第2話 術の効かぬ男
須藤恭介はハローワークを出て、どこで食事をするか考えていた。
彼は、コクシ企業の裏側を知り、義憤に駆られて辞めた。
しかし、現実は厳しく、つぎの仕事が見つからない。
おかげで、失業保険の手続きをするはめになっている。
この時点での彼は、新世界の真実を知ったような気になっていたが、実のところ彼が知ったのはほんの浅い部分だけ。
セイグウやコクシの悪辣さは、そんなものではない。
この先彼の身に起きることを考えれば、この時の彼は、まだまだ考えが甘かったのだ。
この貪瞋痴の世界で、日本国の立場は微妙な状態にある。
それゆえ、政府は、旧世界での技術を周辺国に供与し、地位向上を図ろうとした。
彼、須藤恭介は、その考えに共感し、勤めていた会社を辞めてコクシ企業へと転職した。
しかし、政治家の言うことに真実などなく、コクシ企業ではさまざまな裏事情を知ることになった。
裏事情、すなわち日本の政治家とコクシ企業の悪行の数々。
それらは到底許せることではなく、彼にとって、選択肢は辞めることしかなかった。
その意志を伝えると、コクシ企業の連中は唖然としていた。
あれだけしておいて、彼らは、須藤が辞めるとは思っていなかったのだ。
どうやら、須藤が呪力の影響下にあると思い込んでいて、彼らに逆らうなどとは考えていたかったらしい。
彼らは本当の日本人を知らないのだ。
この時代の弱体化した呪術は、負の感情を足掛かりとして作用する。
清廉な人物には足掛かりとなる要素がなく作用しにくい。
もともとコクシ企業は、一部の例外はあるののの、行き場を失った日本人技術者を勧誘して集めていた。何らかの問題を抱えた者たちには、呪術に影響されやすい下地が存在する。彼らはそこに付け込まれたのだ。
一方で、須藤はというと、国際協力のために転職を決めた。そこにネガティブな要素はない。清廉であるかどうかには議論の余地があるが、少なくとも、彼には呪術のとっかかりとなるネガティブな要素はない。
要するに、彼は、コクシ企業の者たちがはじめて出会ったタイプの日本人であったのだ。
それゆえ、彼らの予期せぬ結果となったわけだ。
日本人は、貪瞋痴の新世界において、「真」の文化を築いた。
その「真」は、彼らの呪術を撥ね付ける。
若さから脱した須藤は、強く「真」を求めつづけている。
その結果、呪術に対する耐性ができたのだ。
付け込む闇を抱えた日本人しか知らぬコクシ人たちは、日本人の「真」を見くびっていたのだ。
いまは企業の不正がニュースで頻繁に報道される時代。
日本企業の中にも、多かれ少なかれ闇はある。
だが、この貪瞋痴の世界では、闇のレベルがまるでちがう。
他国の企業で働いてみれば、スキャンダルとしてときおり垣間見える日本社会の闇などは、実はかわいいものなのだと感じられるようになる。
彼の場合は、それが許せなくてコクシ人たちと衝突することになった。
その結果がハローワークというわけだ。
もっとも、ハローワークに来たのは、失業保険の受給条件をクリアするため。
職探しのためではない。
転職活動はエージェントを介して行っている。
彼は、転職できないとは露ほども考えていないから、転職活動は完全に人任せ。
そんな考えだから、彼にとって、いまの状況はそれほど深刻なものではなかった。
少なくともこの時点では。
桜木町駅近くの牛丼チェーンを出ると、すでに日は沈み、空はオレンジから青紫へとつながるグラデーション。その空の色を見て、寄せ来る夜の雰囲気に若い時分の記憶がよみがえり、彼のなかに、忘れていた渇望とも言えそうな何かが甦って来た。
彼は酒を飲まない。
女性のいる店にも興味がない。
しかし、夜の街の雰囲気は、彼にとってはかつて思い焦がれたもの。
彼は、学生時代、バイトに明け暮れていた。
そんな生活で鬱憤が溜まると、彼はクラブに行って朝まで踊りあかしていた。
貧乏ゆえに、そう頻繁に行くことはできなかったが、そのほんの少しの息抜きが、彼の青春の大部分であったと言ってもいい。
彼の青春の思い出のほとんどは、さまざまなバイトの現場でのもの。
大学とバイトの隙間は道場というストイックな生活の中で、クラブで過ごす時間が、彼にとって唯一同年代の若者らしい行動だった。
それは、中年になった彼には、もう手の届かないもの。
あの時間は、望んでももう戻らない。歳をとったというだけではなく、世の中が変わってしまったから。この新世界では、もう、あの当時のような雰囲気は、どこにも存在していない。求めても得られないものになっている。それでも、彼の中には、あの時代を求める気持ちが強く残っているから、ときおり夜の香りを求めて街をさまようのだ。
彼は考えた末、路地裏を彷徨ってみようと、古い飲み屋街をさがし歩いた。
しかし、行って見ると、そこはかなり整備されていて、かつて存在していた昭和後期から平成にかけての、あの当時特有のニオイは無くなっていた。
いまそこにあるのは、味わいのない無機質な雰囲気。
きれいな石畳が敷かれ、ダークな感じはない。
そんな雰囲気を受け入れる気にはならず、彼は、かつての街の香りを求めてただ歩いた。
路地裏の飲み屋街ではなく、街灯さえないひどく狭い路地へと。
だが、まだ足りない。
彼は名状しがたい何かを求めてさらに奥へと踏み込んで行った。
しばらく行くと、開発に侵食されていない、ある意味汚らしい場所に出た。
道にはタバコの吸い殻が落ちている。
電柱の下には、前夜の吐瀉物の痕跡が残っている。
その雰囲気は、彼の求めるものではなかったが、何かが彼の琴線に触れた。
彼は、思いつきで携帯を取り出し、さびれた風景を撮影した。
――うん、いい。
彼は古い街並みを撮り続けた。
だが、その手の場所にはある種の人たちもいるもので――




