第67飯 「それに触るな!」
ヴィヴィが祭壇の間へ足を踏み入れた。
一歩、また一歩。夢の中を歩くような足取りのまま、まっすぐ祭壇へ向かっていく。右手がゆっくりと持ち上がり、突き立った剣の柄へ伸びた。
「待て、ヴィヴィ!」
俺は祭壇の間に飛び込んだ。ヴィヴィの指先と柄の間は、もう何十センチもない。
その腕を掴もうと手を伸ばした、そのときだった。
「それに触るな!」
背後から声が飛んだ。
振り返る。謁見の間の入口に、誰かが立っていた。
女だった。白い鞘の剣を手にしている。
——青い肌。尖った耳。
桜樹町ダンジョンの四層で見た、あの二人、シルラス、カジンと同じ特徴だった。
白銀の髪は肩口で揺れ、その頭には大きな黒いとんがり帽子。黒いマントを身にまとい、青い衣服と黒い手袋が暗がりに溶け込んでいる。
「……魔族?」
魔族は魔王剣を手に入れようとしている。そう考えてヴィヴィの周りの空間を固める。ロックの膜が、立ち尽くす小さな身体をまとめて包んだ。
伸びかけていたヴィヴィの指先が見えない壁に触れて止まる。ヴィヴィはそれでも、柄の方を見つめたまま動かなかった。
「お前たち、そこから離れろ!」
女が叫んだ。
「誰だ、お前は。魔族か」
俺は問いただした。
「黙れ!」
「なんで俺がお前の言うことを聞かなきゃならない」
いきなり命令してくる得体の知れないやつの言うことを聞く道理などない。
「お前に選択肢などない! このイカれた盗人どもめ!」
「……盗人?」
女の目が吊り上がった。
「そうだ! ここは我らの城だ! 人間どもが勝手にやってきて、我らの城に侵入して、全て持ち去った! 今度は魔王剣まで取るつもりか!」
魔王剣。
祭壇の剣を見る。黒い刀身に赤い筋。ヴィヴィとよく似ている。しかしあれが、魔王剣だというのか。
「絶対にそんなことはさせない! 魔王様は、絶対に復活させない!」
怒りとともに言葉が叩きつけられてくる。そのどれもが、俺の知っている話と噛み合わない。
この城が魔族のものだと言う。俺たちが盗人だと言う。そして、魔王を復活させるな、と。
どういうことだ。桜樹町ダンジョンであった魔族——シルラスは逆に魔王剣を集め、魔王を甦らせ、故郷へ帰る。それが五百年の悲願だとあいつは全国配信で叫んでいた。
同じ青い肌で、言っていることが正反対だ。
「どういうこと——」
「どうしてもここから魔王剣を奪いたいようだな」
女の声が低くなった。
「そこまでして、私たちを、魔族を苦しめたいのか。……くそ。ようやく、ようやく居場所ができてきたというのに……」
「お前……何を言って……」
「黙れ黙れ黙れ!」
女が顔を上げた。
泣いていた。
頬を涙が伝っている。なのにその顔は怒りに染まっていた。歯を食いしばり、目を見開いて、泣きながら俺を睨んでいる。
「お前たちには何ひとつ奪わせない」
白い鞘から剣が抜かれた。刀身が外の光を反射し薄く輝く。
「凍てつけ——ファタ・モルガナ」
女が持つ剣が魔力によって青白く光ると、足元から白いものが湧き上がった。
霧だ。床を這い、壁を伝い、見る間に膝の高さを越え、胸を越え、天井まで満ちていく。入口に立つ女の姿が、白い靄の向こうに溶けて消えた。
「くそ……一体どういうことだよ!」
すでに三歩先が見えない。ダンジョンの雪原の吹雪と同じ真っ白の空間、ホワイトアウトだ。
どこからか声がした。
「私は幻氷のアズール。お前たちを、この城から絶対に出さない」
方向が分からない。右からのようにも、真上からのようにも聞こえる。
パキキキ、と何かが凍る音がした。
「——ロック!」
自分の身体の周りにロックを纏う。直後、前方の石床を突き破って、氷の刃が何本も突き上がってきた。
バキィン、と甲高い音がして、刃が膜に阻まれて砕けた。
「さすがだな……Aランク」
霧の奥で声が笑った。
「では、これはどうだ?」
バキバキ、と周囲で氷の軋む音が続いた。霧の中に、人の背丈ほどの氷の塊がいくつも立ち上がっていく。
その氷の表面が磨かれたように滑らかになり、一つ一つに青い肌の女の姿が映り込んだ。
前にも、右にも、左にも、アズールがいる。
最も近い一体に狙いを定める。
「バースト」
氷が砕け散る。——ただの氷だった。アズール本人ではない。
その瞬間を待っていたように、背後で空気が動いた。
振り向く暇もなく、氷の人形が腕を振り下ろしてくる。ロックの膜が受け止める。今度は右から。左から。砕けた氷のかけらの向こうから、また別の人形が滑り出てくる。
バキン、ガキン、と膜の外で氷がぶつかり続けた。俺のロックは破られない。
だが氷の人形から発せられる冷気は膜を通ってきていた。じわじわと俺の指先を痺れさせてくる。
「くそっ、攻撃できない!」
攻め手がなかった。ここは古城の中だ。置かれているものは全部が貴重な遺物だ。それを損なう攻撃はできなかった。
火も雷も使えない。ゲイボルグの風は織物も彫り物もまとめて吹き飛ばす。ヨトゥンは一度も射ったことがない。
ディバイドもバーストも、狙う相手が見えていればの話だ。この霧の中で放てば、城に当たってしまう。
そして何より、俺は迷っていた。
さっきのアズールの言葉が本当なら、悪いのは俺たちの方だ。
ここはダンジョンだ。ダンジョンの中の物は誰のものでもない。だから持って帰っていい。俺も文珠川さんも、その理屈でここまで来た。一階の長卓も、二階の書庫の本も、全部インベントリに入れた。
それがあの女の家のものだったとしたら。
本当かどうかは分からない。分からないのに、嘘じゃないと、俺はもう感じてしまっている。
あの涙は嘘じゃない。大事なものを奪われた人間が流す涙だ。
俺はそれを知っている。
霧の中でヴィヴィアンを握る手に力が入らなかった。
「どうした!」
アズールの声が響いた。
「短い時間でここまで来た割には、威勢がないな! お前、本当にあの狭間蓮か?」
霧が裂けた。
正面から白く光る刃が振り下ろされてくる。とっさに魔王剣ヴィヴィアンで受けた。
ギィン、と刃と刃がぶつかる。
目の前にアズールの顔があった。涙の跡の残る頬。燃えるような目。
「……どちらでもいい」
アズールの剣撃は見た目よりずっと重い。刃越しに、アズールの視線が俺の手元に落ちた。
「その剣、魔王剣ヴィヴィアンだろう」
視線が霧の向こう、膜の中で立ち尽くすヴィヴィの方へ流れる。
「あのお方が実体化しているのが、何よりの証拠だ」
アズールの刃に力がこもった。
「つまりお前は、魔王様を復活させようとしているわけだ……」
「俺は、そんなつもりは——」
「そんなことはさせない!」
叫びとともにアズールの魔力が部屋中に膨れ上がった。
ロックが軋んだ。——嘘だろ、俺の魔力が、ロックが押し戻される——刃が迫ってくる!
「私たちは、あっちには帰らない!」
押し込まれる……!?




