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錬金系の落ちこぼれ四男、辺境領主として無双する  作者: 穏やかな旅人


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【幕間・帝都カルディアの最も美しき宝石】

ヴァルトシュタイン侯爵邸の東翼は、朝の光が最も美しく入る場所だった。


白亜の壁に薄い金の縁取り。天井には蔦と百合を模した漆喰細工が巡り、窓は二重のアーチ型で、淡い緑色の硝子が外光を柔らかく濾している。床は乳白色の大理石で、歩くたびに靴音が上品に響いた。壁面には歴代当主の肖像画が並び、最も奥の一枚——銀髪を撫でつけた厳格な老人の肖像が、広間の全てを見渡すように掲げられていた。


グスタフ・フォン・ヴァルトシュタイン。


肖像の中の老侯爵は、灰色の瞳で正面を見据えている。その瞳には今も、鉄腕と呼ばれた男の威厳が残っていた。


だが——肖像の前に掲げられた黒い喪帯が、全てを物語っていた。侯爵は、もういない。


◆◇◆


帝都カルディアには、ひとつの定評がある。


——ヴァルトシュタイン侯爵家の嫡孫、セレーネ・フォン・ヴァルトシュタインは、帝都カルディアで最も美しき宝石である、と。


それは社交界の空疎な修辞ではなかった。事実だった。


淡い金色の髪は、陽光の角度によって白金にも蜂蜜色にも変わる。翡翠色の瞳は深く澄み、どんな広間の燭台の光の下でも、最も遠い席からですら見分けられるほどだった。肌は磁器のように白く、頬の線は古典絵画の天使のように柔らかい。立てば姿勢は糸で吊られたように真っ直ぐで、座れば絹の上に降りた花弁のように静かだった。


だがセレーネが「帝都カルディアの最も美しき宝石」と呼ばれる所以は、容姿だけではなかった。


社交の席での所作。誰に対しても同じ温かさと同じ距離を保つ微笑み。言葉遣いは柔らかいが芯があり、どんな相手にも品位を崩さない。門閥の令嬢たちが陰で牙を剥き合う帝都の社交界において、セレーネだけは——誰の敵にもならず、誰にも媚びなかった。心地よい温もりと、決して踏み越えさせない透明な壁。それを自然に両立させる少女だった。


帝都の若い貴族たちの間では、舞踏会でセレーネとワルツを踊ることは、その季節で最も名誉な出来事とされていた。


——だが今、その宝石は傷ついていた。


◆◇◆


東翼の二階、セレーネの私室。


天蓋付きの寝台。淡い絹の帳。窓際には読書用のシェーズロングが置かれ、壁の書棚には魔法学の教本と、フィーネが見舞いに持ってきた冒険譚が並んでいた。サイドテーブルの上には、花瓶に入った白いローズと、半分飲みかけのハーブティー。


セレーネは寝台の上にいなかった。


窓際のシェーズロングに腰掛け、膝に薄いブランケットをかけ、手元の処方箋に目を落としていた。


金色の髪を緩く編み下ろし、淡い水色の室内着を纏っている。絹地にごく薄い銀糸の刺繍が施された、ヴァルトシュタイン家の令嬢にふさわしい品だった。だが裾は実用性を重視して短めに仕立て直してあり、足元には柔らかい革のスリッパ。社交用の装いではなく、療養中の少女の普段着だった。


帝都カルディアの最も美しき宝石は今、誰の目にも触れない私室の中で、飾らない姿をしていた。頬にはうっすらと血の色が戻っていた。一週間前の蒼白さと比べれば——明らかに違う。だがまだ、舞踏会の夜の輝きには遠い。


「……ルナリア・ブルーム、シルバーリーフの根、ムーンモス」


セレーネは処方箋の文字を指でなぞりながら、小さく呟いた。あの少年の筆跡。迷いのない、素っ気ない字だった。


その時、扉がノックされた。


「お嬢様。準備が整いました」


侍女の声だった。


「入って」


◆◇◆


侍女のカタリナは、シルバーのトレイを両手で捧げて入ってきた。


トレイの上には、小さな磁器のポット、精製水のボトル、計量用のシルバースプーンが三本。そして——油紙に包まれた薬草の束が三種。


カタリナは寝台の脇の作業台にトレイを置き、手際よく並べた。長年セレーネに仕えてきた侍女は、薬の調合にも慣れていた。主治医の処方を何年も間近で見てきた女だ。だが——今回の処方箋は、主治医のものではなかった。


「お嬢様。——今日で四日目になりますが」


カタリナの声には、慎重な懸念があった。


「ええ」


「初めの三日間はハーフドーズでした。今日から本来の量に戻すと、あの処方箋には記されています。しかし——」


「しかし、何」


「ルナリア・ブルームの活性は依然として懸念されます。ハーフドーズであってもお嬢様の体に負荷がかかっているはずです。本来の量に戻せば——」


「カタリナ」


セレーネの声は静かだった。だが——柔らかさの奥に、反論を許さない芯があった。


社交の場で見せる穏やかな微笑みの裏側にある、もう一つの顔。祖父の血が作った顔だった。


「三日間、ハーフドーズを飲んだ。足の甲の痣が薄くなった。夜の冷えが減った。朝、起き上がるのに要する時間が短くなった。——これは事実?」


カタリナは口を閉じた。


それは——事実だった。


カタリナ自身が一番よく知っていた。三日前まで、セレーネの足の甲には青紫の痣が濃く浮き出ていた。今は——まだ残っているが、明らかに薄い。毎朝の着替えの際に触れるセレーネの手足が、以前より温かくなっていることも。


「あの少年の処方箋が正しかったことは、私の体が証明している。今日から本来の量に戻す。——異論はある?」


カタリナは数秒間、口を引き結んでいた。


やがて——小さく息を吐いた。


「……かしこまりました。ただし、煎じる過程は私にお任せください。量の加減だけは、私が責任を持ちます」


「ええ。お願い」


カタリナは姿勢を正し、作業台に向かった。


◆◇◆


カタリナの手が動き始めた。


まず精製水をボトルから磁器のポットに注いだ。透明な水が、白い内壁に沿って静かに満ちていく。ポットの底に小さなマナストーンを置いた。微弱な熱が精製水をゆっくりと温めていく。


沸騰させてはいけない。処方箋には「微温」と指定されていた。七十度前後——手を翳して、蒸気が薄く立ち上る程度。


カタリナはポットの縁に指先を近づけ、温度を確かめた。まだ足りない。マナストーンの出力を僅かに上げ、さらに一分待った。蒸気の薄い筋が立ち上り始めた。


「……ここです」


カタリナが呟き、マナストーンの出力を固定した。


次にルナリア・ブルームの花弁を取り出した。油紙を開くと、淡い青紫色の花弁が現れた。夜間に月光を浴びて咲く希少種。乾燥させた花弁は紙のように薄く、指先で持つとかすかに甘い香りが漂った。


カタリナはシルバースプーンで花弁を一枚ずつ取り上げた。一枚。二枚。三枚。四枚。——手が止まった。


ハーフドーズなら四枚。三日間、この量でやってきた。


「……八枚」


セレーネが言った。


「本来の量は八枚です。処方箋に書いてある」


カタリナの手が、僅かに震えた。ハーフドーズの四枚ですら、彼女にとっては冒険だったのだ。だが——セレーネの目を見た。翡翠色の瞳には、迷いがなかった。


カタリナは五枚目を取り上げた。六枚目。七枚目。八枚目。


八枚の花弁が、一枚ずつ微温の精製水に沈んでいった。水面に触れた瞬間、花弁の縁から淡い青紫の色が滲み出す。まるで水彩絵の具を落としたように——透明な水が、ゆっくりと色づいていった。


「少し待ちます。花弁が十分に開くまで」


カタリナはポットの傍に立ったまま、静かに見守った。


一分が過ぎた。乾燥して縮んでいた花弁が、水を吸って少しずつ広がり始めた。元の花の形に近づいていく。青紫の色はさらに濃くなり、精製水全体が淡いラベンダー色に染まった。


二分。花弁の繊維の奥に封じ込められていた成分が滲み出し始めた。液体の色がわずかに深まり、甘い香りが一段強くなった。カタリナはポットの縁に鼻を近づけ、香りを確認した。——長年の経験が、彼女に薬の状態を嗅覚で読む術を教えていた。


「……次に参ります」


シルバーリーフの根のパウダー。二つ目の油紙を開くと、灰白色の微細な粉末が現れた。指先で触れるとひんやりとした感触がある。これがバッファーだ。ルナリア・ブルームの活性を和らげ、サーキットへの衝撃を吸収する。


カタリナは処方箋を確認した。「比率は七対三」。ルナリア・ブルームが七、シルバーリーフの根が三。


シルバースプーンで正確に計量した。すり切り一杯——処方箋に記された量と寸分違わぬように。


粉末をポットに加えた。灰白色の粉が青紫の液体の表面に触れ、一瞬浮いた。カタリナがスプーンの先で軽く、ごく軽く押し込むと——粉が沈み始め、青紫の色と混じり合っていった。液体の色が僅かに薄まり、青と灰の中間の、名前のない色に変わった。


「処方箋には——ここで三十秒、自然に沈殿させると」


カタリナはスプーンを置き、手を膝の上に揃えた。三十秒。ポットの中では、シルバーリーフの粉末がゆっくりと沈みながら、ルナリア・ブルームの成分と結びついていく。液体が微かに揺らいでいる。表面に細かな泡が二つ、三つ浮かんでは消えた。


セレーネはシェーズロングから身を乗り出すように、ポットを見つめていた。薬が形を変えていく過程を見届けること。それが今の自分にできる、数少ない能動的な行為だった。


三十秒が過ぎた。


「最後のひとつです」


カタリナが三つ目の油紙を開いた。ムーンモス。細かく刻まれた苔は、わずかに銀色がかった緑で、光の加減で鈍い金属のような光沢を見せた。指先で摘むと微かに冷たい。


ポットに加えた。


ムーンモスが液体に触れた瞬間——変化が起きた。


液体の中心から、淡い光が生まれた。微かな——だが確かな、銀色の光。


カタリナの手が止まった。


光はゆっくりと広がっていった。ムーンモスの欠片が液体に沈みながら溶けていく。その過程で、三種の薬草の成分が精製水の中で初めて完全に出会い——反応が始まった。


青紫が薄れた。灰白が消えた。銀緑が溶けた。三つの色が混ざり合いながら——どの色でもない、新しい色が生まれていく。


銀青色。


「……美しいですわね」


カタリナが、思わず呟いた。


ポットの中の液体は、穏やかな銀青色に変わっていた。表面に微かな光が揺れている。磁器のポットの白い内壁がその色を反射して、作業台の上に淡い光の輪を作った。部屋の空気に、甘さと冷たさが入り混じった不思議な香りが満ちていた。


処方箋には「銀青に至れば完成」と記されていた。


カタリナはマナストーンの出力をゼロに落とし、ポットを火から下ろした。


「あと五分。冷ましてからお飲みいただきます」


主治医の処方では、こんな色は出なかった。主治医が半年間かけて調合した薬は、いずれも濁った茶色か、黄色がかった透明だった。効果は緩慢で、セレーネの症状を現状維持するのが精一杯だった。


あの少年の処方箋は——明らかに、通常の薬学とは異なる体系に基づいていた。


五分が過ぎた。カタリナはポットの縁に指を当て、温度を確かめた。唇に触れても火傷しない温度。


「……お嬢様。出来ました」


◆◇◆


その時、部屋の外から足音が聞こえた。


落ち着いた、だが存在感のある足音。


セレーネの翡翠色の瞳が、僅かに細まった。


ノック。


「セレーネ嬢。——分家より、ルドルフ殿がお見舞いに参られました。お目通りを希望されております」


廊下に立つ衛兵の声だった。


セレーネは処方箋を静かに裏返し、ブランケットの下に滑り込ませた。あの少年の名前が書かれた処方箋を、誰かに見られるのは——今は、望ましくなかった。


「……今は少し疲れていると伝えて。明日の午後なら、お茶の席を設ける、と」


拒絶ではなく、延期。そして「お茶の席」——正式ではないが、礼を欠かない形。セレーネは自然にその線を引いた。


「かしこまりました」


足音が遠ざかった。


セレーネは窓の外に目を向けた。侯爵邸の中庭が見える。整えられた庭園。噴水。石畳の小道。——祖父が好きだったローズの垣根が、秋の風に揺れていた。


ルドルフの顔が脳裏に浮かんだ。分家の三男。学院では優秀な成績を修め、剣術にも秀でている。祖父を失った悲しみは——本物だろう。少なくとも、全くの嘘ではないはずだ。


学院ではルドルフが訓練場でレオン・セレストームに詰め寄ったという話が広まっていた。フィーネが見舞いの際にそう伝えてくれた。分家の者として、遺跡で何が起きたのかを知りたかったのだろう。その気持ちは分かる。


——ただ、学院の訓練場で、学生たちの前で行う必要があったのかどうか。


セレーネには判断がつかなかった。ルドルフの中で、祖父への弔意と、分家としての焦りと、侯爵家への忠誠が、どんな比率で混じり合っているのか。——それを見極めるには、まだ情報が足りない。


「……カタリナ」


「はい」


「分家の動きは——どうなっている?」


カタリナは手を止めなかった。ポットの中の銀青色の液体をシルバースプーンでゆっくりと攪拌しながら、答えた。


「グスタフ様のご不在が確定して以降、分家の方々からのお見舞いが急に増えました。フルーツバスケット、薬草、書簡——昨日だけで四通の手紙が届いております。いずれも丁重なお見舞いの言葉ですが」


「……祖父がいた時には、年に一度の挨拶すら形式的だったのに」


セレーネは小さく息を吐いた。


「分家の方々が心配してくださっているのは、ありがたいことだわ。——ただ、後見人の話が出るのは時間の問題でしょう」


カタリナの手が一瞬止まった。——それから、何も言わずに攪拌を再開した。


「私が立てなければ、いずれ誰かが代わりに立つ。善意からであれ——そうでなくても」


「……はい」


セレーネは自分の手を見た。前より血色は良いが、まだ細い指。帝都カルディアの最も美しき宝石と謳われた手は、今は処方箋を握るのがやっとだった。


「……薬を」


「はい」


カタリナはポットから磁器のカップに液体を注いだ。銀青色がカップの白い内壁に映え、淡い蒸気が立ち上った。


セレーネはカップを受け取った。両手で包むように持ち、温もりを感じた。


「……あの少年の処方箋は、四日間で効果を出した。主治医が半年間できなかったことを」


カタリナは答えなかった。だがその沈黙の中に——否定はなかった。


セレーネはカップを唇に運んだ。銀青色の液体は、かすかに苦く、だが後味は清涼だった。喉を通り、胸の奥に落ちていく。数秒後——体の芯から、静かな温もりが広がり始めた。指先に。足先に。サーキットの末端まで、温かいものが届いていくのを感じた。


カップを置いた。


ふと——フィーネが伝えてきた学院のもうひとつの噂が頭を過った。


帝都カルディアの最も美しき宝石が、出来損ないと呼ばれた男を庇った——と。


セレーネは庇った覚えはなかった。たまたま訓練場を通りかかり、ヴァルトシュタインの名がこれ以上安く使われるのを止めただけだ。


だが——社交界で生きてきたセレーネは知っていた。噂とは、否定すれば燃え上がり、無視すれば自然に形を変えるものだ。


放っておけばいい。


「……今日の午後、大図書館の近くに出かける」


「お嬢様?」カタリナが顔を上げた。「お体が——」


「立てる。歩ける。——昨日よりも」


カタリナは口を開きかけ——閉じた。


セレーネの翡翠色の瞳には、もう迷いがなかった。だが——その決意の奥に、カタリナは見た。社交の微笑みでも、侯爵家の令嬢の威厳でもない、もっと個人的な何かを。


「馬車を用意して。——大図書館の前で降りる。そこからは歩く」


「……かしこまりました」


カタリナは一礼し、部屋を出た。


セレーネは窓の外を見た。秋の午後の光が、中庭のローズを照らしている。


ブランケットの下から処方箋を取り出した。あの少年の、素っ気ない筆跡を見つめた。


——レオン・セレストーム。


あの少年は、祖父の最期を知っている。自分がまだ聞いていない言葉を持っている。


そして——この処方箋を書いた。


セレーネは処方箋を丁寧に折り畳み、シェーズロングの下の小さなドロワーに仕舞った。


それから——立ち上がった。


帝都カルディアの最も美しき宝石は、まだ砕けてはいなかった。


昨日より、足に力が入った。

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