第59飯 「あのね」
アズール・ギナは古城の奥にある特別な部屋にいた。
そこは通常の区域からは隠されていて、燭台に特別な操作をしなければ入れない。
アズールはそこで一族に伝わる秘術を行っていた。古びた木のテーブル、その上には大きな羊皮紙が広げられ、中には非対称な幾何学模様の魔法陣が描かれている。
両手をつき紙に魔力を通すことで発動する魔法儀式は、この不定期なダンジョンの吹雪を操つるものだ。
ただアズールはこの魔法儀式の詳しいことをほとんど知らない。触れて魔力を注げば風が動く。一族はこれを秘術と呼んでいる。
彼女が秘術を教わったのは、母が死ぬ数ヶ月前だった。
——お前の祖母がこの場所で秘術を作った。
魔王の右脚を封じるのにここは都合が良かったのだという。吹雪が吹き荒れ、霜の巨人が徘徊し、そのすべてが険しい氷の岩山の上にある。作らずとも侵入を拒む条件が揃っていた。
皮の手袋を外す。燭台の光を受け青い手のひらが露わになった。この姿になるのは久しぶりだった。
ギルドに詰めている仲間から連絡があった。あの探索者たちは入場記録に九日と書いていたという。
ならば九日の間、ずっと吹雪を吹かせよう。魔法陣の起動に多少の魔力を消費するが問題ない。すぐに回復するだろう。
人間は寒さと退屈に弱い。九日あれば、たいてい心のほうが先に折れる。
魔法陣に手を添えて魔力を流す。魔力が抜けていく感覚が指先から肘まで上がってきたあたりで、アズールは手を離した。
外の風が変わったのが分かる。彼女は手袋をはめ直して部屋を出た。
◇
俺とヴィヴィ、文珠川さんが北海めぐみ食堂に着いたのは、昼を少し過ぎたころだった。
ピークを外したせいか、客は昨日より少ない。昨日の女性店員さんは見当たらなかった。
案内された席に座り、味噌ラーメン、ザンギ、焼き魚定食、カレーを頼む。
「進めなくて残念でしたね。これからどうするっすか」
「……そうですね」
「まずは飯じゃ!」
「そうだな、飯を食ってからだな」
そわそわしているヴィヴィがすでに割り箸を手に、味噌ラーメンが来るのを今か今かと待ち構えている。
ラーメンや他の品が来た。
湯気がまっすぐ上がって、脂の膜の上でバターが溶けかけている。昨日と同じ絵だ。
「ほほう」
ヴィヴィがレンゲを沈めて、一口すすった。そして天井を見上げる。
「昨日と同じじゃ。同じ味じゃ」
ニッコリとした顔で報告してくる。俺は焼き魚の身をほぐしながら聞き流した。カレーもうまい。ルーがしっかり煮込んであって家庭的な味わいがポイント高い。
禰室ダンジョンの雪原ゾーンはほとんど進んでないのに、飯だけはうまい。
引き戸が開いた。
昨日の店員さんが、エプロンを手に持って入ってくる。
「あ、梓ちゃんおかえりー。体調大丈夫ー?」
「大丈夫です。すみません、遅くなって」
「無理しなくていいからね。顔真っ白だよ」
俺は何気なく目をやった。確かに白い。首から上だけ血の気が引いている。この寒さだ、風邪でも引いたんだろうか。
エプロンをつけた女性店員、義名間さんがうちのテーブルに水を注ぎに来た。
「昨日の方ね」
「どうも」
「あなた、あの人よね。狭間蓮さん」
「はい。ご存じなんですか」
「ここ最近ずっとテレビに映ってるわよ、あなた」
義名間さんがテレビを指す。大土島のニュースが放送されており、その後の島の復興状況をリポーターが中継していた。俺の動画がワイプで映っていた。
「さっすが狭間様、有名人っすね~」と文珠川さんが茶化す。
「わしは!? わしはどうなのじゃ!」
「もちろんあなたもよく出てるわよ」
「ほほーーー、そうかそうか」
ヴィヴィがにやっとして得意げに鼻を鳴らす。それから「もっと言ってよいぞ」という顔でこちらを見て、すぐにラーメンに戻った。
「禰室ダンジョンよね。この街に来るってことは」
「はい、そうです」
「どう、順調?」
三人で顔を見合わせた。文珠川さんが肩をすくめる。俺は義名間さんに答えた。
「あんまりですね」
「そう」
「吹雪がひどくて、いったん帰ってきました」
「私はよく知らないけど、そういうので有名らしいわね」
「そうなんですか」
「この街、ダンジョン目当ての探索者さんがよく来るから。そういう話をたまに聞くのよ」
義名間さんが水差しを持ち直した。
「いつも思うんだけど、探索者さんって、なんでそこまでしてダンジョンに行くのかしらね」
嫌味ではなかった。ただの世間話の続きという顔をしている。
窓際の客がさっきから新聞をめくっていない。俺はそれに気づいていない。
「——探索者によっていろいろ理由はあるでしょうけど。俺の場合は飯ですかね」
「……飯?」
「うむ!」
ヴィヴィが口の周りに汁をつけたまま立ち上がり、威張るように胸を張る。
「わしは飯のために潜っておるのじゃ。五百年間何も食べてなかったからの! この世界は食うものがたくさんある!」
コップの水が、縁を越えてこぼれた。
「あ」
「……ごめんなさい」
「おい、わしのザンギが濡れるであろう」
「お前が唾を飛ばすからだろ」
義名間さんが布巾でテーブルを拭いて、「ごゆっくり」と奥に戻っていった。
ヴィヴィは今度はザンギを食べることにしたようだ。俺も冷めないうちにザンギをもらう。
「おい、下僕! それはわしのじゃ!」
「いいだろ、別に。みんなで食うんだよ」
「だめじゃ! 今日は寒かったから全部わしのじゃ!」
「意味わからん!」
結局ザンギを全部ヴィヴィに食われてしまった。仕方がないから残りの味噌ラーメンを食べる。麺は少し伸びていた。……こいつ伸びたから俺に押しつけやがったな。
「あのね」
会計のときに、義名間さんが言った。
「あそこの吹雪、何ヶ月も続くこともあるって聞いたことがある」
「そんなに長く……ですか」
「うん。去年もあった。吹雪が強いと地元の探索者でも入らない時期があるんだって」
そういえば荒谷さんも不定期だと言っていたな。
「無理しないで、帰ったほうがいいよ」
親切な人だと思う。体調が悪いのに外から来た探索者を心配してくれている。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
俺たちは挨拶をして店を出た。
◇
外に出ると、ふわふわとした雪が降っていた。ダンジョンでは今も猛吹雪なのに街のほうは平和なものである。
宿までの道を歩きながら俺はどのようにダンジョンを攻略するか考えていた。——方角さえ分かれば進める。
雪の積もった狭い道に、電柱が二本、三本と並んでいる。
なんとなく、一歩、横にずれてみた。
手前の電柱と、奥の電柱が一本に見える。体を戻すとまた二本に割れる。もう一度ずらすと重なる。
「…………」
戻る。重なる。ずれる。割れる。
「下僕、何をしておる。阿呆か、阿呆じゃな」
「うるさい、お前も俺のゲートでやってただろうが」
「やっておらん、阿呆はお主じゃ!」
やれやれとあきれた顔をするヴィヴィ。くっそムカつく。
「ついに壊れたのじゃ」
「狭間様? 雪道であんまり動くと転ぶっすよ」
「ちょっと待ってください」
道の真ん中で一人だけ左右にふらふらしている男。傍から見たら相当に怪しい。
しかし、今はそれどころじゃない。俺の頭に何かがひらめこうとしている。
俺はゲートを二つ作っている。ダンジョン入口と、今日張った岩山。多分どっちも位置、方角と距離が感覚的に分かる。
その二つが、重なって見える場所。
「——一本しかない」
方角も何もわからない吹雪の中に、一本の線が引ける。
「文珠川さん。明日、進めます」
「え」
「ゲートを二つ作っています。入口と岩山です。二つをつなげて延長方向に、まっすぐ行けます」
文珠川さんが眼鏡を押し上げ、一本指をたてて答えた。
「——見通し線っすね」
「見通し?」
「測量で使うっす! 二点を重ねて方向を出すやつっす! うちの分野でも遺跡の方位測るときに——狭間様それ天才っす!」
「いま電柱で思いつきました!」
「……電柱っすか」
「電柱っす!」
ヴィヴィが電柱を見上げて、意味が分からんという顔をしている。
「……でも」
文珠川さんの声が少し落ちた。
「方角が分かっても、前は見えないっすよね。またアイスゴーレムが出たらどうするっすか」
そこは心配していない。
「大丈夫です。俺はマグマの中から生還した男ですよ。吹雪の中よりデンジャーなゾーンからリターンしたんだから、方向さえ分かれば何も問題ないっす」
「……ふふっ。それ、昨日も言ってたっす」
宿の明かりが、通りの先に見えていた。
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アズール「うっそ、さっきザンギ十人前食べたの!?」




