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幕間11 青緑の恐怖


夕方の上り便は、いつもより少しだけ混んでいた。


カモメレールの運転席から見える東卿湾は、西日を受けて一面が橙色に光っている。運転士の相馬は、この時間の景色が好きだった。二十年この路線を走ってきて、いまだに飽きない。


後ろの客室からは、修学旅行らしい学生の笑い声が聞こえる。スーツケースを転がした観光客が二組。仕事帰りの会社員が数人、吊り革につかまってスマホを眺めている。


列車が虹大橋のループを抜け、海の上へ出た。


橋の下を貨物船がゆっくりと進んでいく。その向こうに、お代場の砂浜と観覧車が見えた。


いつも通りの景色だった。


相馬は何気なく、湾の奥のほうへ目をやった。


海の一部が、盛り上がっていた。最初は船の引き波かと思った。だが船はいない。波の形でもない。


海面が内側から押し上げられるように、丸く、ゆっくりと膨らんでいる。


膨らみは一つではなかった。二つ、三つ、四つ。湾のあちこちで、同じように海が盛り上がっていく。


「……なんだ、あれ」


声に出していた。


客室のざわめきが、少しずつ変わっていくのが背中越しに分かった。乗客も気づき始めている。窓に顔を寄せる気配。スマホのシャッター音。


膨らみの一つが、弾けた。


水柱が上がったのではない。盛り上がった海面がそのまま崩れて、大きなうねりになって岸のほうへ押し寄せていく。橋脚の下を抜け、埠頭の岸壁にぶつかり、白く砕けた。


その砕けた波の中から、何かが立ち上がった。


人の形をしていた。背丈は大人の男と変わらない。だが頭が魚だった。口が前へ突き出して、肩と背中にヒレのようなものが並んでいる。


全身が濡れていた。青緑に濁った肌が夕日を弾いてヌルリと鈍く光る。手には長い槍のようなものを握っていた。


魚もどきは一体ではなかった。


波が引くたびに、岸壁の上に人影が残っていく。十、二十。もう数えられない。


運転台の無線が鳴った。


『指令より全列車。湾岸部で異常事態発生。走行中の列車は最寄り駅まで徐行し、乗客を降車させてください。繰り返します——』


相馬は息を吸った。手が勝手に動いていた。二十年同じ動作を繰り返してきた手だった。


速度を落とす。お代場の駅が近づいてくる。


マイクを取った。


「お客様にお知らせいたします。ただいま湾岸部で異常事態が発生したとの連絡が入りました。この列車は次のお代場駅で運転を打ち切ります。係員の指示に従って、落ち着いて——」


自分の声が震えていないことに、少しだけ驚いた。


列車がホームに滑り込む。ドアが開いた。


ホームの手すり越しに、海辺の公園が見下ろせる。遊歩道を、人が逃げてくる。その後ろを青緑の魚もどきが追ってくる。


魚もどきの一体が、逃げ遅れた男の背中に槍を突き出した。


男が倒れる。人影はその上にかがみこんだ。


相馬は目をそらした。


「降りてください! 陸側の出口へ! 走らないで、でも急いで!」


運転席を飛び出して、ホームに立った。乗客がドアから溢れ出てくる。学生たちの顔から笑いが消えていた。


階段の下から、水の滴る音がした。


ぴちゃ、ぴちゃ、と。


濡れた足音が、ゆっくりと階段を上がってくる。



 ◇



「はーい、こちらお代場海浜公園の屋台村に来ております!」


カメラに向かって、桃瀬聖は両手で大きな紙皿を掲げた。


「見てくださいまし、この海鮮焼き! ホタテにエビにイカ、全部まとめてバター醤油ですわ!」


「聖、食べる前に説明して」

「説明しながら食べますわ」


藤里さんのツッコミを聞き流して、ホタテにかぶりつく。熱い。じゅわっとバターが溢れて、醤油の焦げた香りが鼻に抜けた。


「んんーっ! 最高ですわ!」

「カット! はい、いったん止めまーす」


撮影スタッフの声がかかった。フルーツバスケットの新企画、湾岸グルメロケの一本目だ。夕日の時間を狙って、屋台村からスタートしている。


「聖さん、口の横にバターついてる」

「あら」


吟さんにハンカチを渡されて、慌てて口元を拭いた。梨花さんと藍さんは次のロケ地の確認で、マネージャーの一条さんと地図を覗き込んでいる。


そのとき、全員のスマホが同時に鳴った。


耳障りな警報音だった。屋台村のあちこちで、同じ音が重なり合って響く。


聖は画面を見た。


=========================

【探索者協会】緊急警報

東卿湾岸部にて大規模なモンスターの出現を確認。

付近の探索者は避難誘導に協力してください。

=========================


「……え」


顔を上げる。


藤里さんがもう海のほうを見ていた。眼鏡の奥の目が、すっと細くなっている。


「全員、装備」


いつもの撮影の声ではなかった。司令塔の声だった。


一条さんが撮影スタッフをまとめて屋台村の奥へ下がらせる。聖たちは車からそれぞれの武器を取り出した。聖が手にしたのは、白い錫杖だ。


海のほうから悲鳴が上がった。


駅のほうから、人の波が押し寄せてくる。学生服の一団。スーツケースを引きずる観光客。制服を着た中年の男が先頭で声を張り上げていた。


「陸側へ! こっちへ走って!」


その人波の後ろから、それは来た。


粘つく青緑色の鱗の体。魚の頭。水でできた三叉の槍。


「水棲型……サハギン系です!」


藤里さんが叫ぶ。


「梨花、藍、前へ! 吟は側面! 聖は避難民の保護!」


「了解!」

「心得た!」


梨花さんと藍さんが駆け出した。


先頭のサハギンへ、梨花さんの剣が走る。


「スラッシュ!」


刃が胴を薙いだ。手応えのない音がして、サハギンの上半身がずるりとずれる。


ずれた上半身が、元の位置に戻った。


切り口から水が伸びて、繋がっていく。鱗の下から覗いたのは、肉ではなく水だった。


「なっ……」


「斬華!」


「カマイタチ!」


藍さんの居合が三体をまとめて横一文字に断つ。藤里さんの風の刃が群れのど真ん中で弾ける。


どちらも飛沫が地面に落ちて寄り集まった。また立ち上がる。


「効かぬな……」


「胸!」


吟さんの声が飛んだ。


「胸の奥に、何か光ってる! たぶんあれが本体!」


聖は目を凝らした。青緑の鱗の奥、胸のあたりに、青く光る小さな塊が透けて見える。


吟さんが傍の一体の懐へ飛び込んだ。短剣が胸に突き刺さる。


刃先が光る塊に届かなかった。


水が刃を包み込んで押し戻す。吟さんの短剣が、胸の手前で止まっている。


サハギンの槍が、吟さんの顔めがけて突き出された。


「フォースフィールド!」


聖が錫杖を突き立てた。光の力場が吟さんの前に立ち上がり、水の槍を弾いた。


「下がって、吟さん!」


吟さんが跳びのく。


避難してきた人たちが、聖の後ろに固まっていた。さっきの制服の男が学生たちを背中にかばって立っている。制服の片袖が破れて、腕から血が流れていた。


聖は錫杖を握り直した。


「皆さん、わたくしの後ろから離れないでくださいまし! フォースフィールド!」


光の力場が半球状に広がって、避難民の一団をまるごと包み込んだ。


力場の外で、梨花さんと藍さんが斬り続けている。斬っても斬っても、サハギンは元に戻る。海からは次々と新しい影が上がってくる。


数が、減らない。聖の頭に浮かんだのは、従姉の顔だった。


——亜里沙お姉さまは海外だ。今この場には来られない。


なら。


聖はスマホを取り出した。指が震えて、連絡先の画面をうまく滑れない。


渋家のダンジョンで救ってくれた恩人。真宿の密林で金色の猿を一瞬で消し飛ばした人。


配信で見た、今は北海堂にいる。でもきっと来れるはず!


呼び出し音が鳴る。一回。二回。出て。お願い。


『はい、もしもし』


「狭間様!」


声が裏返った。


「東卿で! ダンジョンスタンピードが発生しました!」


『え……?』


電話の向こうの声が止まる。


ガン、と力場に衝撃が走った。


サハギンが一体、結界に取りついていた。ぬめる魚の顔が押しつけられている。槍が何度も突く。


錫杖を握る手に重さがのしかかってくる。


『スタンピード……? 桃瀬さん、今どこに——』


「狭間様! はやく戻ってきて!」


力場が軋む。聖は両手で錫杖を掴んだ。スマホが手から滑り落ちて、足元で跳ねる。画面に罅が走った。


「聖!」

「大丈夫ですわ!」


大丈夫ではなかった。外はもういくつもの影で埋め尽くされている。


背中で学生の一人が泣いている。制服の男が「大丈夫、大丈夫」と繰り返している。


聖は唇を噛んだ。


「ここから先は、一歩も通しませんわ!」


夕日が、湾の向こうに沈もうとしていた。



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