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第16話

「私は普通に生活したい」


 桐刃は膝の上で拳を握り、念を押すように言う。


「ああ」


「普通に進学して、普通に就職して、普通の人生を送りたいの」


「ああ」


「災との戦いならともかく、術者の家同士の争いとかいざこざには絶対に巻き込まれたくない」


「ああ」


 天真は返答を一言で済ませていたが、そこには決して聞き流してはいないという誠実さが込められていた。彼は桐刃の願い、あるいは意志をひとつひとつ汲み取るように丁寧に応じている。


「契約を交わす以上、お前が望まないことを無理に強いるつもりはないし、させるつもりもない。約束する」


「口だけならなんとでも言えるよ……」


 桐刃は家族や元運命の相手を基準にしているせいで警戒心を解けずについぶっきらぼうな対応をしてしまう。


「確かにな。契約でもなんでもお前の時間を俺のために使ってもらうんだ。だから、契約終了後は礼としてその後の生涯に困らないだけの報酬を支払うつもりだ。もし金銭以外を望むなら、希望する大学なり企業なりに俺からの口利き程度ならいくらでもしていいと考えている。お前の望む平穏な一生を麟堂の名に懸けて保証するつもりだ」


 天真は桐刃の態度を気にすることなく、ただ真っ直ぐにじっと桐刃を見据えていた。

 その時の天真の目からは目の前の少女の価値を正当に評価しているからこそ対等な取引を持ちかけようとする敬意のようなものが感じられた。

 そこに病院で見せたような尊大さや傲慢さはなく桐刃に対して真摯に誠実であろうとする姿勢が窺える。


「はぁ……」


 桐刃は毒気を抜かれたように一度溜め息を吐いた。

 条件だけを聞けばこれ以上ないほど破格だった。桐刃にとって自分を捨てた家への仕返しなどに興味はないが、これからの人生にとって強力な後ろ盾と契約完了後の生活の元手となる資金が手に入るというのは合理的に考えればあまりに魅力的すぎた。


「……本当に面倒なことに巻き込まない?」


「もちろんだ。面倒事には巻き込ませないと誓う」


 二人の目が合い、しばらくお互いに黙ったまま静かな時が続く。

 次期当主としての役割を果たすため伴侶を求める青年と平穏を何より愛する少女。

 静まり返った和室の中で夜暁だけが次の展開を察知しているかのようにその光景を優しげな笑みを浮かべて見守っていた。


「その契約、期間はいつまで?」


 先に口を開いた桐刃の問いに天真の口角がわずかに上がった。

 ようやく彼女が土俵に上がってきたことを確信したどこか嬉しそうな笑みだった。


「俺が当主になって封印の結界が問題なく機能しているかを確認できるまでだ。最初は色々と疑われるだろうが、強固な結界を張れさえすれば、周囲も納得せざるを得ないし、自然とお前という存在を認めるようになる。どうだ、八剣桐刃。俺と契約してもらえるか?」


 桐刃は視線を落としテーブルをじっと見つめた。

 桐刃の頭の中には自分を壊れものや汚物として捨てた家族や無慈悲に番であることを放棄した上宮秀磨の顔が脳裏をよぎっていた。

 いずれ呪いが消え、健康を取り戻したことを知られれば、あの欲深い連中が放っておくはずがない。後ろ盾のない今の自分では家の権力によって無理やり連れ戻され、再び籠の中の鳥のように扱われる未来が容易に想像できた。


(……それならまだ、この人の提案に乗る方が私の平穏を守れるかもしれない)


 リスクとリターン。それを天秤にかけ、桐刃は顔を上げる。その目にはもう迷いは微塵もなかった。


「良いよ。契約する。でも、一度でも契約にないことしたら、すぐに解消するからね」


「ふっ、交渉成立だな。――夜暁」


 天真の合図に夜暁が待ち侘びていたかのように二枚の書類を差し出す。


「これが契約書と婚姻届だ。目を通せ」


 桐刃は手渡された書類を受け取ると念のためにスマートフォンでコピーを取り、隅から隅まで一言一句逃さぬように内容を精査した。そうして納得した上で迷いのない速筆で署名を書き記した。


「よし、これからよろしく頼むぞ。俺のお嫁様」


 天真はほしいものを手に入れた子どものような笑みを浮かべ、満足げな様子だった。


「私も離婚後の報酬のためにはしっかり仕事させてもらうから。働き次第では、遠慮なく上乗せしてくれても全然いいからね」


 桐刃も冗談っぽくピースサインを作ってからニカッと歯を見せて笑い返した。


「結婚してすぐ離婚後の話をされるのも考えものだが……まぁいい。お前らしい」


 名家の令嬢たちが向けてくる媚びや打算に満ちた視線とは正反対に取り繕うことなく自分の欲求や意思を真っ直ぐに晒け出す桐刃を見て、眩しいほどの裏表のない姿に天真はかつて感じたことのない心地良さを覚えていた。


「ふふ、お二人とも、実にお似合いでございますよ」


 そんな契約夫婦の誕生と主人の心の変化を誰よりも早く察しながら、夜暁は慈しむように穏やかな笑みで見守っていた。

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