第124話 噂
エルベルトが撤退を宣言し、騎士たちが天幕を畳み始めた。
レオンが野営地の端に座り込み、壊れた鎧を外していた時——足音が駆けてきた。
速い。
ヘレネだった。
エルベルトが場を仕切っている間は動けなかったのだ。ザンクトハイムの嫡男が騎士たちに号令を飛ばし、野営地の秩序が保たれている間——テモティエの隊は口を挟む立場になかった。だが撤退の号令が下り、騎士たちが天幕を畳み始めた瞬間、ヘレネの足が動いていた。
レオンが振り返った時には、もう目の前だった。
ヘレネの両腕がレオンの首に回った。
細い体がぶつかるようにレオンの胸に押し付けられた。全身に激痛が走った。折れかけた肋骨を思い切り抱きしめられたのだ。
「——ッ」
レオンの呼吸が詰まった。
ヘレネは震えていた。あの、誰に対しても等距離で、感情を完璧に制御し、エレクトロサーキットの魅惑すら道具として扱える女が——震えていた。
「……生きてた」
声が掠れていた。
「あの時——通路で、テモティエ隊長に腕を引かれて——振り返った時、あなたが覚醒種に向かっていくのが見えた。それから——壁が崩れる音がして——」
ヘレネの指がレオンの背中に食い込んだ。
「ずっと——戻ってこなかった。何時間も。グスタフ卿とマルグリット殿が死んだと聞いて——あなたも、もう——」
「ヘレネ」
レオンの声は低かった。
「肋骨が折れかけている」
「……」
「このまま抱きつかれると、本当に折れる」
ヘレネの体が一瞬硬直した。
それから——ゆっくりと腕の力を緩め、半歩だけ体を離した。だが完全には離れなかった。両手がまだレオンの腕を掴んでいる。まるで離したら消えてしまうとでもいうように。
深緑の瞳が、至近距離でレオンを見上げていた。目が赤い。泣いてはいなかった。だが——泣く寸前を、意志の力でどうにか堰き止めている顔だった。
「……あの時、言えなかったことがある」
ヘレネの声は平坦に戻ろうとしていた。だが戻りきれていなかった。
「通路で振り返った時、言おうとした言葉。——『死ぬな』と。それだけ」
レオンは黙っていた。
それから、ヘレネの頭にぽんと手を置いた。
「死んでいない」
「——見れば分かる」
ヘレネはようやくレオンの腕から手を離した。一歩下がり、深く息を吸った。表情を整えようとしていた。等距離の面具を、もう一度被り直そうとしていた。
だが——遅かった。
周囲の騎士たちが、一部始終を見ていた。ヴァルトシュタインの騎士は主君を失った暗い目で。ザンクトハイムの騎士は呆れたような目で。テモティエは少し離れた場所で腕を組み、微かに苦笑していた。
ヘレネの耳の先が、赤くなっていた。
「——応急処置をする。動くな」
ヘレネは腰の革袋から包帯と薬瓶を取り出した。声は完全に実務的な平坦さに戻っていた。だが耳だけは赤いままだった。
レオンは黙って座り直した。ヘレネの手が正確に包帯を巻いていく。力加減はいつもより——明らかに丁寧だった。
◆◇◆
エヴィルは、少し離れた場所で——全てを見ていた。
テモティエの隊の後方に控えていたエヴィルは、レオンが遺跡から戻ってきた瞬間に駆け出そうとした。だがエルベルトの号令と、騎士たちの緊迫した空気の中では動けなかった。
そしてヘレネが先に走った。
エヴィルの紫の瞳が、ヘレネがレオンに抱きつく場面を捉えた。
足が止まった。
ヘレネ・フォン・ハルトマン。誰に対しても等距離の女。感情を見せない女。あの女が——レオン兄さんに抱きついて、震えている。
エヴィルの胸の奥に、小さな棘が刺さった。
ヘレネがレオンから離れ、包帯を巻き始めた。レオンの頭にぽんと手を置いた場面。ヘレネの耳が赤くなっていた場面。全部、見ていた。
エヴィルは自分でも分からない感情を押し込み、一歩を踏み出した。
ヘレネが包帯を巻き終えた直後だった。
「レオン兄さん」
レオンが顔を上げた。
エヴィルは目の前に立っていた。紫の瞳でレオンの全身を見つめた。泥と血と灰。灰色がかった蒼白い顔。罅割れた唇。——ヘレネが巻いた、真新しい包帯。
エヴィルは抱きつかなかった。
「——おかえりなさい」
声は静かだった。震えてもいなかった。
ただ、その三文字に——七年分の重さが込められていた。
「ただいま」
レオンが答えた。
エヴィルは小さく頷いた。それから、レオンの隣に腰を下ろした。何も言わずに、ただ隣にいた。
ヘレネを一瞥した。ヘレネの深緑の瞳と、エヴィルの紫の瞳が一瞬交わった。
ヘレネは何も言わなかった。エヴィルも何も言わなかった。
だがその一瞬の視線の交錯の中に——互いに、何かを認識した。
エヴィルは前を向いた。
胸の奥の棘に、今日も名前をつけなかった。
◆◇◆
ミーラが、おずおずと近づいてきた。
「あの……レオンさん。薬草を、少し持っています。エヴィルさんが出発前に渡してくれた革袋の中に——」
「ああ、それは助かる」
ミーラは革袋から薬草を取り出し、レオンの傷口に当てた。焼けるような痛みが走ったが、出血は止まった。
ミーラの黒い瞳が、ちらりとヘレネを見た。それからエヴィルを見た。二人の少女の間にある空気の変化を、学者の観察眼で敏感に感じ取っているようだった。
「……レオンさんは、その。お知り合いが多いんですね」
「別にそんなことは——」
「いえ、いいんです。何でもないです」
ミーラは眼鏡の位置を直し、薬草の処置に集中した。
◆◇◆
一時間後、野営地が畳まれた。
隊列が聖峰山脈の麓を離れた。
帰路は四日を要した。本来なら三日の行程だが、地竜を全て失った徒歩の行軍では限界だった。二日目の夜にヴァルトシュタインの騎士が一人、傷の化膿で動けなくなった。エルベルトは無言で担架を組ませた。三日目には水が尽きかけ、レオンが山中の湧水を探し当てた。
フィーロは行軍中も飄々としていた。時折竪琴を小さく鳴らしながら歩いている。騎士たちは最初こそ訝しげな目を向けたが、首領を二人失った今、旅の楽師一人に構う余裕はなかった。
四日目の夕刻。
帝都カルディアの城門が見えた。
◆◇◆
門衛が隊列を見て硬直した。
エルベルトが身分を告げ、三家への連絡を命じた。城門をくぐった後、隊列の前に立った。
「ここで解散する。ヴァルトシュタインの騎士は侯爵邸へ。ケルム・アルカナムの魔法師は天の秘院へ。三家への正式報告は俺が行う」
碧眼がレオンに向けられた。
「セレストームの四男坊。お前の証言は後日求める。帝都から出るな」
「逃げる理由がない」
エルベルトは鼻を鳴らし、背を向けた。
テモティエがレオンの傍に来た。
「報告の主導権をエルベルトが握った。遺跡で何が起きたかは、奴の口から三家に伝わる」
「分かっている。——今は休む」
フィーロが帝都の街並みを見回していた。
「わあ、焼き肉の匂い。お腹空いたなあ」
「……少し緊張感を持て」
「緊張してもお腹は空くよ」
テモティエとヘレネは隊の宿舎に戻ると言い、途中で別れた。別れ際にヘレネが振り返った。
「体が動くようになったら、学院に来なさい。訓練を見てやる」
「まだ肋骨が——」
「知らない」
ヘレネは背を向けて歩き去った。
◆◇◆
セレストーム家の屋敷に帰り着いた時、門前にローシーが立っていた。レオンの姿を見た瞬間、侍女の顔が蒼白になった。
「坊ちゃま——! そのお姿は——」
「大袈裟に騒ぐな。生きている」
「生きているって——そんな——」
ローシーが涙ぐみながら駆け寄ってきた。レオンは片手でローシーを制し、屋敷の中に入った。
風呂に入り、汚れを落とし、着替えた。それだけで体力の半分が消えた。
寝台に倒れ込んだ。
丸一日、眠り続けた。
◆◇◆
目が覚めたのは翌日の昼過ぎだった。枕元に水差しと果物と薬草が置かれていた。
さらに二日間、レオンはほぼ寝台の上で過ごした。エヴィルとミーラが交代で世話をしてくれた。ローシーは一日に何度も様子を見に来た。
その間に——噂は帝都を駆け巡っていた。
◆◇◆
最初に口火を切ったのは門衛だった。
三勢力の遠征隊が壊滅状態で帰還した。この情報が門衛の交代時に同僚に伝わり、同僚が馴染みの酒場で口を滑らせ、酒場の客が翌朝には坊市の露天商に話していた。
だが噂が最も激しく燃え上がったのは——帝都学院だった。
◆◇◆
帝都学院。
エルデンハイム王国の未来を担う若者たちが集う学び舎。三大貴族の子弟から平民の秀才まで、あらゆる階層の学生が在籍する。
その廊下で、講義室で、食堂で、訓練場で——噂は爆発した。
「聞いたか? 聖峰山脈の遠征隊が帰ってきたらしい」
「ああ。グスタフ・フォン・ヴァルトシュタインが死んだと」
「鉄腕の老侯爵が? 嘘だろう」
「嘘じゃない。ケルム・アルカナムのマルグリット・シュテルンも死亡した。二人同時にだ」
「——何がいたんだ、あの遺跡に」
これだけなら、単なる大事件の報せだった。だが噂には——もう一つの核があった。
「それだけじゃない。遺跡の中枢区域に最後まで残っていたのは、グスタフ卿とマルグリット殿と——セレストーム家の四男坊。三人だけだったらしい」
「あのレオン・セレストームか?」
「ああ。七年前に魔力が衰退して、一族の恥さらしって言われてた奴だ」
「あの出来損ないが——二人が死んで、一人だけ生きて出てきた?」
学院中がざわめいた。
◆◇◆
噂は一日ごとに枝を広げ、変形し、増殖していった。
「知ってるか? セレストームの四男坊が、遺跡の中で旧帝国の秘宝を手に入れたらしい。だから生き延びられたんだと」
「知ってるか? いや、秘宝じゃない。あの男は禁術を使ったらしい。寿命と引き換えに力を得る禁術だ」
「知ってるか? 違う違う。あの四男坊は七年前に魔力を失ったんじゃなくて、隠していたんだ。本当はとんでもない実力者だ」
「知ってるか? あの男は遺跡の中でグスタフ卿を見殺しにしたらしい。ヴァルトシュタインの騎士たちが激怒しているそうだ」
「知ってるか? 逆だ。グスタフ卿があの男を囮にしようとして、裏目に出たんだ」
「知ってるか? 全部デタラメだ。分かっているのは——二人が死んで、あの男が生きているということだけだ」
帝都学院の全域で噂が飛び交っていた。何しろ、三勢力の精鋭すら殺した遺跡から生還した男が——学院では「出来損ない」として有名な人物だったのだ。この落差が、学生たちの好奇心を刺激した。
最近のレオンは確かに目立っていた。魔斗会でセレーネ・ヴァルトシュタインを破ったのが最初。続いて覚醒種の鉄顎鰐を単独で足止め。そして今回——グスタフ卿とマルグリット殿が死ぬような場所から、一人で生還した。
もはや「出来損ない」の一言で片づけられる男ではなくなっていた。
◆◇◆
レオンが三日ぶりに学院に姿を見せた日。
テモティエとフィーロが門の前で待っていた。テモティエは壁に背を預けて腕を組み、フィーロは地面に座って竪琴の弦を調律していた。
「遅い」テモティエが言った。
「三日寝ていた」
「知っている。——体は」
「動ける」
学院の敷地に入った瞬間から、視線が集まった。すれ違う学生が露骨にレオンを見る。ひそひそ声。指を差す者。
「……人気者だな」テモティエが苦笑した。
「不本意だ」
フィーロが顔を上げた。
「ねえレオン、さっき廊下を歩いてきただけで、三回『あれがセレストームの四男坊?』って声が聞こえたよ。あと一回『思ったより普通じゃない?』って」
「普通で結構だ」
「僕もそう思う」
三人が訓練場に向かって歩き始めた時——前方から、集団が近づいてきた。
◆◇◆
五人の学生だった。
先頭に立つ背の高い青年。整った顔立ちに冷たい灰色の瞳。胸元には銀縁の紋章——ヴァルトシュタイン侯爵家の分家の紋。
「お前がレオン・セレストームか」
「そうだが」
「ルドルフ・フォン・ヴァルトシュタイン。侯爵家分家の三男。グスタフ卿は俺の大叔父に当たる」
レオンは黙っていた。
「遺跡の中枢区域で何があった。なぜ大叔父が死んで、お前が生きている」
「エルベルト殿に答えた。正式報告を待て」
「ザンクトハイムの嫡男が仕切る報告を鵜呑みにしろと?」ルドルフの唇が歪んだ。「ヴァルトシュタインの当主が死んだ場にいた男の口から、直接聞きたいと言っている」
後ろの四人が一歩前に出た。全員がヴァルトシュタインの紋章をつけている。
訓練場の周囲にいた学生たちが動きを止めた。
テモティエが一歩前に出ようとした。レオンが片手で制した。
「俺が答える」
レオンはルドルフを真っ直ぐに見た。
「中枢区域に、旧帝国が千年前に封印した存在があった。グスタフ卿とマルグリット殿は禁器を全て使い切ったが、通じなかった。二人とも——数秒で灰になった。俺が生き延びたのは、運だ」
「運だと?」ルドルフの声が上がった。「グスタフ卿が数秒で灰になる場所で、出来損ないのお前が運で——馬鹿にしているのか」
「ルドルフ。やめなさい」
声が割って入った。
訓練場の入口から——車椅子に乗った少女が現れた。
セレーネ・ヴァルトシュタインだった。
◆◇◆
魔斗会のバックフローで魔力回路を損傷し、療養中だったセレーネが、車椅子の上から冷たい翡翠の瞳でルドルフを見据えていた。
「セレーネ嬢——しかし——」
「祖父の死について、この人を問い詰めて何が分かるの」
セレーネの声は静かだが、反論を許さない硬さがあった。
「彼は証人であって加害者ではない。——ヴァルトシュタインの名を、こんな場所で安売りしないで」
ルドルフは拳を握りしめた。だが逆らえなかった。グスタフ亡き後、侯爵家の直系はセレーネだけだ。
「……失礼した」
ルドルフは踵を返し、五人が去っていった。
レオンはセレーネを見た。
「助かった」
「助けたんじゃない。ヴァルトシュタインの体面を守っただけ」
セレーネは車椅子の上で視線を逸らした。小さく付け加えた。
「……祖父のことは、後で聞かせて。二人きりの時に」
「ああ」
セレーネの車椅子が、侍女に押されて去っていった。
フィーロが小声で言った。
「あの子、強いね」
「……ああ」
◆◇◆
その日の午後。
ヘレネが訓練場に現れた。
「さあ、始めるわよ」
問答無用で木剣を投げ渡してきた。
「まだ肋骨が——」
「動けるなら問題ないでしょう」
木剣が唸りを上げて振り下ろされた。レオンは慌てて受けた。衝撃が肋骨に響いた。
「痛い——!」
「戦場で『痛い』なんて言ったら死ぬわよ」
ヘレネの深緑の瞳が、冷たく笑っていた。野営地で震えながら抱きついてきた女と同じ人間とは思えない。
訓練場の端でフィーロが竪琴を爪弾き、テモティエが呆れた顔で首を振り、ミーラが心配そうに立ち上がりかけていた。
訓練場の周囲に人だかりができていた。噂の渦中にいるレオン・セレストームが、美人の女騎士と訓練をしている。
「……見世物じゃないぞ」
「気にしないで。集中しなさい」
ヘレネの木剣が再び唸った。
◆◇◆
翌日。
学院の噂は新たな段階に突入した。
「知ってるか? セレストームの四男坊に、毎日訓練場で稽古をつけている女騎士がいるらしい」
「見たよ。背が高くて深緑の目の、かなりの美人だ。テモティエの隊の隊員だって」
「遺跡の遠征にも一緒に参加していたらしい。死地を一緒にくぐり抜けた仲だと」
「それだけじゃない。帰還する直前に、野営地であの女騎士が四男坊に抱きついたのを、ザンクトハイムの騎士が見ていたらしいぞ」
「嘘だろう?」
「嘘じゃない。泣きながら抱きついたんだと」
「あの出来損ないに——美人の女騎士が——?」
「それだけじゃないぞ。四男坊の傍にはいつも銀髪の少女がいるだろう。セレストーム家傍系のエヴィル嬢だ。あの子も四男坊にべったりだと」
「あと、大図書館の調査員の女性もいるらしい。黒髪の、眼鏡をかけた——」
「三人? あの男の周りに、女が三人?」
「おい、もう出来損ないって呼ぶのはやめろ。三勢力の遠征から生還した男だぞ」
「じゃあ何て呼ぶんだ」
「——知らん。だが出来損ないではない。それだけは確かだ」
◆◇◆
噂はさらに変形した。
「知ってるか? セレーネ・ヴァルトシュタインが、訓練場でレオン・セレストームを庇ったらしい」
「祖父を失った直後に、その場にいた男を?」
「分家のルドルフが詰め寄ったのを、セレーネ嬢が止めた。車椅子の上から」
「——セレーネ嬢はレオンを信用しているということか?」
「まさか——セレーネ嬢もあの男のことを——」
「四人目か?」
「いい加減にしろ。さすがにそれはない」
「だが否定もできないだろう——」
噂は真実と妄想を織り交ぜながら、学院の隅々に染み渡っていった。




