第123話 戦利品
撤退の準備が進む中で、問題が浮上した。
遺跡の中枢区域——楔の聖女が消え、防衛機構が沈黙した空間。その台座の周囲には、旧帝国時代の遺物が残されていた。レオンが意識を失う前に、青白い光の中で確認していたものだ。
レオンが報告した内容は、それだけではなかった。
「中枢区域の台座周辺に、旧帝国時代の遺物が複数存在する。結晶体を含む術式媒介物、紋様が刻まれた石板、旧帝国の銘入りの器具類。防衛機構が停止した今なら、回収は可能だ」
その言葉が野営地に落ちた瞬間——空気が変わった。
三勢力の騎士たちの目に、光が戻った。疲弊と喪失の重みに沈んでいた顔に、別の色が差した。遺跡の戦利品。千年前の旧帝国の遺物。——それがどれほどの価値を持つか、この場の全員が理解していた。
エルベルトの碧眼が、鋭く光った。
◆◇◆
回収隊が編成された。
エルベルトの命令で、三勢力から五名ずつ、計十五名が遺跡内部に再突入した。防衛機構が沈黙していることはレオンの報告通りで、老化の術式も罠も一切作動しなかった。千年の遺跡は、ただの巨大な石造りの空洞になっていた。
二時間後。
回収隊が戻ってきた。
野営地の中央に、遺物が並べられた。
旧帝国の紋様が刻まれた石板が三枚。術式の媒介に使われたと思しき結晶体が七つ。銀灰色の金属で造られた器具が十数点。紋様入りの巻物が数本。そして——蒼灰石で造られた小さな箱が二つ。中身は不明だった。
さらに、中枢区域の外周部からも遺物が回収されていた。旧帝国の武具の残骸。保存状態の良い鎧の断片。刻印が施された短剣。——そして、台座の脇に積まれていた、紋様が刻まれた平たい石。
レオンの目が——その平たい石に、一瞬だけ止まった。
灰白色の石板。表面に複雑な紋様が刻まれている。装飾品か祭祀用具のようにしか見えないが——レオンの胸元で、吊墜が微かに温かくなった。
地脈共鳴器テラフォーマー。
オグリが教えてくれた、旧帝国の辺境開拓用の魔法道具。地面に設置すれば地下のマナラインと共鳴し、荒れ地の魔力循環を活性化させる。不毛の土地を肥沃な農地に変え、弱い魔力の防護圏を形成する。旧帝国が短期間で版図を数倍に広げられた理由。
——だが、それを知っているのは、この世界でレオンとオグリだけだ。
他の全員の目には、ただの古い石板にしか見えていなかった。
◆◇◆
「分配を決める」
エルベルトが立ち上がった。
碧眼が遺物の山を見渡し、それから三勢力の生存者たちに向けられた。
「三家が共同で実施した遠征だ。戦利品は三家で均等に分配する。——異論はあるか」
ヴァルトシュタインの騎士長が口を開いた。
「当主を失ったヴァルトシュタインとしては——遺物の分配に異議はない。ただし、当主の遺品に関しては別だ。禁器の残骸は、ヴァルトシュタイン侯爵家に返還されるべきだ」
「当然だ」エルベルトは頷いた。「マルグリット殿の禁器の残骸も、ケルム・アルカナムに返還する」
ケルム・アルカナムの術士が静かに頷いた。
「では、遺物の分配に入る」
エルベルトの碧眼が遺物を一つ一つ確認していく。結晶体、石板、器具類。術士が簡易鑑定を行い、おおよその価値が見積もられていった。
蒼灰石の箱——中身が不明のため、最も価値が高い可能性があった。紋様入りの巻物——旧帝国の術式が記されている可能性がある。銀灰色の器具類——素材だけでも相当な価値。
分配は三勢力の間で、おおむね淡々と進んだ。グスタフとマルグリットを失った直後であり、遺物の奪い合いに興じる空気ではなかった。
だが。
「帝都学院探索隊の分配は——ない」
エルベルトがそう言った時、空気が止まった。
◆◇◆
テモティエが立ち上がった。
「待ってもらおうか」
エルベルトの碧眼が、テモティエに向けられた。
「お前たちは三家の遠征隊ではない。帝都学院の探索隊だ。遺跡の探索は三家が主導し、戦力を投入し、代償を払った。——お前たちに分配の権利はない」
「代償を払ったのは俺たちも同じだ」テモティエの声は低く、抑えられていた。「隊員が負傷し、装備を失った。——そして何より、レオンが中枢区域で楔の聖女を消滅させた。防衛機構を停止させたのは、三勢力の誰でもない」
エルベルトの碧眼が——僅かに、揺れた。
それは事実だった。中枢区域の遺物を回収できたのは、防衛機構が停止したからだ。防衛機構を停止させたのは——レオンだった。グスタフとマルグリットの命と引き換えに。
だがエルベルトは、その事実を認めることの意味を理解していた。
帝都学院の一生徒が遺跡の最終防衛機構を突破した。三家の長老二人が為し得なかったことを。——その功績を公式に認めれば、三家の面子が潰れる。ザンクトハイム家の嫡男として、それを容認するわけにはいかなかった。
「防衛機構の停止については、詳細が不明だ。グスタフ殿とマルグリット殿の攻撃が蓄積した結果、機構が崩壊した可能性もある。——現時点では、功績の帰属を確定できない」
テモティエの拳が——白くなった。
「本気で言っているのか」
「本気だ」エルベルトの碧眼は冷たかった。「お前たちは三家の護衛の下で帰路につくのだろう。——それが、お前たちへの報酬だ」
護衛という名の人質。先遣隊に使い捨てにすると言った男が、今度は護衛を報酬と呼んでいる。
エヴィルの紫の瞳に、怒りが燃え始めていた。ヘレネが唇を噛んだ。隊員たちの間に、張り詰めた空気が広がった。
その時——レオンが口を開いた。
◆◇◆
「エルベルト」
名前を呼んだ。敬称はつけなかった。
エルベルトの碧眼が、レオンに向けられた。先ほどの報告の時とは違う——警戒の色があった。あの報告の際、レオンは手段を明かすことを拒んだ。エルベルトにとって、この男は未知数だった。
「分配に口を出すつもりはない」
レオンの声は平坦だった。怒りは——押し込められていた。
テモティエが驚いた顔をした。エヴィルの紫の瞳が見開かれた。
「ただし、一つだけ貰い受ける」
エルベルトの碧眼が細まった。
「何を」
レオンの視線が——遺物の山の端に置かれた、灰白色の平たい石板に向けられた。
紋様が刻まれた石。装飾品か祭祀用具のようにしか見えないもの。回収隊が「価値不明の雑品」として、遺物の山の端に無造作に置いたもの。
「あの石板だ」
沈黙が落ちた。
エルベルトの碧眼が、石板を見た。それから、レオンを見た。
「……あの石板?」
ケルム・アルカナムの術士が石板を手に取り、表面を確認した。簡易鑑定を行い——首を傾げた。
「紋様が刻まれた石板です。旧帝国の祭祀用具か、装飾品の一種でしょう。素材は灰白色の霊石グラウシュタインで、辺境拠点で使用されていた石材と一致します。——術式的な価値は、現時点では確認できません」
「装飾品か」エルベルトの碧眼がレオンに戻った。「……術式的価値がない石板一枚。——それがお前の要求か」
「ああ」
エルベルトの目に——疑念が走った。
この男は、二人の長老が死んだ場所から一人で生還した。手段を明かすことを拒否した。そしていま、価値不明の石板一枚を要求している。
——何か知っている。
直感がそう告げていた。あの石板には、表面上の鑑定では分からない価値があるのではないか。この男だけが知っている価値が。
だが——証拠がなかった。
ケルム・アルカナムの術士が「術式的価値なし」と鑑定している。三勢力の誰もが、あの石板をただの古い石だと見なしている。この状況で「価値がある可能性がある」と主張すれば、根拠を求められる。根拠はない。あるのは、レオンに対する疑念だけだ。
そしてもう一つ——エルベルトの理性が、別の計算を弾いていた。
レオンが「分配に口を出さない」と言ったのだ。石板一枚を渡すだけで、中枢区域の防衛機構を停止させた功績を——帝都学院の探索隊が公式に主張しないという暗黙の了解が得られる。三家の面子は保たれる。代価は、価値不明の石板一枚。
(——安い取引だ)
エルベルトの碧眼から、疑念が——消えたわけではなかった。だが、理性が疑念を上回った。
「……いいだろう」
◆◇◆
エルベルトは腕を組み、レオンを見下ろした。
「石板一枚。それがお前の取り分だ。——他には何もない」
「十分だ」
レオンは遺物の山に近づき、灰白色の石板を手に取った。
重かった。見た目以上にずっしりとした重量がある。表面の紋様が、指先に触れた瞬間——微かに、温かみを感じた。
胸元の吊墜も、同時に僅かな温度を返した。
『——間違いない。地脈共鳴器テラフォーマーだ』
オグリの声は微かだった。背理石の力を使った消耗から、まだ回復しきっていない。
『良い判断だ、小僧。あの場で欲を出さなかった。それが正しい。——あの石板一枚の価値は、残りの遺物全てを合わせたよりも大きい。だが、それを知るのは儂とお前だけだ』
レオンは石板を鞄に入れた。
テモティエが近づいてきた。声を落として言った。
「——本当にいいのか。あの石板だけで」
「いい」
「お前が中枢区域で何をしたか——あの連中は分かっていない。グスタフとマルグリットが死んで、防衛機構を止めたのがお前だということの意味を——」
「分かっていなくていい」
レオンの声は静かだった。
「分配の場で功績を主張しても、エルベルトは認めない。三家の面子がそれを許さない。——ならば、実を取る」
テモティエは数秒間、レオンの顔を見つめた。それから——小さく息を吐いた。
「……お前はいつからそんなに老獪になった」
「遺跡の中で、少し老けた」
テモティエが一瞬、虚を突かれた顔をした。それから——掠れた笑いが漏れた。
「……笑えないな。本当に老けて帰ってきただろう、お前」
◆◇◆
エヴィルが歩み寄ってきた。紫の瞳が石板を一瞥し、それからレオンの顔に戻った。
「あの石板に何がある」
問いではなかった。確信だった。エヴィルは——気づいていた。レオンが無価値な石を選ぶはずがないことを。
レオンはエヴィルの紫の瞳を見た。
「……今は言えない」
「聞いていない。——お前が選んだなら、それでいい」
それだけ言って、エヴィルは背を向けた。
レオンは——少しだけ、口元を緩めた。
◆◇◆
ヴァルトシュタインの騎士長が、分配された遺物を確認しながら——ふと、レオンの方を見た。
あの少年が持ち去ったのは、紋様入りの石板一枚。価値不明の雑品。結晶体でも巻物でも蒼灰石の箱でもなく。
(——あの石板に、何かあるのか)
疑念は浮かんだ。だが騎士長は、それを口にしなかった。当主を失った直後のヴァルトシュタインにとって、今は石板一枚の価値を追及している場合ではなかった。帝都に戻り、後継者の問題を処理しなければならない。
ケルム・アルカナムの術士も、同様だった。石板の簡易鑑定は自分が行った。術式的価値は確認できなかった。——だが、あの少年の目。あの石板を手に取った時の、一瞬の温度。
(……旧帝国の遺物には、現代の鑑定術式では測れないものがある。あの石板が何なのか——帰還後に調査すべきかもしれない)
だが術士は、その考えを飲み込んだ。今は帰ることが先だ。
◆◇◆
分配が終わった。
三勢力はそれぞれの取り分を空間収納術式に収め、撤収の最終準備に入った。
エルベルトは天幕の前に立ち、遺跡の方角を見ていた。
正門の巨大な石柱。午後の陽光に照らされた黒い影。その奥の最深部に——二人の灰と、空になった台座がある。
あの石板。
エルベルトの碧眼が、微かに細まった。
(——あの男は何かを知っている)
確信はあった。だが証拠はなかった。そしてこの場で追及する意味もなかった。石板一枚で功績の主張権を放棄させた。取引としては——悪くない。
だが。
(——セレストルム家の四男。あの男の名は覚えておく)
エルベルトは視線を遺跡から逸らし、帰路の方角に向けた。
「全隊、出発する」
碧眼は——前だけを見ていた。
◆◇◆
一行が動き出した。
レオンは隊列の後方を歩いていた。鞄の中に、灰白色の石板が入っている。他の誰にも価値を知られないまま。
『小僧』
オグリの声が、微かに響いた。まだ消耗から回復しきっていない、掠れた声だった。
『あの地脈共鳴器は、成年礼の後——お前が領地を得た時に、本当の力を発揮する。荒れ地であればあるほど、効果は大きい。他の貴族が見向きもしない不毛の土地を——帝国で最も豊かな領地に変えることができる』
(……ああ。分かっている)
『結晶体や巻物は、金を出せばいずれ手に入る。だがテラフォーマーは——この世に残っているものが、もうほとんどない。あれ一枚の価値は、あの遺物の山の全てを足してもなお余りある』




