第118話 凡人の一撃
湖畔を離れたレオンとミーラは、聖峰山脈の麓に沿って遺跡の正門方面へと歩いていた。
レオンの体は限界に近かった。肋骨が軋み、魔力はほぼ空。武器は全て砕けて鞄の中にある。唯一の切り札である吊墜も、精粋の消化に追われてオグリが動けない。
だが足は止めなかった。
テモティエたちと合流しなければならない。フィーロの予言が正しければ——地上の三勢力は壊滅的な被害を受けているはずだ。その混乱の中で、テモティエの隊がどうなっているか。
「レオンさん、あそこに——」
ミーラが指差した先に、煙が上がっていた。
遺跡の正門から少し離れた平地に、野営の跡があった。天幕がいくつか張られ、その周囲に人影が見える。
レオンは足を止め、目を細めた。
人影は二十数名。三勢力の旗が見える。だがその数は、遺跡に突入した六十名には遠く及ばない。半数以上が失われていた。
そして——天幕の傍に、別の一団が座らされていた。
武装を解かれ、地面に膝をつかされている。
テモティエの隊だった。
「先に行く。お前はここで隠れていろ」
「でも——」
「お前が持っている文献を、三勢力に知られるわけにはいかない。俺が状況を見てくる」
ミーラは口を閉じ、頷いた。
レオンは岩陰を伝って、野営地に近づいた。
◆◇◆
岩の影から、状況が見えた。
テモティエが両手を縛られた状態で地面に座っていた。その横にエヴィル、ヘレネ、そして他の隊員たち。全員が武装を解除され、膝をつかされている。
レイノルドもいた。
ヴァルトシュタイン侯爵家の傍系子弟——カルディア町ではその名だけで一定の権威を持つ男だった。だが今は金髪が泥で汚れ、鎧の一部が欠けている。普段の尊大な態度は影を潜め、顔は蒼白だった。
レオンは眉をひそめた。レイノルドまで縛られている。ヴァルトシュタイン侯爵家の傍系であっても、庇ってもらえていないということだ。
三勢力の生存者たちが、テモティエの隊を囲んでいた。ヴァルトシュタインの騎士が十一名。ザンクトハイムが六名。ケルム・アルカナムが六名。合わせて二十三名。地竜は一頭も残っていない。鎧は亀裂だらけで、全員が消耗しきった顔をしている。
だがその消耗した二十三名でさえ、テモティエの隊を制圧するには十分すぎる戦力だった。
グスタフが天幕の前に立っていた。鎧を失い、剣を杖代わりにしているが、灰色の瞳の威圧感は健在だった。
マルグリットは椅子に腰掛け、疲労した顔で灰青の瞳を細めている。
そしてエルベルト。白銀の鎧は亀裂だらけだったが、碧眼にはいつもの冷たい光が戻っていた。
レオンはその男を初めて見た。だが——纏っている空気で分かった。神聖家族の人間だ。三大家族のさらに上に立つ者特有の、生まれながらの傲慢さが全身から滲み出ている。
◆◇◆
エルベルトがテモティエの前に立っていた。
「状況を整理しよう、隊長殿」
道端の虫けらを見るような冷淡さだった。
「我々は遺跡内部で甚大な被害を受けた。六十名の精鋭のうち、三十七名が失われた。地竜は全滅。装備の大半が使い物にならない。——だが、中枢区域にはまだ辿り着けていない。遺跡の最終防衛機構が我々を阻んだ」
テモティエは黙っていた。
「防衛機構は起動済みだ。だが一度起動した術式は、次に通過する際には弱まっている可能性がある。——再度の突入が必要だ」
テモティエの目が微かに見開かれた。エルベルトの意図が見えた。
「再突入には先遣隊がいる」エルベルトは淡々と続けた。「術式の残存状況を確認し、安全な経路を切り開く役目だ。——お前たちに、それを頼みたい」
頼みたい。言葉は丁寧だったが、選択肢がないことは全員が分かっていた。
「断る」
テモティエの声が響いた。
「我々は帝都学院の探索隊だ。三勢力の斥候にされる謂われはない」
エルベルトの碧眼が冷たく光った。
「隊長殿。お前たちは今、三家の保護下にある。遺跡の周辺には覚醒種を含む魔獣が跋扈している。三家の護衛なしに帝都まで帰還できると思うか」
テモティエは歯を食いしばった。事実だった。テモティエの隊だけでは、帝都への帰路すら危険だ。三勢力はそれを分かった上で、テモティエの隊を人質にしていた。
「もう少し直接的に言おうか」エルベルトは一歩、テモティエに近づいた。「遺跡内部の防衛機構で我々は甚大な被害を受けた。これ以上、三家の戦力を消耗するわけにはいかない。——であれば、消耗しても構わない人員を先に送り込むのが合理的だ」
消耗しても構わない人員。
その言葉が、野営地に静かに落ちた。
岩陰のレオンの拳が——白くなるほど、握りしめられていた。
◆◇◆
テモティエの隊員たちの顔が強張った。エヴィルの紫の瞳が鋭くなった。ヘレネが唇を噛んだ。
レイノルドの顔から最後の血の気が引いた。
ヴァルトシュタイン侯爵家の傍系。カルディア町では、その名だけで誰もが道を開けた。レオンのような者を見下し、セレストルム家を格下と嘲り、侯爵家の威光を笠に着て生きてきた。
だが今——侯爵家の直系であるグスタフは、傍系の子弟一人を庇う素振りすら見せなかった。直系にとって、傍系の価値は——この場では、学院の探索隊員と変わらなかった。
「先遣隊には三名が必要だ」エルベルトはテモティエの隊員たちを一瞥した。「隊長殿が選ばないなら、こちらで選ぶ」
「待ってくれ——」レイノルドが叫んだ。「私はヴァルトシュタイン家の者だ! 侯爵家の一員を、このような——」
レイノルドはグスタフの方を見た。助けを求める目だった。同じ家の血を引く者として、庇ってくれるはずだと——まだ信じていた。
グスタフの灰色の瞳が、レイノルドに向けられた。
冷たかった。
「傍系の子弟が、侯爵家の名を軽々しく出すな」
一言だった。それだけだった。
レイノルドの顔が——崩れた。
侯爵家の傍系。帝都から遠いカルディア町では大した存在に見えたその肩書きが、本家の当主の前では塵ほどの価値もなかった。
エルベルトが鼻で笑った。
「侯爵家の傍系か。直系にすら庇ってもらえないとは——哀れなものだな」
エルベルトの視線がテモティエの隊を舐めるように走り、三人を指差した。
「お前と——」レイノルドを指した。「お前と——」ヘレネを指した。「もう一名は隊長殿が選べ」
「やめてくれ——」レイノルドの声が震えていた。「あの中に戻ったら死ぬ。分かっているだろう——」
「だから先遣隊なのだ」エルベルトは冷淡に言った。「お前たちが死ねば、まだ危険だということが分かる。生き延びれば、道が開けたということだ。——どちらにしても、我々にとっては有益な情報になる」
エヴィルが立ち上がろうとした。紫の瞳に怒りが燃えていた。だがヴァルトシュタインの騎士が肩を押さえつけ、座らせた。
テモティエの拳が、縛られた手の中で白くなるほど握りしめられていた。だが——動けなかった。二十三名の戦力に囲まれたこの状況で、抵抗すれば全員が殺される。
その時だった。
◆◇◆
「随分と都合のいい話だな」
声が響いた。
野営地の端——岩陰から、一人の人影が姿を現した。
泥と血にまみれ、鎧は半壊し、武器は何一つ持っていない。満身創痍の姿だった。だが——まっすぐに歩いてきた。一歩一歩、揺らぐことなく。
「レオン!」テモティエが叫んだ。
「レオンさん——!」ヘレネが目を見開いた。
エヴィルの紫の瞳が——一瞬だけ、揺れた。安堵と、もう一つの名前のつけられない感情が交差した。
レイノルドは呆然とレオンを見つめていた。カルディア町の出来損ない。侯爵家の傍系として、常に見下してきた相手が——地下で死んだと思っていたその男が、武器もなく一人で三勢力の野営地に歩み寄ってくる。
グスタフの灰色の瞳が、レオンを捉えた。老侯爵の目に、かすかな興味の光が灯った。
マルグリットの灰青の瞳が細まった。
エルベルトは——鼻で笑った。
◆◇◆
「誰だ」
エルベルトはレオンを一瞥した。碧眼が、上から下まで舐めるように見た。泥だらけの鎧。武器なし。魔力の気配もほとんどない。
「帝都学院探索隊の行方不明者か。——生きていたとは、運がいい」
テモティエが口を開いた。
「レオン、こいつらは——」
「聞こえていた」レオンはテモティエの方を見ずに言った。「全部聞こえていた」
レオンの視線は、まっすぐにエルベルトに向けられていた。
エルベルトは腕を組み、レオンを見下ろした。六つ星の神聖術士と、武器も鎧もない学生。神聖家族の嫡男と、三大家族の四男。その差は歴然としていた。
「自分から出てきたということは、何か言いたいことがあるのだろう。——手短に言え」
「仲間を先遣隊に送り込むのをやめろ」
「やめろ?」エルベルトの眉が跳ねた。それから、笑った。「セレストルム家の四男が、神聖家族の決定に意見するか。——身の程を知れ」
「身の程は弁えている。だがこれは家格の話じゃない。人の命を消耗品と呼ぶ人間に、黙って従うつもりはないと言っている」
エルベルトの碧眼から、笑みが消えた。
「お前に拒否する権限はない。この場で発言権があるのは、三家の代表だけだ。セレストルム家の四男——それも家の中で居場所すらない出来損ないに、ここで口を挟む資格はない」
レオンは黙った。
事実だった。セレストルム家の四男。三兄よりも魔力が劣り、家族の中では存在しないも同然の扱い。神聖家族と三大家族の格差は帝国の秩序そのものであり、その三大家族の中ですら最底辺にいる。エルベルトには、レオンを見下すだけの家格がある。
だが——家格があれば、人の命を秤にかけていいのか。
「消耗しても構わない人員」。あの言葉が、まだ耳の奥にこびりついていた。テモティエが歯を食いしばった顔。ヘレネの唇の震え。エヴィルが押さえつけられた瞬間。レイノルドの——崩れ落ちた顔。
全部、見ていた。
レオンは顔を上げた。
「資格がなくても言う。——あの中の誰一人、お前たちの消耗品じゃない」
◆◇◆
エルベルトは一歩、レオンに近づいた。
「……大した口を叩く」
声は低かった。不快感が隠しきれていなかった。神聖家族の嫡男が、三大家族の四男に——しかも出来損ないと呼ばれる男に、正面から言葉を返されたのだ。
「三大家族。セレストルム。四男」エルベルトは指を折るように、一語ずつ吐き出した。「お前の血筋では、百年かけても神聖家族の末席にすら届かない。——分かるか? お前と俺では、見えている世界が違うのだ」
「見えている世界が違うなら、なおさらだ。お前の世界では、人の命が駒に見えるんだろう。——俺にはそうは見えない」
エルベルトの碧眼が、冷たく光った。
「……言葉で勝てると思っているのか。面白い」
エルベルトが手を伸ばした。
叩くのではなかった。掴むのでもなかった。——それ以上に屈辱的な仕草だった。
頬を軽く撫でるように、まるで犬の頭を撫でるように、上から手を伸ばした。神聖家族の者が、格下に対して行う所作。お前は対等な人間ではない、という意味の動作だった。
「教えてやろう、セレストルムの四男。お前の言葉には——」
レオンの中で、何かが切れた。
消耗しても構わない人員。その言葉が。テモティエたちの縛られた手首が。ヘレネの震えた唇が。——そして今、この指先が。人間を人間として見ていない、この仕草が。
全てが、一つに重なった。
◆◇◆
指先がレオンの頬に触れる寸前——。
レオンの左手が、エルベルトの手首を掴んだ。
掴んだのではない。叩きつけるように——鷲掴みにした。
エルベルトの碧眼が見開かれた。止められた。神聖家族の嫡男の手が——武器も魔力もない三大家族の四男に。
「離せ——」
レオンは離さなかった。
左掌の中心に——黒い渦が生まれた。
アビスパルム。物質を吸収する第一重。そして——魔力を吸収する第二重。
エルベルトの手首を通じて、体内のサーキットから直接魔力が引き出されていく。神聖術の基盤を形成する精緻な魔力が、レオンの掌の渦に一方向に流れ込んでいた。
「な——何を——」
エルベルトの声が裏返った。
腕を引き抜こうとした。だが引けない。左手が万力のように手首を掴んでいる。しかもその掌から、身体の魔力が急速に抜け落ちていく。四肢に巡らせていた強化術式が剥がれ、鎧に残っていた最後の魔力刻印が消え、指先が冷たくなっていく。
「やめ——やめろ! 何をしている!」
エルベルトが叫んだ。六つ星の神聖術士が——悲鳴を上げていた。
だがレオンの耳には、半分も届いていなかった。
怒りが、体の芯を焼いていた。いつもなら制御できる。いつもなら飲み込める。だが今は——飲み込む気がなかった。
三秒。五秒。七秒。
エルベルトの顔から血の気が引いていく。碧眼の冷たい光が——消えていく。六つ星の魔力が砂時計の砂のように、一方的に流れ落ちていった。
十秒。
——十分だ。止めろ。
だが手が離れなかった。もう少し。もう少しだけ。——この男が、仲間の命を消耗品と呼んだ、その分だけ。
十二秒。
——レオンは歯を食いしばって、左手を引き剥がした。
◆◇◆
離した瞬間——右手が動いていた。
考えるより先に。判断するより先に。体が勝手に動いていた。
エルベルトから吸い取った魔力が、右腕のサーキットを駆け巡る。枯渇していたはずの体に、六つ星の濃密な魔力が注ぎ込まれていた。
パァンッ——!!
乾いた音が、野営地に響き渡った。
レオンの右掌がエルベルトの頬を打った。吸収した魔力で強化された、容赦のない一撃だった。
剣ではなかった。拳ですらなかった。——平手だった。
お前の魔力で、お前の顔を張る。
エルベルトの体が横に吹き飛んだ。
三メートル。地面を転がり、泥の中に突っ伏した。金色の髪が泥にまみれ、白銀の鎧が地面に叩きつけられて、亀裂だらけの表面がさらに砕けた。
野営地が——凍りついた。
三勢力の騎士たちが、信じられないものを見るように立ち尽くしていた。ザンクトハイム家の嫡男が——六つ星の神聖術士が——神聖家族の人間が——武器もない三大家族の四男に魔力を吸い取られ、張り飛ばされた。
「魔力を……吸い取った?」
「あんな術式、聞いたことがない……」
「触れただけで六つ星の魔力を——」
騎士たちの間にざわめきが広がった。
テモティエの隊員たちも、全員が目を見開いていた。
エヴィルの紫の瞳が大きく見開かれていた。あのレオンが——感情を露わにして、人を殴った。
ヘレネが両手で口を覆っていた。
レイノルドは——口を半開きにしたまま、凍りついていた。
グスタフの灰色の瞳が、初めて——明確にレオンに向けられた。老侯爵の唇の端が、ほんの僅かだけ動いた。
マルグリットの灰青の瞳が見開かれ——それから、かすかに細まった。学者としての興味が、疲労を押しのけていた。
◆◇◆
レオンは右手を下ろした。
掌が痺れていた。エルベルトの頬を打った感触が、まだ残っている。
怒りの熱が——少しずつ、引いていくのが分かった。だが後悔はなかった。
エルベルトが泥の中から顔を上げた。碧眼が血走っていた。頬が赤く腫れ上がり、口の端から血が滲んでいる。だがそれ以上に——体中の魔力を吸い取られた虚脱感で、立ち上がることすらできなかった。
「き、貴様——セレストルムの分際で——俺の魔力を——」
レオンはエルベルトを見下ろした。泥の中で這いつくばる神聖家族の嫡男。六つ星の神聖術士。——数分前まで、他人の命を駒のように扱っていた男。
「消耗しても構わない人員、だったか」
レオンの声には、まだ怒りの余熱が残っていた。
「——お前が泥の中で這いつくばっている今の方が、よほどその言葉に相応しい」
静寂が落ちた。
エルベルトの碧眼が——揺れた。屈辱が、憎悪が、顔中に滲み出ていた。だが体が動かなかった。魔力を大半吸い取られた六つ星の神聖術士は、ただの蒼白な青年でしかなかった。
風が吹いた。遺跡の方角から、冷たい風が野営地を通り抜けた。
その時——。
「エルベルト殿」
グスタフの声だった。
低く、静かで、だが有無を言わせない重さがあった。
「見苦しいぞ」
三語だった。それだけで、エルベルトの口が閉じた。ザンクトハイム家の嫡男であっても、ヴァルトシュタイン侯爵家の当主の前では——まして、泥の中で這いつくばった姿では——何一つ言い返せなかった。
グスタフの灰色の瞳が、レオンに向けられた。
——興味だった。
武器もなく、鎧もなく、魔力もほぼ空だったはずの少年が、六つ星の神聖術士の魔力を触れるだけで吸い取り、その力で顔を張り飛ばした。しかも——怒りに任せて。神聖家族の嫡男を相手に、家格の差を承知の上で。




