第3話 サンドバッグ
しばらく歩くと、いつの間にか、見かける人の質が変わっていた。
ところどころ、物陰にガラの悪い連中が集まっている。
彼らの醸し出す雰囲気は昭和のチンピラのよう。
まるで時代を超越しているようだ。
須藤は、自分が「それ」を求めていたのかもしれないと気づいた。
彼が遠慮なくじろじろと見ていると、そのうちの一人と目が合った。
目が合った男は、テンプレ通りに、彼に絡もうと一歩踏み出した。
「それ」への期待から、須藤の口元が笑みを形作る。
その笑みから察したのか、彼の方へと足を踏み出した男を、脇にいた別の男が止めた。
このとき、須藤は若い時分のことを思い出していた。
武術の世界には、ヤクザやチンピラを相手に実戦経験を積んでおくべきだと主張する者たちがいる。他流ではあるが、彼の身近にもそんな人物がいて、仲間内では、その筋の人たちのことを、「歩くサンドバッグ」と呼んでいた。須藤はその「サンドバック」を利用することはなかったが、機嫌の悪い時は、狭い場所にたむろする彼らを、邪魔だと突き飛ばす程度はしていたと思う。
昔を思い出し、彼はひとり苦笑した。
あのころの日本はまだ旧世界にあった。
当時の須藤は、旧世界の常識の下、普通に会社員になり、普通に結婚し、普通に子育てをしながら日常を送るものだと思い込んでいた。
しかし、日本列島は新世界に転移し、世界は大きく変わった。
日本の地位も底辺と言える状況まで堕ちた。
いまのような状況になるとは、つゆほども思っていなかった。
旧世界でのグローバルな協業関係は崩壊した。しかし、新世界には、旧世界の技術のインフラが一切存在しない。それゆえ、日本企業は運営方針を大きく変える方向に舵を切らざるを得なくなった。自国ですべてを賄うか、どこかの国を育てるか、あるいは何かを切り捨てるか。
こうした状況に置かれ、BtoBにきった舵をBtoCに戻す企業もふえはじめた。
旧世界では、中韓による無秩序な生産状況を忌避し、日本企業はBtoCビジネスを撤退した。たとえば半導体ビジネスでは、中韓が市場予測を無視して生産し、需給のバランスが無茶苦茶になったため、日本企業はコアの部分を押さえた状態で最終製品から撤退をはじめたのだ。しかし、中韓の存在しない新世界では、あんな忌避する状況にはなり得ない。もうやらない理由がないのだ。
グローバルな協業体制が崩れた結果、サプライチェーンは崩壊したが、分社化した企業が再統合され、日本では、かつての巨大複合企業が再誕しはじめた。
日本は大きく変わる方向に舵をとっている。
しかし、それが良い事なのか、悪い事なのかはわからない。
いずれにしても、日本は、この新世界で変わっていく。
だが、きっと自分は変わらない。
いくつになっても。
須藤はそう思っている。
自分は常に「真」の道を求めて生きていくはずだ、と。
彼の師である大橋崋山は、日本のほとんどの武術で師範以上の資格を持っている人物だった。
いくつかの武術の会長や宗家を兼任してもいた。
そんな師が、そのときそのときの思いつきで、彼にさまざまな武術を仕込んだのだ。
秘伝の技、人殺しの技を含めて。
その結果、彼は、特殊な強さを持つに至った。
彼には、現代の多数派であるスポーツ武道の才能はない。
スポーツ武道に特化した人たちと、彼らの土俵で戦えば、間違いなく負ける。
一度だけ参加した大会では、彼の持つ雰囲気によるものか、なぜか優勝準優勝以外の対戦相手が全員棄権したが、上位者との対戦ではボロ負けだった。負けた理由は、反射的に危険な技――反則技を使おうとしてブレーキがかかったから。彼は、ブレーキの隙をつかれて負けたのだ。要するに、彼は、決定的に「スポーツ」にマッチしていないのだ。
そんな彼にも、短いが、サンドバッグを試してみようと考えるほど荒れていた時期があった。
その際に知ったのだが、サンドバッグたちは意外にも敏感なのだ。
殺気を垂れ流す彼を見ると、サンドバッグたちは目を背けた。
たいていの場合。
スポーツ武道の大会で不戦敗がつづいたのも、同じ理由なのだろう。
戦いに際して、彼は特殊な雰囲気を纏っている。
それを感じると、大抵の相手は彼を避ける。
今回も案の定そうなった。
路地裏に集う者たちは、彼の持つ雰囲気を敏感にかぎ分けた。
だから、今回もサンドバッグはお預け。
彼は、分泌されたアドレナリンを持て余しながら歩き去るしかなかった。
暴力沙汰を望んではいても、形の上で正当防衛にすることは不可欠。
彼の方から殴りつけるような真似はできない。
彼は、その一線を守っている。
だから、彼には、その場を歩き去る以外に選択肢はなかった。
さらに先へ進むとピンクの装飾が目立つようになってきた。
街の雰囲気は男だけを求め、一般女性を拒絶しているようだ。
だが、彼は、不能でも同性愛者でもないが、その手の場所に魅かれない。
実のところ、彼は女性が苦手なのだ。
彼が仕込まれた武術には気功が含まれる。
その気功は、彼が独学で学んだ気穴に関する知識と相まって『効果』を発揮して来た。
その『効果』が望まぬトラブルを生む。
彼は、気功を学んだことで、微妙な何かを感じ取れる。
それで自身の不調を治すこともあれば、他人の身体の悪いところを検知し、症状を和らげたりもできる。
そして、別の効果もある。
その『別の効果』で、もっとも顕著な反応を示すのは女性。
付き合っている女性はおかしくなるし、別れた女性はストーカーになる。
だから彼は女性が苦手になり、ここ何年かは女性と良い雰囲気にならないよう、一定の距離を保つよう気をつけてきた。
そんな彼は、苦手が高じてスナックのお姉さんのビジネストークさえ耐えられなくなり、上司に誘われても、その手の店に行くことは強く拒むようになっていた。
というわけで、彼にとって、いまいる場所の雰囲気は苦手中の苦手。
そのエリアを抜けるために、彼の歩調は自然と速くなった。
ようやくそのエリアを抜けると、そこには中規模の公園があった。
気疲れした彼は、そこでベンチに腰掛けて少し休むことにした。
かすかに残る夕焼けと、紫から闇へとグラデーションになった空をバックに、街灯に照らされた公園には何とも言えない情緒があった。
公園の向こうには、ときおり帰宅するサラリーマンの姿が見える。
そこには、生活の香りとともに、郷愁を呼び起こす何かがあった。
彼には手の届かない何かが。
スマホを取り出し、彼はその風景を撮影した。
その後しばらく、彼はその景色を眺め、その場の雰囲気に身をゆだねていた。
だが、それは――
初回は三話分を投稿しました。
今後は、週に一話投稿する方向で考えております。




