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錬金系の落ちこぼれ四男、辺境領主として無双する  作者: 穏やかな旅人


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第117話 クィンテッセンツ

血の文字が——震えた。


静かに輝いていた「太陽」の文字が、突然振動し始めた。石壁全体が共鳴するように、低い唸りが広間に響く。


他の区域に比べ、ここは魔力の気配が最も希薄だった。だがこの瞬間、広間全体が隆々と鳴動し、遠方から刺すような光が流れ込んできた。


そして——文字の中から、一筋の光が流れ出た。


赤ではなかった。金でも白でもなかった。


言葉では言い表せない色だった。強いて言えば——透明に近い。だがその透明の中に、全ての色が含まれているような。見る角度によって変わる。光の中に光がある。周囲の蒼灰石の導線が放つ燐光は重く、華やかさとは無縁だった。だがこの一筋だけは——桁違いに輝いていた。他の百倍、千倍の密度がある。まるで千年分の魔力の全ての精華が、一点に凝縮されたかのようだった。


「何ですか——あれは」ミーラが息を呑んだ。


オグリの声が、珍しく震えた。


『クィンテッセンツの精粋だ。根源の中の根源。ラーの血の中でも——最も濃い部分が、今この瞬間に結晶化した。千年に一度あるかないかの——』


「天の精と地の髄が融合して——それが精粋!?」ミーラの顔が紅潮した。学者としての興奮で、蒼白だった顔に血の気が戻るどころか、頬が赤く染まっていた。「伝説上の存在です! 文献には『根源の精華は千百世に一度しか現れない』と——手に入れなかったら、学問の神に申し訳が立ちません!」


ミーラは普段の控えめな態度をかなぐり捨て、レオンの腕を掴んで叫んだ。


「レオンさん、あれを採取する方法は——何でもいいから——」


◆◇◆


だがレオンが動くまでもなかった。


首元の吊墜が——勝手に動いた。


レオンの意思とは無関係に、吊墜が前方に向かって水平に浮き上がった。チェーンが張り詰め、まるで吊墜が意志を持って精粋に向かって飛んでいこうとしているかのようだった。


「吊墜が——」ミーラが目を見開いた。


翡翠色の光が脈動し、吊墜がチェーンの限界まで伸びた。そしてそのまま——精粋の輝きに向かって飛んだ。


チェーンが首から外れた。


吊墜は一直線に精粋に向かい、その中に没した。透明な光の中に翡翠色が溶け込み——精粋を内側から吸い込み始めた。


ミーラは驚愕し、同時に興奮で叫んだ。


「す、すごい——精粋を吸収している!? レオンさん、あの吊墜は一体——」


レオンは答えなかった。答える暇がなかった。


オグリが精粋を吸い込んでいる。だが——その余波が、桁外れだった。


吊墜が吸収しきれない余波が、広間に溢れ出した。見えない圧力が四方に広がる。空気が歪み、石畳に亀裂が走り、天井から石片がばらばらと降り注いだ。


その圧力が——レオンの武器に当たった。


腰のクルツメッサーが、灼けるように熱くなった。鞘の中で刃が震えている。余波が金属に染み込んでいく。刃の表面から、じわりと透明な光が滲み出した。


美しかった。恐ろしいほどに、美しかった。


「レオンさん——!」ミーラが叫んだ。


背中の角弓も震えていた。弦が白く輝いている。弓の木材に、ひびが走った。


一本。三本。五本。


「弓が——」


轟音。


角弓が砕け散った。破片が広間に飛び散り、弦が弾け飛んだ。矢が矢筒から飛び出し、床に散乱した。


次の瞬間——クルツメッサーが限界を超えた。


刃が透明な光で満ちた。一瞬だけ、眩しいほどに輝いた。


そして——砕けた。鞘ごと。


キィンッ——と金属の悲鳴が上がり、破片が石畳に散らばった。刃が、まるで陶器のように割れていた。


◆◇◆


静寂が戻った。


吊墜が、ゆっくりと降下してきた。精粋の大半を吸い込み、残りの精粋は行き場を失って——砕けた武器の破片に纏わりついていた。吊墜は「浅く味わう」程度しか吸収しきれず、残りの精粋が破片の金属と融合し、絡みついている。


レオンは吊墜を受け止めた。温かかった。いつもより遥かに高い熱を持っている。脈打っている。まるで生きているかのように。砕けていなかった。亀裂一本、入っていなかった。


だが——武器は全滅だった。


銀貨七十五枚が、床に散らばっている。


レオンの表情は複雑だった。吊墜が精粋を捕らえたのは僥倖だ。だが苦心して買い揃えた武器が粉々になった。喜べばいいのか悔やめばいいのか、味わいが定まらない。


「レオンさん!」


ミーラが駆け寄ってきた。目が輝いている。興奮で声が裏返っていた。


「この破片——捨てないでください! これは好事です!」


「好事だと? 武器が全部砕けたんだが」


「砕けたからこそですよ!」ミーラは破片を拾い上げ、光にかざした。断面が微かに透明な光を帯びている。「大図書館の古記録にあります——第五元素に触れて砕けた金属は、普通の金属とは別物になる。精粋の痕跡が内部に刻まれた素材になるんです! これを素材として再錬成すれば——夢にまで見るような武器が作れます!」


ミーラは小さな拳を振り、目を星のように輝かせた。ほとんどレオンの耳元に噛みつかんばかりの勢いで叫んだ。


「錬金術師であるレオンさんなら、この素材の価値が分かるはずです! 精粋を内包した金属ですよ!? 大陸中の鍛冶師が一生かけても手に入らない素材が——今、床に転がってるんです!」


レオンは床の破片を見下ろした。


確かに——ただの砕けた金属ではなかった。クルツメッサーの欠片も、角弓の木片も、弦の断片も、全てが微かに発光している。精粋の余波を受けて砕けたことで、素材そのものが変質していた。


(——確かに、悪くない)


「全部回収しろ。欠片一つも残すな」


「はい!」


ミーラはレオンと一緒に、石畳に散らばった全ての破片を丁寧に拾い集めた。金属の欠片。木の破片。弦の切れ端。矢の残骸。全て、鞄に収めた。


◆◇◆


(オグリ)


返事がなかった。


(オグリ)


また沈黙。


吊墜を握った。温かい。脈打っている。確かに生きている。だが——声が返ってこない。


「……オグリ」


今度は声に出した。


しばらくして——吊墜が、微かに振動した。声が返ってきた。いつもより、遠かった。


『……消化している。しばらく待て』


「無事か」


『無事だ。ただ——今まで吸収してきたものとは、比べ物にならない量だ。処理に時間がかかる』


「どのくらいかかる」


『……わからない。その間、わしはあまり動けない』


◆◇◆


その時だった。


精粋が吸い取られたことで、広間の空気が一変した。


血の文字は石壁に残っていたが、光を失っていた。ただの——乾いた血の跡に成り果てている。千年分の力が、今日この場で吊墜の中に移った。


それと同時に——頭上で、重い音が響いた。


ゴゴゴゴゴ——。


天井のドームに亀裂が走った。精粋が失われたことで、この広間を千年間支えていた術式が崩壊を始めていた。天井から石片が降り注ぎ、壁面の蒼灰石の導線が一つ、また一つと消えていく。


「崩れる——!」ミーラが叫んだ。


だが同時に、ミーラの目が何かを捉えた。


「レオンさん、あそこ!」


広間の奥——精粋が抜けた跡に、壁面が崩落していた。崩落した壁の向こうに——通路が見えた。精粋が千年間この区域を封鎖していたのだ。それが取り除かれたことで、封鎖が解け、隠されていた通路が露わになった。


上に向かう通路だった。石段が、暗がりの中を上方へと延びている。


「脱出路だ——走れ!」


レオンはミーラの手を掴み、崩落する広間を駆け抜けた。背後で天井が轟音とともに崩れ落ちる。石の台座が粉砕され、血の文字が刻まれた壁が瓦礫に呑まれていく。


二人は石段に飛び込んだ。


全力で駆け上がった。ミーラの足首の痛みを忘れたかのように、二人は階段を上った。背後から崩壊の衝撃波が追いかけてくる。石段の壁面にも亀裂が走り、足元が崩れ始めた。


上へ。上へ。上へ。


石段が尽きた。


頭上に——光があった。


自然光だった。


レオンは最後の一段を蹴り、光の中に飛び出した。


◆◇◆


水が——あった。


二人が飛び出したのは、山麓の湖の畔だった。


遺跡の地下から繋がっていた排水路が、湖の底に通じていたのだ。レオンはミーラを抱えたまま水面を突き破り、冷たい水の中から顔を出した。


碧い湖面が広がっていた。澄み切った水が陽光を反射し、翡翠のように輝いている。水面に薄い霧が漂い、遠くの岸辺には蒼々とした古木が連なっている。


レオンは岸に向かって泳いだ。ミーラを引きずるようにして水から上がり、湖畔の草地に二人して倒れ込んだ。


しばらく、二人とも動けなかった。


荒い呼吸が、静かな湖畔に響いていた。


◆◇◆


「……生きてる」


ミーラが、仰向けに倒れたまま呟いた。眼鏡を失い、髪は水に濡れてぺたりと額に張り付いている。資料の詰まった鞄を胸に抱きしめたまま——大の字になって空を見上げていた。


「生きてます……私たち、生きてます……」


レオンも仰向けに倒れていた。全身の骨が軋んでいる。肋骨の痛みが戻ってきた。水に濡れた衣服が重い。だが——空が見えた。朝の光が、雲の隙間から差し込んでいた。


(——脱出した)


湖畔の古木が風に揺れていた。葉が擦れる音がする。鳥の声が聞こえる。生命の気配が、遺跡の死の静寂とは対照的だった。


レオンは体を起こした。


振り返ると、湖の中央あたりに、微かな渦が残っていた。地下からの崩壊の余波だろう。だが渦もすぐに収まり、湖面は再び穏やかな碧色を取り戻した。遺跡への入口は、完全に水没して消えていた。


「……テモティエたちは」


レオンは遺跡の方角——聖峰山脈の方を見た。山麓の向こうに、遺跡の上層部分の崩れた外壁が見える。だがここからでは、テモティエたちの安否は分からない。


「合流しないと」ミーラが体を起こした。「テモティエさんたちは地上のルートから入ったはずです。もし生き延びていれば、遺跡の正門付近にいるかもしれません」


レオンは頷いた。立ち上がろうとして——全身が軋んだ。肋骨がまだ折れかけている。魔力はほぼ空。武器は全て砕けて鞄の中にある。


満身創痍とはまさにこのことだった。


◆◇◆


ミーラが草地に座り直し、濡れた鞄から資料を出して乾かし始めた。学者の性分か、自分の体より先に資料を心配している。


レオンは隣に腰を下ろした。


しばらくの沈黙の後、ミーラが口を開いた。


「……あの、レオンさん」


「何だ」


「あの精粋——吊墜が吸収した分と、武器の破片に残った分。合わせると、相当な量の第五元素です。大陸中の学者が一生かけても触れることすらできない量が、今あなたの鞄の中にあるんですよ」


ミーラの目が、また輝き始めていた。濡れ鼠の格好で、眼鏡もなく、足首も腫れているのに——その目だけは、精粋を見た時と同じ輝きを放っていた。


「錬金術師であるレオンさんなら、あの素材から途方もないものが作れるはずです。それで——」


ミーラは咳払いをした。


「——ほんの少しだけ、研究用にサンプルをいただけませんか。ほんの欠片一つで構いません。大図書館に持ち帰れば、旧帝国の魔導工学の解明に——」


「研究用のサンプルか」レオンは鞄を叩いた。「構わない。ただし条件がある」


「条件?」


「お前が持っている旧帝国の文献。遺跡の設計図だけじゃない。大図書館で調べた千年の遺産に関する資料を、全て写しをよこせ」


「それは——!」ミーラが目を見開いた。「大図書館の機密資料を外部に——」


「お前が今ここにいるのは、俺が覚醒種を足止めしたからだ。遺跡から脱出できたのも、俺の吊墜があったからだ。——違うか」


ミーラは口を閉じた。


それから、むっとした顔をした。頬を膨らませ、濡れた前髪の奥から恨めしそうにレオンを睨んだ。


「……それは、その通りですけど。——強盗みたいなことを言わないでください」


「強盗ではない。等価交換だ。錬金術師の基本原則だろう」


ミーラはしばらくレオンを睨んでいたが、やがて——ふう、と息をついた。


「……分かりました。写しを用意します。ただし、引用する時は必ず『大図書館調査員ミーラ・ハスケルの協力による』と明記してくださいね」


「覚えておく」


レオンは立ち上がった。


湖畔の古木が陽光に照らされ、葉の間から光が差し込んでいた。遺跡の闇と死の静寂が嘘のような、穏やかな朝だった。


「行くぞ。テモティエたちと合流する」


「はい」


ミーラは立ち上がった。足首が痛むのか顔をしかめたが、レオンが差し出した手を掴んで体を起こした。


二人は湖畔を離れ、聖峰山脈の麓に向かって歩き始めた。


背後で——湖面が、最後にひとつだけ波紋を立てた。遺跡が完全に水没し、千年の封印が——今度こそ永遠に——閉じた音だった。


——了——

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