第4話 アブダクション
彼は轟音で飛び起きた。
そこは公園の滑り台。
彼はそのスロープの部分に横たわっていた。
だが、そこは、昨夜いた公園ではない。
そもそもあの公園に滑り台などなかった。
そこには、あるはずの横浜の街並みはなく、ただ森がひろがっているだけ。
轟音は、いまだ鳴り響いている。
音の方に目を向けると、森のむこうからP—3Cが現れた。
車輪が格納されていないので、離陸した直後のようだ。
――もしかして厚木基地?
厚木基地の脇には大きな公園がある。
車で246を走行したことがあれば、その公園の上を通ったことがあるはず。
東京方面から見ると、大和の下鶴間トンネルを出たすぐ後にある森がその公園だ。
だが、その公園は、彼がいたはずの公園から二十キロ以上は離れている。
彼には自分が置かれている状況がまるで理解できなかった。
空を見上げていたら、首が絞まって息苦しくなった。
首もとに手をやると、ボタンが一番上まできちんと留められている。
仕事でスーツを着る時でもなければ、彼が首もとまでボタンを留めることなど有り得ない。
それなのにボタンがきちんと全部留められているということは、誰かに服を着せられたのだ。
ということは、一度は脱がされたことになる。
誰に?
わけがわからない状態ではあるが、とりあえず一番目と二番目のボタンをはずし、シャツの締め付けを緩めながら周りを見回す。
そこは、やはり厚木基地の隣にある大和市の公園だ。
彼には、ずいぶん前に来た記憶がある。
公園の端には、かやぶき屋根の日本家屋がふたつ保存されていたはずだ。
だが、どうしてこんなところに。
そう思いながら、彼は、足もとに置かれていた、自分のバックパックを拾い上げた。
バックパックの中身を確認したところ、無くなっているものはなさそうだ。
だが、念のため、携帯のカードスロットを開けてみた。
すると、そこにあるはずのmicroSDカードがなくなっていた。
奮発して相応のものを使用していたので、なくなったのは彼にとってかなりの痛手だ。
さらに別の問題もある。
あの中には、各種パスワードをメモしたファイルが入っていた。
銀行、ネット通販、転職サイト、その他諸々。
それらのパスワードが使用されたら、金銭的な問題はもちろんのこと、学歴や職務経歴まですべて丸裸にされるリスクがある。
帰ったらすぐにパスワードを変更しなければならない。
それには、どこかに仕舞いこんだ、パスワードをメモした紙片を発掘するところからはじめねばならない。
「はぁー」
思わずため息が出た。
腕のデジタル時計を見ると、時刻は午前六時。
記憶が途切れてから半日経っている。
まるでUFOアブダクションだ。
思えば、彼は目覚める前、夢を見ていた。
異形の者たちと闘う夢。
その夢は朧気で、いくつかの場面が頭に浮かぶだけ。
全体像はつかめない。
その夢を除けば、自分の身に何が起きたか、まるで思い出せない。
夢の中で、彼は、状況が理解できぬまま、それらをを何体も倒した。
頭がはっきりしないまま、襲い来る相手をただただ殺しつづけた。
彼の手足には、そのときの肉の感触が、それが現実であったかのように生々しく残っている。
相手の命が消える瞬間の、何とも言えない不思議な感覚さえもが。
あの感覚は、勝利の喜びのようでもあるし、大切な何かが消えていくどうしようもなくせつない思いでもあり、そして、物理的に世界がよじれるような……。
――あれは、ほんとうに夢だったのだろうか。
あれは現実の出来事であったように思える。
自分の身に残る感触が、あまりにも生々しすぎる。
もしもあれが現実であったなら、頭が働かない状態であったとは言え、彼は多くの命を奪ったのだ。
子どもの頃と違い、最近の彼は、虫を殺すことさえ躊躇われるようになっている。
そんな彼が人の形を残した生き物を殺したら――
考えるだけで震えが来た。
彼はまた溜息を吐き、滑り台のスロープに身体をあずけて空を見上げた。
しばらく途方に暮れたあと、彼は気を取り直し、携帯を取り出した。
無職になって時間には余裕があるものの、それに慣れてはいけない。
彼はそう自分を戒めた。
いろいろやらねばならないことがある。
さっさと帰らなければ。
そう考えて、携帯の地図アプリを立ち上げ、公園から最寄り駅への道を確認した。
公園内を通る小道を東へと進むとトンネルがある。
その上は交通量の少ない通り。
その通りを進み、小学校のある交差点を右に曲がると、そこにはなでしこの道なる歩行者用通路がある。
その道を真っすぐ行けば大和駅だ。
なでしこの道は、早朝であっても散歩をする人たちが多い。
そこは歩行者専用で、自転車は通ってはいけないはずだが、ルールは守られていない。
たいていは傍若無人な老人だ。
彼らは他人の迷惑を顧みず、散歩をしている人たちを押しのけるようにして走る。
いまも、彼の目の前で、老人が犬を連れた女性に突っ込んで行った。
女性は犬のリードを引き、とっさに老人を避けたが――
「だから大和はだめなんだ」
その老人は、わけのわからないことを口にして走り去った。
その直前、ふたりの周囲で一瞬日がかげったように見えた。
老人の姿に、夢で見た異形の者の姿が重なる。
異形のもの、すなわち緑色の鬼。
鬼を思い出すと同時に、手や足に、彼らの肉体を破壊する生々しい感触が甦って来た。
そのとき身をまかせた、原初の衝動のような何かも甦り、残響のように彼を手招きする。
彼は、その衝動のような何かに、再び身をまかせたくなる。
波のように押し寄せる残響が、老人への殺意へと転じていく。
少し気をゆるめれば、取り込まれてしまいそうだ。
彼は、その衝動に当惑しつつ、それに身をまかせないよう気を引き締めた。
武術を身につけたものは、それを試してみたくなるもの。
たぶん、それは、誰しもが通る道だ。
だが、その衝動に身をまかせないよう自分を律するのが武道。
そこに武術と武道のちがいがある――というのが建前。
彼はその建前を、ときおり踏み外しそうになったものの、辛うじて守って来たはずだった。
それなのに、いま、彼の中には、強い「衝動」が沸き上がっている。
いまの彼の眼には、さきほどの老人が害虫に思えてならない。
駆除すべき害虫。
身体にアドレナリンが――
そのあたりで彼は自分の置かれている状況の深刻さに気づいた。
薬か、はたまた何らかの呪術か。
いずれにしても、何らかの術が自分にかけられている。
いまは抑えられているが、この攻撃性、このままだと抑え込めなくなる。
こんな状態で、満員電車に乗れるわけがない。
電車の中で事件を起こせば、すぐにマスコミのネタにされ、社会復帰は絶望的になる。
いまの彼は、術の影響で思考が制限されている。
負の感情が術の影響を強めてしまう。
倫理的な枷がはずれそうになる現状は、彼が思っている以上に危険な状況だ。
枷が外れた彼を押さえこめる者など、そうはいない。
もしも誰かが彼を止めようと戦いになれば、それは彼をさらに凶暴化させるだろう。
そうなれば、彼の想定をはるかに超えた惨事になることは間違いない。
彼は現在の時刻を思い出した。
のんびりしていると朝の通勤ラッシュにぶつかる。
その前に、帰らなければならない。
彼は駅へと急いだ。




