっくりと膨らんで、ところどころ黒く焦げていた。
ヴィヴィが、椅子の上に立ち上がった。
「下僕! あれじゃ! あれが、ピザがうまく焼けるやつじゃ!」
「座れ」
「禰室の巨人を焼いたやつと同じじゃ!」
「同じじゃない。あと店の人に聞こえる」
テーブルに、ピザが四枚並んだ。
赤いトマトソースに白いモッツァレラと緑のバジルが乗った、マルゲリータ。チーズを使わず、トマトとにんにくとオレガノだけのマリナーラ。海老とイカとムール貝がごろごろ乗った、ペスカトーレ。焼いたナスとズッキーニとパプリカが色とりどりに並んだ、オルトラーナ。
禰室から帰った日に、ヴィヴィが挙げた四つだ。一つも忘れていなかったらしい。
「いただくのじゃ!」
ヴィヴィがマルゲリータを一切れ持ち上げた。チーズが、糸を引いてどこまでも伸びる。
「伸びるのじゃ! どこまで伸びるのじゃ!」
伸びきったチーズを、ヴィヴィがまとめて口に押し込んだ。
もぐもぐ。
「…………」
ヴィヴィの動きが止まった。
「……下僕」
「なんだ」
「わしは今、五百年ぶりに、本当のピザを食うておる気がする」
「五百年前にピザあったのか」
「知らん! うまいのじゃーーーー!」
ヴィヴィの声が、外濠の水面を渡っていった。対岸の歩道で、誰かが振り返るのが見えた。
テラスのあちこちから、笑い声が上がる。
俺も一切れ食べた。
生地の縁が、さくっと割れた。中はもちもちとしていて、薪の香ばしい匂いが口に広がる。トマトの酸味と、モッツァレラの甘みと、バジルの青い香り。三つしか乗っていないのに、足りないものが何もない。
マリナーラは、チーズがないぶん、トマトとにんにくの味がまっすぐ来た。ペスカトーレは、噛むたびに海老の甘みと、貝の出汁がじゅわっとあふれた。オルトラーナの野菜は、窯の熱で甘くなっていて、ナスがとろりと溶けた。
「狭間様、こっちのペスカトーレ、やばいっす。貝の汁が生地に染みてるっす」
「オルトラーナもいいですよ。ナスがとろとろで」
「先生、ワインに合いますか」
「合うね。困ったことに、とても合う」
四枚あったピザは、十分もしないうちに、全部ヴィヴィと三人の胃袋に消えた。比率は、だいたい七対一対一対一だった。
◇
「お待たせしました。トリュフクリームのパスタです」
幅広のパスタが、白いクリームソースに絡んで皿に盛られていた。
店員が、手のひらほどの黒い塊を取り出した。銀色の削り器を、皿の上にかざす。
シャッ、シャッ、シャッ。
薄く削られた黒いトリュフが、ひらひらとパスタの上に降り積もっていく。さっきのポテトとは比べものにならない香りが、テーブルを包んだ。
ヴィヴィが、皿の上に顔を寄せて、目を閉じた。
「……下僕。これは、匂いだけで飯が食える」
「食うのはパスタだぞ」
フォークに巻きつけて、口に運ぶ。
濃厚なクリームが、舌にまとわりついた。そこに、トリュフの香りが重なる。噛むと、幅広の麺がもっちりと歯を押し返してくる。チーズのコクと、黒胡椒のぴりっとした刺激。最後に、また香りが鼻の奥へ抜けていく。
「…………」
誰も、しばらく口をきかなかった。
最初に沈黙を破ったのは、やっぱりヴィヴィだった。
「おかわりじゃ」
「早いな」
◇
最後に、店員が三つの皿を運んできた。
「本日のアイスケーキです。三つでよろしかったですね」
「三つじゃ!」
一つ目は、真っ白なホールケーキだった。周りを、半分に切ったいちごがぐるりと囲んでいる。てっぺんにも、つやつやのいちごがいくつも乗っていた。
二つ目は、赤くて丸いドーム形のケーキだった。黒い点々と頭がついている。
「てんとう虫じゃ!」
ヴィヴィが、皿に顔を近づけた。てんとう虫のケーキには、ちょこんと白い花まで乗っている。
三つ目は、色とりどりの小さなアイスが、花束のように盛り上がっていた。ピンク、オレンジ、黄色、薄い緑。その間に、白い花が二輪添えてある。
「これは……花束か……」
ヴィヴィが、三つの皿を順番に見て、固まった。
「食うのが、もったいないのじゃ」
「……お前、熱でもあるのか」
「失礼な!」
ヴィヴィは三秒迷ってから、スプーンを手に取った。
「でも食うのじゃ!」
だろうな。
いちごのケーキにスプーンを入れる。中は、白いバニラアイスと、赤いいちごのソースが層になっていた。口に入れた瞬間、冷たさが舌に広がって、すぐにいちごの甘酸っぱさが追いかけてくる。
「冷たいのじゃ! でも甘いのじゃ! いちごがじゅわっとするのじゃ!」
てんとう虫は、赤い殻の中が、木苺のシャーベットとバニラアイスの二層になっていた。
「すっぱいのと甘いのが、交互に来るのじゃ!」
花束のケーキは、一つ一つのアイスの味が違った。マンゴー、木苺、青りんご、レモン。
「一口ごとに、違う果物の味がするのじゃ! 花束の中に、果物の畑があるのじゃ!」
「詩人っすね、ヴィヴィアン様」
文珠川さんが、感心したように言った。
三つのアイスケーキも、ほとんどがヴィヴィのものになった。俺と文珠川さんと先生は、それぞれ二口ずつもらった。それで十分だった。
◇
テラスに、夜風が吹いていた。
外濠の水面に、街の灯りが揺れている。先生はワインの最後の一口を、ゆっくり飲んでいた。文珠川さんは、満腹で椅子の背にもたれている。
ヴィヴィは、俺の隣で、空になった三つの皿を満足そうに眺めていた。
「下僕」
「なんだ」
「明日は、どこへ行くのじゃ」
「禰室だ」
「また寒いところか」
ヴィヴィが、少しだけ黙った。
「……あの女に、会うのか」
「会えたらな、と思ってる」
ヴィヴィは、それ以上何も言わなかった。
濠を、一艘の小舟がゆっくり渡っていく。舳先に吊るされたランタンの灯りが、水の上に細い道を描いていた。
明日は、あの古城に行く。
彼女の家の物を、返しに行く。




