第6話【序章エピローグ】
「ふぁ〜……」
小鳥のさえずりが微かに聞こえる朝。目を覚ました桐刃は開口一番、大きなあくびを抑えられなかった。目元に溜まった涙を指先で拭いながら、ぼんやりとした意識の中で昨夜の自分の行動を思い出す。
(……昨日は先生や看護師さんに、本当に悪いことしちゃったな。包帯の交換に来てくれた時に、ちゃんと謝らないと……)
気まずさに小さくなりながら辺りを見回すが、昨夜、彼女が暴れ回ってなぎ倒したテーブルや壁と床に叩きつけた椅子はすでに病室から綺麗に撤去されていた。どこか殺風景で静かな雰囲気になった個室を見て、桐刃は余計に仕事を増やしてしまったという申し訳なさで胸を痛める。
(……それにしても、今日はなんだか体が軽い……気がする……)
寝起きの頭が徐々に覚醒していくにつれて、ある違和感が急速に膨れ上がっていった。
いつもなら起き上がったり腕を少し動かしたりするだけで全身を駆け巡っていたはずのあの激痛が綺麗に消え失せている。それどころか、今までの数年間の苦痛が嘘だったかのように体の内側から漲るような活力が少しずつと湧き上がってくる不思議な感覚さえあった。
だが、今の桐刃にはそれ以上に昨夜の高熱のせいで嫌な脂汗をかいていることでじっとりとした肌触りによる不快感の方がどうしようもなく気になっていた。
そんな時、コンコンッと優しく扉をノックする音が響く。
「桐刃ちゃん、入りますよ。……おはよう。包帯の交換に来ましたよ」
ガラリとドアが開き、顔馴染みの看護師が入ってきた。その顔にはいつもと変わらない穏やかで優しげな笑みが浮かんでいる。
「あっ、えっと……お、おはようございます。その……昨日はごめんなさい!」
掛け布団を握り締め、バツが悪そうにペコリと頭を下げる。
そんな桐刃の謝罪を看護師は全く気にしていない様子で軽い調子であっさりと笑い飛ばしてくれた。
「気にしないで。桐刃ちゃんだって色々あったんだから。むしろ、私は今までよく頑張って我慢してたなぁって、感心してるくらいよ」
看護師はニカッと白い歯を見せて笑い、どこまでも温かく桐刃を気遣ってくれる。
「それにね、もっと手の付けられないひどい暴れ方する患者さんの面倒だってたくさん見てきたんだから。それと比べたら、桐刃ちゃんなんか全然おとなしくて楽な方よ」
さらに別の過去に入院していたであろう患者を引き合いに出して、ユーモアを交えながらフォローを重ねてくれた。
「……ありがとうございます」
その優しさに心が軽くなり、桐刃は少しだけ俯きながら、小さな声でお礼を言った。
「いいのよ、気にしないで……って、えっ……?」
桐刃のベッドに近づき、いつものように顔の包帯から交換に取り掛かり始めた看護師は素早く丁寧に包帯を外していく。
そして、顔部分の包帯を全て取り終わった瞬間、看護師の動きがピタっと静止する。
その目は信じられないものを見たかのように丸く見開かれ、顔からサーッと血の気が引いていく。
「せ、先生!先生ーーーっ!!」
「えっ?あの、看護師さ――」
桐刃が疑問を投げかける余裕すら与えず、顔馴染みの看護師は悲鳴に近い絶叫を上げて、新品の包帯などを残したまま廊下へと飛び出していった。バタバタと遠ざかっていく大きな足音が病室に聞こえるほど響いていた。
「行っちゃった……。まぁ、あんなとんでもないことしちゃったんだから、驚かれるくらいさらにひどい状態になっててもしょうがないよね」
ぽつんと一人残された桐刃は、再びベッドに横たわって天井をボーっと見つめた。
頭の中では祖母を救おうと呪いを取り込んだ時のことが浮かんでいた。もう一つの呪いを取り込んだ以上、寿命が縮んで見た目が人間扱いすらされなくなるほどの化け物のようになっていたとしても受け入れる覚悟はできていた。
廊下から再びバタバタという大きな足音が二人分聞こえた直後、ドアが力強く開けられた。
主治医である医師が顔馴染みの看護師に連れられて、看護師と同じように顔色を変えながら駆け込んできたのだった。
「八剣くん……っ!?これは、一体……!?」
医師は微かに息が上がっており、肩を激しく上下させ、驚愕のあまり言葉が途切れ途切れだった。
桐刃は動揺している医師を正面からじっと見据え、取り繕うことなく、覚悟を決めたかのように凛とした力強い声で告げた。
「先生、正直に言ってくれて大丈夫ですよ。私……どれくらいひどくなってますか? どんな見た目になっていても、受け止めますから」
ゴクリと医師が息を呑む音が聞こえた。医師は震える声を絞り出すようにして、首を横に振る。
「ひどい?違う、違うんだ八剣くん!……鏡!早く彼女に鏡を!」
「はいっ!」
医師の切迫した指示を受け、看護師が手鏡を桐刃の目の前へと差し出す。
「え……?」
手鏡に映し出されたその光景を見た瞬間、桐刃の思考は完全に停止した。
そこに写っていたのは、昨日までの痛々しい姿が嘘だったかのように窓から差し込む朝日を浴びて、まるで桜のように健康的な血色を取り戻した、透き通るように美しい一人の少女の姿だった。
その後、医師の診察を受けながら、看護師の手によって桐刃の全身から包帯が外されていく。
役割を終えた白い布が一本、また一本とベッドの上や床へと静かに落とされていった。
その間、どこからも痛みが起きず、頭のてっぺんからつま先に至るまで、細胞のひとつひとつにまで力が漲っている。
苦しかった呼吸も今はどこまでも深く吸い込むことができ、その空気でさえ美味しいと感じている。
ひどい乱視のようにぼやけ、霞んでいた視界は丁寧に徹底的に磨き上げられた最高級のレンズを通したかのように鮮明に世界の色彩を捉えていた。
桐刃はもう一度、鏡に映る自分を凝視する。かつて顔や体中を無残に覆い尽くし、彼女から全てを奪い爛れた醜い姿にした痣は最初から存在していなかったかのように跡形もなく綺麗に消え去っていた。
それでも、呪いの痣が存在していたことを証明するかのように右手の甲から手首の少し下にかけて柘榴色をした入れ墨のような紋様が刻まれていた。
しかし、呪いに蝕まれ続けてきた桐刃だからこそ分かっていた。この龍のようにも見え、あるいは何かしらの意味を持つ梵字のようにも見える、妖しくも不思議な美しさを持ち合わせた痣が呪いではないということが。
そのまま右手をそっと胸に当て、溢れんばかりの涙を瞳に浮かべながら、桐刃は心の底から呟く。
(私、生きてる……。おばあちゃん、見て……私、治ったよ。私、もう一度……私の足で歩けるよ)
外は雲一つない快晴の空に昇った太陽が朝日で病室を明るく暖かく照らしていた。それはまるで、これから桐刃の人生が再び幕を開ける瞬間を告げると同時に彼女を祝福しているかのようだった。
いつも読んで頂きありがとうございます。
今回の第6話で序章エピローグとなります。ここまでお付き合い頂き本当にありがとうございます。
次章から旦那様との出会いや主人公の新しい日々を書いていきますので楽しみにお待ち頂けると嬉しいです。
頑張って更新続けていきますので、引き続き応援よろしくお願いします。




