第1話 鬼なる存在
彼の前には、貫頭衣を着た緑色の鬼がいた。
腹が出て、見るからに不健康そうに見える。
手に持っているものはナイフ。
着ているものも、持っている武器も、彼が着せられているものと同じ。
平等な条件下で戦わせているのか?
そんな考えが頭に浮かぶが、彼にはいま自分が置かれている状況が全く理解できていない。
考えようにも、頭は霧がかかったようになっている。
何もわからないまま、彼は鬼たちと戦わされている。
意味なく戦うのは嫌だ。
そんな彼の気持ちに構わず鬼が襲ってくる。
襲ってくるのだから倒すしかない。
倒すのは簡単だ。
すでに何体も倒した。
結果は見えている。
彼の強さは圧倒的。
それでも、鬼たちは勝てぬ戦いを挑んでくる。
それが彼らの本能だとでもいうのか?
彼にはまるで理解できなかった。
鬼は自然界にいる生き物ではない。
それは伝説の存在。
仏教的な解釈によれば、地獄という監獄を管理する獄卒であり、拷問官でもある。
では、彼らが霊的な存在かというと、そうでもなさそうだ。
鬼は人間と同じように死ぬ。
彼の技の前には、鬼も人も変わりない。
彼にとっては必ず勝てる相手。
だとしても、こうもつづくとうんざりしてくる。
――そうだ。
彼は、このうんざりする状態を、有効利用する方法を思いついた。
霧のかかったような思考の下で、彼の考えは、ただ好戦的な方向へ向かうだけ。
彼の知らぬ誰かの意志に操られて。
彼は、武術の修業で、数々の秘伝の技を修めている。
それらは、決して試すことのできぬ殺人技。
墓まで使わずに持っていくことが運命づけられていた技なのだ。
しかし、そんな技の数々を、いま、この場なら試すことができる。
鬼が相手なら何の問題もない。
問題ないのだ。
いまの彼は、そんな風にしか考えられなかった。
こうして、彼の目に、不穏な輝きが宿った。
いま、そこにいる鬼は、わけのわからない言葉をつぶやいている。
手を見ると震えている。
だが、戦意がないのかと言えば、そんなことはない。
持っているナイフを見ればわかる。
そこからは、赤い血が滴っている。
鬼の血は青。
だから、その鬼が手にかけたのは人だ。
普通の人間なら、こんな場面に出くわせば逃げるだろう。
だが、彼は普通ではない。
そんな普通ではない彼に、大義名分が舞い込めば?
人を手にかけた魔物を駆除するという大義名分が舞い込めば?
気づかぬうちに誰かの意志に操られ、彼は戦いにのめり込んでいく。
彼は嬉々として鬼退治をつづけた。
まずは、学ぶだけ学んで使う機会のなかった「外す」、「砕く」技の各種を試してみた。
彼の師匠、大橋崋山は感覚の人だった。
教え方は、まるでラノベのテンプレのよう。
たとえば、肩の外し方は――
動きを見せつつ、「ダッとやって、ここでガッだ」
そういう教え方だった。
彼は、師匠の動きは憶えている。
だが、「外す」、「砕く」を、現実に試す機会はなかった。
路地裏にたむろする連中で試して見ようと思ったことはあったが、彼は結局自制したのだ。
ひと通り「外す」、「砕く」を試したら、つぎは打撃技だ。
新しく生きた鬼を見つけ、彼の顔に笑みが浮かぶ。
彼は、笑みを浮かべたまま、襲ってくる鬼を迎え撃った。
カウンター気味に上顎骨に掌底を当て、微妙なひねりを加える。
すると、その打撃によって、鬼の顎の骨が外れた。
だが、この技は、ただ顎をはずす技ではない。
この瞬間、鬼の身体のとある部分が――
鬼は自分の状況に戸惑っていた。
痛みはそれほどでもなく、軽く殴られた程度のダメージだった。
大したことではない、と鬼は思っていた。
しかし、十秒もすれば、何かがちがうことに気づいた。
自分の身体の中の何かが変化している。
だが、それが何かはわからない。
鬼は困惑していた。
しかし、鬼は、その正体を実感することになる。
首をはじめ、各所の筋肉が強張り、耳鳴りが徐々に大きくなっていく。
視界が徐々にノイズ覆われていく。
そして――
傍から見ていると、鬼の様子はどんどんおかしくなっていった。
技の効果が出ているのだ。
視覚聴覚が失われることからはじまり、五感すべてが徐々に機能しなくなっていく。
ついには身動きもできなくなる。
思考はクリアなまま、自分の置かれた状況がまるで理解できず、ただ身体の機能が、ひとつまたひとつと失われていく。
最後には、かすかな光さえない無の世界に、あがくことさえできずに堕ちていく。
そこにあるのは、無へと至る恐怖だけ。
これはそういう技だ。
鬼は恐怖に溺れ、無の世界へと旅立って行った。
この技の名は風摩殺。
神経系に作用して、五感の機能を奪う技。
五感が失われ、つづいて身体を動かすこともできなくなっていく。
この技にかかると、無へと堕ちていく恐怖を体感することになる。
風魔殺と同じような効果のある気穴はいくつか存在する。
彼は、その恐ろしい効果を身をもって知っている。
もっとも、ほかの気穴の場合は、効果を解消する方法が存在しており、それゆえ彼は生きている。
だが、風魔殺の場合は対処不能。
技にかかれば止められない。
堕ちていくほどに増す恐怖に包まれる。
鬼は、彼が体験したよりさらに深いところの、想像だにできない恐怖に曝されたことだろう。
彼は、鬼相手に、この手の技をいくつも試して見た。
頭頂部を特殊な方法で撃つ六波返しを。
鼻骨に打撃を加え、とある操作をする無界拳を。
眼球近傍に特殊な突きを加えつつ、手を開いて○○する閻魔無明拳を。
これらは、日本が平和になる前の時代に編み出された殺すための技。
形と概念だけが都市伝説のように語られる、現代人の知らない技。
だが、彼の師、大橋崋山はこうした伝説の技の数々を会得しており、直弟子である彼はそれを伝授されている。
彼は、こうした技を、死ぬまで使うことがないと思っていた。
が、ここで鬼たちと出会い、試す機会を得た。
だから、彼は嬉々として技を試した。
何度も、何度も。
だが、同じことをつづけると面倒になるのが人の常。
彼も例外ではない。
何度も技を試した後、もういい、という気持ちになった。
鬼が逃げるのなら、捨ておこう。
彼はそう決めた。
しかし、どこにもひねくれた者はいる。
いま目の前にいる鬼のように。
この鬼は迷っているようだ。
面倒になって手控えた彼の行動を誤解したのだろう。
戦意がないイコール弱い、と。
その様子を見て、彼もまた考えを改めた。
鬼相手に情けなど必要ない、と。
鬼は、彼の方に一歩踏み出し、蹴りの間合いに入った。
その瞬間――
「ィーヤァ!」
腹に響く気合とともに蹴りが放たれた。
その蹴りは鬼の腹部をとらえ、鬼は後ろの壁に叩き付けられることになった。
それは、彼が身につけた技のなかで最強の技だ。
機能で呼称される名前のない秘技。
曰く、鎧を着けた武者を蹴り殺す技。
その技は、鎧を透過した衝撃が内臓を破壊するもの。
それを生身で受けた鬼は、宙を舞って背中から壁に叩き付けられた。
そして、力なく壁に沿ってずずっと落ちていった。
遡ること一時間――
彼は機械的に鬼の駆除をつづけていた。
その過程で、彼は「加減」を会得した。
鬼退治の力加減を。
その力加減、考えてみると、たぶん普通の人を相手にするのと同じだ。
とはいえ、彼は人を殺したことがないので、正確なところはわからない。
ただ、その手前までの感触はほぼ同じ。
だから、その認識で間違っていないはずだ。
曖昧な感覚ではあるが、素手での格闘では、それは重要な要素。
これで、無駄に体力を使わず、効果的に戦うことができる。
終わりの見えない戦いでは、それが大いに強みとなる。
こうして、彼に余裕が生まれた。
ほかの技を試してみようという余裕が。
ただし、それを行うに当たって、彼は自分自身に制約を課した。
相手が鬼とは言え、マッドサイエンティストの人体実験のようになってはならない。
道を志す者として、矜持を持って行うべきなのだ。
こちらからは攻撃をせず、戦うのは、相手から攻めてきた場合に限る。
これをルールとし、自分を縛る。
それを怠れば――
ここは貪瞋痴の世界。
気づけば三毒いずれかに染まっていることだろう。
そう決めはしたが、彼の頭は霧がかかったようになっていて、深く考えることはできない。
そのおかげで、彼は、徐々に戦いに呑まれていくことになった。
貪瞋痴に例えられる三つの連邦――イエンカ、セイグウ、ジュリルに囲まれる海域に、日本列島が転移してから十数年が経った。
かつて神霊が存在していたというこの世界で、戦力を放棄した日本は、三連邦から軽視される立場に陥っている。もっとも、戦力の放棄は、旧世界と同じロジックを使い、戦力としての自衛隊は維持されている。しかし、その軽視故に、水面下で、三連邦による日本国へのさまざまな干渉が行われている。
こうした干渉の中には、日本人には理解できないことも多い。この世界からは神霊が去ったと言われているものの、セイグウとコクシではいまだに呪術が使われているという。
この鬼たちの出現は、その呪術に関わるものだろう。彼はそう推測しつつも、何ら確証は得られず、ただ戦いに翻弄されていた。
――しかし、どうして……
彼は、たまに訪れる頭が晴れた瞬間に、ここで目が覚める前のことを思い出そうとした。
だが、すぐに霧がかかり、記憶をたどることは難しかった。
ハローワークに行った帰り、さびれた路地裏を歩き、公園のベンチに座った。
そこまでは思い出せる。
しかし、そのあとは……




