第66飯 「ヴィヴィー、どこいったー」
書庫を出て、俺たちは二階の残りの部屋へ向かった。
廊下には細い窓が等間隔に並んでいる。どれも背伸びしてようやく外が覗ける高さだった。吹雪は相変わらずで、窓の外は白一色に塗りつぶされている。
何気なく一つを覗いたとき、風の向きが変わって雪の幕が一瞬だけ薄くなった。
城の裏手、数十メートル先に小さな小屋が見えた。石積みの四角い建物で、屋根に雪が厚く載っている。扉は閉まっていた。
「物置ですかね、あれ」
「城の付属施設っすかね。倉庫とか、氷室とか」
「あとで見に行きましょう。中身があるなら回収しないと」
ヴィヴィは俺たちの後ろで、天井のあたりをぼんやり見上げていた。
◇
「狭間様、ここなんかおかしくないっすか?」
「どこがです」
廊下の突き当たり近く。扉を開けて部屋を撮影し、廊下に戻り、次の扉へ。それを繰り返していた文珠川さんがドローンを止めた。
「この部分っす。さっきの部屋の奥の壁と、廊下のこの壁、位置が合ってない気がして……」
文珠川さんが廊下の壁と、開けたままの扉の奥を交互に指さした。
部屋の奥行きを目で測る。廊下の長さを足で測る。確かに合わない。部屋の奥の壁から廊下のこの壁まで、人が二、三人並んで立てるくらいの空白がある。
「本当だ。隠し扉ですかね」
「多分そうっすね! ちょっと待ってください。こういうの得意なんで」
文珠川さんが壁に沿って歩きだし、壁の燭台の前で止まった。
「狭間様、これ回収しなかったっすよね」
「取れなかったんです。壁に固定されてて」
「他の部屋のは全部取れたっす。これだけ取れないのは変っす」
燭台の受け皿に手をかけて、文珠川さんが持ち上げた。かたん、と上にずれる。
ごとり、と壁の奥で何かが外れる音がした。
燭台の横の壁が、指一本ぶん奥へ沈んだ。文珠川さんと顔を見合わせてから、俺がその壁を押す。石の壁が重く軋みながら、内側へ開いた。
「……開いたっす」
「こう仕掛け、本当にあるんですね。初めて見ました」
「私も……実物は初めてっす」
中は狭い。窓がなく、壁際に棚が一つ。部屋の真ん中に古びた木のテーブルが据えてある。
そのテーブルの上に、大きな羊皮紙が広げられていた。
羊皮紙の上には、左右の釣り合いがとれていない奇妙な幾何学模様が描かれている。細い線が何重にも重なり合って、その線の一本一本が、息をするようにゆっくりと明滅していた。
「……なんだこれ、魔法陣か?」
「光ってるっすね」
近づいて覗き込むと、魔法陣の線の下に、もう一枚の絵が透けていた。
下の端に逆三角形の地形がある。流氷と雪原と山。既視感がある。——禰室ギルドで一度みた地図だ。
「文珠川さん。これ、地図ですよね」
「禰室ダンジョンっすね……」
文珠川さんの指が羊皮紙の上をなぞる。雪原のさらに上、山の部分に細かな線が続いている。城から見て山の裏側にあたる場所にも、何かが描き込まれていた。
「ここ……うちらが行ってない場所まで描いてあるっす」
ギルドで見た荒谷さんの地図は山の手前までだった。この一枚はそれ以上のことまで詳細に描かれている。
「なんでこんなものがここに」
「この城の人たちが描いたとしか思えないっす。ダンジョンの中に住んでて、ダンジョンの全部を知ってた人たちが」
文珠川さんが顔を上げた。
「……これ、持って帰るっすか?」
俺はもう一度、羊皮紙を見た。
魔法陣の明滅は止まっていない。線に沿って何かが流れているのが肌で分かる。魔力だ。今もこの瞬間も、何かが動いている。
「やめておきましょう。何かが動いてるみたいですし、下手に触って変なことになっても困ります」
「……っすよね」
「そのかわり、しっかり撮っておいてください。隅々まで」
「任せてくださいっす」
文珠川さんがドローンを呼び寄せた。部屋中を何周もかけて撮っていく。
俺は部屋の入口に立って、それが終わるのを待っていた。
◇
吹雪の中、城の裏手の小屋の扉が内側から開いた。
アズール・ギナは雪を踏んで外へ出た。手には白い鞘の剣。外套の襟を立てることもしない。この程度の寒さは、一族の身体には障らない。
城の裏口の錠を、自分の鍵で開ける。中は静かだった。
厨房を抜け、広間へ出る。荒らされてはいなかった。壁に傷ひとつなく、床に泥の跡もない。探索者というものは、もっと乱暴に踏み込むものだと思っていた。
だが、長卓やそれ以外の調度品がなくなっている。厨房の鍋も、調理道具も。動かしようのない物だけを残して、城の一階からほとんどの物が消えていた。アズールの部屋も、母と過ごした部屋も、一族の思い出も全てなくなっていた。
——ギリ。アズールは拳を強く握り込んだ。
玄関の扉へ回る。内側に掛けておいた閂が、床に二つに分かれて落ちていた。切り口は鏡のように平らだった。
アズールが閂の断面を指でなぞったとき、頭上で床板が軋んだ。
上の階から、足音と、かすかな話し声がした。
◇
二階の奥に、もう一つ部屋があった。
書庫とは違って、机がひとつだけの部屋だった。壁に棚が少し。机の上に筆記具の置き台と、革の表紙の帳面が数冊。誰かが一人で書き物をするための場所だ。
「ここ……書斎っすね」
「本当ですね。ここにも重要な遺物がありそうだ」
「撮るっす!」
文珠川さんがドローンを飛ばし始めた。撮影が終わるまでは回収できないので、俺は手持ち無沙汰になって窓に寄った。
相変わらず外は白い。雪が斜めに流れ、窓枠の隅に吹き溜まっていく。
また雪の幕が薄くなり、さっきと同じ小屋が見えた。
「……あれ?」
扉が開いていた。
さっき見たときは閉まっていた。今は半分ほど開いて、その隙間から暗い中が覗いている。
風で開いたのか。あの重そうな扉が。
「なぁヴィヴィ、あそこの扉って——」
振り返ると、誰もいなかった。
「……ヴィヴィ?」
◇
ヴィヴィアンは廊下を歩いていた。
城に入ったときから、何かが呼んでいる。どこから、何から呼ばれているのかも分からなかった。ただ天井の向こう、上からいうことだけは分かった。
一階では遠かった。二階へ上がるとその感覚が少し近くなった。
そして今ははっきりしている。
足が勝手に動く。廊下の角を曲がり、階段を探し、見つけた段に足をかける。背後で下僕が誰かと話している声が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。
ふらり、ふらりと、夢の中を歩くような足取りで、ヴィヴィアンは三階へ上っていった。
気配がまた強くなった。
◇
「ヴィヴィ、剣に戻ったのか」
腰の短剣に手をやる。黒い刀身も、赤い筋も、柄の目玉のような宝石もいつも通りそこにある。
『…………』
返事がない。いつもなら何か言ってくる。腹が減っただの、飽きただの、つまらんだの。今は何もない。
「……いないのか」
剣の中にもいない。つまり実体化したまま、あいつだけがどこかへ行ったということだ。
あいつがどこかへ行くのは珍しくない。沖那和の浜でも勝手に走っていった。今回もそれだろうか——。
「文珠川さん、すみません。ヴィヴィがどこかに行ってしまったみたいなので、探してきます」
「え、ヴィヴィアン様がっすか」
「たぶんまた勝手にうろついてるだけです。すぐ戻るので、ここで撮影を続けててください。何かあったら大声で呼んでください」
「わかったっす。撮影続けてるっす」
廊下へ出た。
「ヴィヴィどこだー」
返事はない。石の廊下に俺の声だけが響いた。
「おーい、ヴィヴィー。飯なら後で出すぞー」
これで出てこないのはおかしい。こいつは飯という単語に、城の反対側からでも反応するやつだ。
エントランスに出る。燭台の火がまだ灯っていて、石柱の影が長く伸びていた。
「ヴィヴィー、どこいったー」
そのとき、頭の上で足音がした。
とん、とん、とゆっくりした足音だった。エントランスの天井の、さらに上。
「……三階か」
階段を上がった。三階の廊下は二階より短く、突き当たりに両開きの大きな扉があった。
扉は開いていた。
◇
広い部屋だった。
天井が高く、左右の壁に細い窓が並び、床には石が敷き詰められている。
部屋の奥が一段高くなっていて、そこに石の椅子が据えてあった。ヨトゥンの氷の玉座とは比べものにならないほど小さい。人が座るための大きさだ。
謁見の間だ。この城の主がここで誰かと会っていた。
椅子の後ろの壁一面に、大きな織物が掛かっていた。色は褪せているが、中央に紋章が織り込まれているのが分かる。円の中に、何かの形。
その椅子の前に、ヴィヴィが立っていた。
「おい、ヴィヴィ」
返事はない。こっちを見もしないまま、ヴィヴィがふらりと前に出た。一段高くなった床に上がり、石の椅子に手を伸ばして——触れずに、通り過ぎた。
椅子の後ろへ回り、織物の端をめくり上げる。その下の石の壁にも、同じ紋章が彫り込まれていた。
ドクン、と心臓が鳴った。この部屋に入ってからずっと早鐘を打っていたことに、今になって気づいた。
うなじを触られるような感覚がある。エントランスで何度も感じたものと同じだ。だが気配がまるで違う。
足元を見る。この部屋はエントランスの真上にある。
——ここだ。ここから俺はずっと見られていた。
「おい、ヴィヴィ。ここなんかヤバイ。早く帰ろう」
ヴィヴィの手が、壁の紋章に触れた。
紋章が光った。彫り込まれた線に沿って、青白い光が走る。円を一周し、中の形をなぞり、壁全体に広がっていく。
ゴゴゴゴ、と低い音がして、紋章の刻まれた壁が左右に割れた。
冷たい空気が吹き出してきて、奥に小さな部屋が現れた。窓はなく壁に燭台もない。それなのに、部屋の真ん中だけがぼんやりと明るい。
石の祭壇があった。八皇子ダンジョンで見たものと同じ形の祭壇だった。
その中央に一本の剣が突き立っていた。
黒い刀身に、血管のように赤い筋が走っている。
魔王剣ヴィヴィアンによく似た剣だった。




