幕間10 墓守の一族
日当たりの悪い部屋の隅で、片手にスマートフォンを握ったままシルラス・ゴズが窓の外を睨んでいた。
そこは帰還派の拠点。ここ数日、彼はずっとこの調子だった。
その原因ははっきりしている。あの配信である。
魔族の存在が、日本中に晒された。青い肌も、角も、魔王軍という名も。テレビは連日それを流し、人間たちは魔族という言葉を覚えてしまった。
幻影魔法がある限り、正体が露見することはない。それは理解していた。カジンにもそう言われたし、シルラスは自分でもそう納得した。
しかし。
「……あの子は、大丈夫なのだろうか」
北の町で暮らす娘のことであった。
あの子は人間に紛れて生きている。人間の名を使い、人間の中で働いている。もしも疑われ、誰かに気づかれたら。そう思うと毎日気が気ではなかった。
シルラスは通話画面を開いた。
登録されている番号はほとんど使われていない。最後の発信履歴は二年前だ。
呼び出し音が鳴った。
一回。二回。——十回を超えたあたりで、音が途切れた。
『おかけになった電話は——』
シルラスは無言で画面を閉じた。
もう一度かけた。
同じだった。
「シルラス様。娘さんに電話っすか」
いつの間にか、カジンが後ろに立っていた。相変わらず足音がしない。幻影魔法を使い茶髪のツンツンヘアーで市民に成りすました格好をしていた。
「……ああ、そうだ」
「そうなんすね。電話、出ないっすか」
「出ない」
シルラスはスマートフォンを机に置いた。溜息がつい口から出てしまっていた。
「魔族のことが、これだけ騒がれておるのだ。あの子の身に何かあってはと思ってな。それだけだ。他意はない」
「はあ」
シルラスはカジンの訝しげな様子に苛立ちを感じた。
「心配して、何が悪い」
「全然悪くないっすよ」
「そうだろう」
「でもシルラス様。娘さんに嫌われてるじゃないっすか」
カジンが少し首をかしげながらシルラスに言う。部屋の空気が止まった。
「……」
「あ、すんません。事実っすけど」
「……事実を言うな」
「すんません」
シルラスの肩がゆっくりと落ちていった。
「……私は、何か間違えたのだろうか」
背中が丸くなる。声が小さくなる。ついさっきまで魔王軍残党の長として窓を睨んでいた男は、もういなかった。
「あの子は昔はもっと……こう、私の後をついて回っていたのだ……」
「はあ」
「それが今は、電話にも出ぬ」
シルラスが机に突っ伏す。配下たちが遠巻きに見ているが誰も近寄らない。この状態の長に近寄ると長くなることを、全員が学習していた。
「まあまあ、シルラス様。これでも食べて、元気出してくださいよ」
カジンだけが動じていなかった。ごそごそと紙袋を探って、細長い箱を取り出す。
「……なんだ、それは」
「ロールケーキっす」
箱には金色の箔押しがしてあった。こじゃれた書体で、店の名が刷ってある。
「卿島ロール、っていうんすけど」
カジンが箱を開けた。
断面が白い。薄い生地がくるりと巻かれて、その内側にクリームが詰まっている。というより、ほとんどクリームだった。生地は外側を一周しているだけで、あとは全部が白い断面だ。
「……ほう、これは」
「本店は大佐華なんすけど、今朝、東卿百貨店に出てたんで買ってきたんすよ。ここのロールケーキ、絶品らしいっすよ。めっちゃ並んだっす」
「絶品か……」
「一時間並んだっす」
「……一時間だと?」
「一時間っす」
「人間どもが、一時間並ぶのか。菓子のために」
「並ぶっすねえ」
カジンはヘラヘラした様子で手際よく紙皿に一切れ切り分ける。シルラスの前に紙皿に置かれたロールケーキがやってきた。
シルラスはほぼ無意識にフォークを入れた。
抵抗がない。生地もクリームも、フォークが触れた瞬間に道を譲った。持ち上げると、切り口がわずかにたわむ。
ゆっくりと口に入れた。そして消えた。
「…………」
シルラスは動きを止めた。思わず自分の頬が上気している。口の端がにやけている。
咀嚼していない。舌の上で勝手になくなっていく。あとに残ったのは甘さと微かな乳の香りだけだった。
「…………ふむ」
もう一口。
「…………ふむ!」
三口目でなくなった。
「カジン」
「はいっす」
「これは、うまいな」
「っすよね」
「もう一切れ」
「どうぞっす」
五分後。シルラスは椅子に深く腰かけ満足そうに腕を組んでいた。窓の外の陽射しがさっきより明るく見える。
「……そうだな。落ち込んでいても、何にもならぬ」
「そっすね」
「そうだ。あの子はもう大人だ。私が心配せずとも、自分でなんとかするだろう」
「そっすね」
「それにいずれ分かることだ。魔王様が復活し、我らが故郷へ帰れるとなれば——あの子とて考えを改めよう」
カジンは何も言わなかった。ただ空になった箱を畳んでいた。
「しかしカジン。よくこのような良い物を見つけてきたな」
「まあ、たまたまっす」
「さすがは我が右腕よ。うむ、実に良い働きだ」
「どうもっす」
シルラスが立ち上がった。背筋が伸びている。声に張りが戻っている。
「よし。今日も励むぞ! 魔王剣は必ず、この手に集めてみせる!」
「「「おおーーー!」」」
帰還派一派は、今日も平和だった。
◇
北海堂。
ここは<北海めぐみ食堂>。
カウンター八席と、四人掛けのテーブルが四つ。それで満席になる小さな店だ。昼時はいつもこうなる。
「はいお待ち、味噌ラーメンとザンギ定食ね」
「梓ちゃん、こっち水ちょうだい」
「はーい」
義名間梓は、盆を抱えて店内を歩いていた。
二十代前半に見える若い女で、動きに無駄がない。注文を受けながら空いた皿を下げ、水を足し、伝票を書く。常連たちは彼女を梓ちゃんと呼ぶ。
この町で、この店で、彼女はもう長いこと働いている。長いこと、というのがどれくらいなのかを、客の誰も正確には知らない。
昼の波が引いた。
「梓ちゃん、先休憩入っていいよ」
「ありがとうございます」
厨房の奥、裏口に近い場所に椅子が一つ置いてある。彼女はそこに腰を下ろした。
テレビがついていた。客席に届かないように音は絞ってある。画面には、つい最近話題になっていた島が映っていた。
——大土島。解放型ダンジョン。
一週間前の映像が、いまだに繰り返し流れている。溶岩の中に立つ巨大な樹。避難する島民。そして、その中心にいる男。
狭間蓮。
テロップが出ている。Aランク探索者認定へ、と書いてある。
梓は画面を見つめた。手の中の湯呑みを持つ指に、わずかに力が入った。
あの男が有名になるほど、あの配信が掘り返される。
魔族。魔王軍。青い肌の男。
あれ以来、この町の同胞たちは息を詰めて暮らしている。テレビで魔族の話題が出るたび、店の空気が一瞬止まるのが分かる。誰も口には出さない。出さないが、全員が同じことを考えている。
——もし疑われたら。
皆、四十年以上、誰にも気づかれずに生きてきた。それが、たった一度の配信で事態はひっくり返ってしまった。
そして今、その配信を消し飛ばすほどの勢いで、あの男は全国に顔を売っている。
英雄なのだそうだ。
——よくもまあ。彼女は湯呑みに口をつけた。
◇
上着のポケットでマナーモードにしているスマートフォンが震えた。取り出して画面を見ると、珍しい名前が表示されていた。
梓は、それを三秒ほど眺め、ポケットに戻した。
震動が服ごしに続いていたが、しばらくして止まった。
母のことを思い出すのは、いつもこういうときだ。
カエン・ギナ。もう四十年以上前に死んだ。この町に来て、ようやく暮らせる見込みがたったそのすぐ後だった。
母はよく話をする人だった。幼い頃から同じ話を何度も聞かされた。
——いいかい、アズール。
あちらの世界の風の通る家だった。この北の大地と同じように、窓の外にはいつも山が見えていた。
——魔王様の御体は、七つに分かたれた。
魔王が斃れたのは五百年前。その体は七つの剣となり、それぞれが別のダンジョンの奥深くに安置された。
——そして、それぞれに墓守がついた。
七つの氏族。剣の数だけ存在し、互いにほとんど交流を持たなかった。それぞれが自分の守るものだけを見ていればよかったからだ。
——わたしたちギナの一族は、右の脚をお守りする。
氷のダンジョンの、最も奥。誰も辿り着けない場所にそれは眠っている。辿り着けないように造られていたし、辿り着かせないために一族がいた。
ギナの一族は五百年、それを続けてきた。
そして五十年前、ダンジョンごとこの世界に落ちてきた。
なぜそうなったのかは今も分からない。
大きな光に包まれ、そして気がついたときには空が違っていた。月が一つしかなかったのだ。
そして守るべきダンジョンは、この国の北の果てに口を開けていた。人間たちはそれに名前をつけた。
禰室ダンジョン、と。
管理下に置き、入場記録を取り、探索者を送り込んだ。
魔族は姿を隠す必要があった。ダンジョンとともにやってきた青い肌の住民。排斥されるのは火を見るより明らかだ。
その結果、五百年守ってきた墓所は、今や見知らぬ者たちが出入りしている場所となってしまった。まぁそう簡単に奥へは辿り着けない。吹雪と巨人がいる。
だから今のところは何も起きていない。今のところは。
◇
母が死ぬ前の日のことを、梓はよく覚えている。
この世界では生きられず、衰弱し何も口にすることができなくなった母は、最後に娘に言った。
——アズール。よくお聞き。
——この世界には、食べるものがたくさんある。だから、あなたはここに残りなさい。
——残りたいと思う者たちがいる。あの子たちを支えてあげなさい。
あちらの世界のことを思えば、それは事実だった。荒廃し、瘴気による毒素と何も産まない痩せた土地。
硬い黒パンと、薄い塩のスープ。食べ物に苦労する毎日。こちらに残りたいと思うのは当然だった。
——氷の城に、誰も近づけてはならない。
母は眠る前にそう告げて翌朝に死んだ。
父はいなかった。
あの人は最後まで、薬を探して外を歩き回っていた。
◇
四十年以上、梓は母の遺言を守っている。
幻影魔法で姿を変え、今は梓としてこの食堂で働いている。
この町に残った。同胞たちを支えている。
あの城には誰も近づいていない。吹雪が阻み、巨人が居て、絶壁の山々がそびえたっている。人間の手には余る。
これからもそうだろう。
この店で、この町で、同胞たちと静かに暮らしていければ。
テレビの中であの男が笑っていた。
梓は湯呑みの底に残った茶を飲み干した。
「梓ちゃーん、休憩交代していい?」
厨房から声がかかった。
「はーい、今行きまーす」
彼女は立ち上がって、エプロンの紐を結び直した。
テレビはまだあの島の映像を流していた。
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次回から北海堂編です。
ロールケーキ食べたい。




